すばらしきこのせかい | ナノ

棺のような海に飛び込んだ


夢見が悪い、という表現はおかしいでしょうか。
眠るという感覚がない中で、寝起きに近い気だるさを感じました。
そうした時はまるで悪夢でも見たかのように心臓は五月蝿く、背筋に氷のように冷たい汗が伝い、こめかみが酷く痛むのです。
原因ならば分かっています。
自分が未だ奪われているものへの渇望でしょうか。
自分がこだわりを持っていたものです、執着するのは当然ですが、悲しいことに自分の中にはないのです。

「感情をひとつ失っただけで生き物というのは完全に狂えると思うのですが、どうでしょう?」

か細い声で訊ねてみたところで、答えてくれる方などはいません。
哲学を討論する相手など自分には居ないのですから。
居てくれたのは、遠い遠い昔のことでした。
自分が孤独を謳歌する羽目になったのは、きっと居てくれた人が居なくなったからなのでしょう。
いつまでも未練たらしくうじうじとしているのは明らかに自分らしい性質ではありませんが、夢見が悪いのですから仕方ありません。
これは決まって、『ゲーム』の前に現れる現象でした。
自分と南師さんが行っている余興のようなものではなくて、れっきとした仕事としての『死神のゲーム』です。
これが始まる前日は決まって夢見が悪い感覚に陥ってしまいます。
そしてそういう時には決まって、自分は生きてる人々が溢れているそちら側へと……、RGへと出ていくのです。
それはまるでUGからの逃避にも似ていましたが、逃れられないことは分かっています。
自分は子供ではないので、既に悟ってしまっています。
どうしようもないでしょう。

「自分は果たして、あなたに謝れる日が来るでしょうか。ああそれは自己満足でしかありませんね。ごめんなさい、ごめんなさい」

口から紡がれるのは嘲笑です。
いくら謝罪を申し立てたところでそんなのは自分だけが気持ちいい、詞の中でもそれこそ独り善がりなものだと自分は知っています。
自分がやって来たのはキャットストリートでした。
ここが一番の逃げ場所になっているのです。
最早生前に遡りますが、その頃によく通った道だとRGである際はいつもセンチな気分になるのです。
懐古など。
自分もさすがに歳でしょうか。
失礼な、そこまで老けては居ないはずです。

「いつになったら私を許してくれますか」

ある時を境に、自分は青い空を見つめるということをしなくなっていました。
それは別に、青空が嫌いだとか曇りや雨の方が好きだからとか、そういう訳ではありません。
不必要だったからです。
無意味だったからです。
別に青い空を眺めずとも自分は生きていけるし、世界は続いていくのです。
青である必要はないのです。
青を愛する必要はないのです。
だから自分は青空をゆっくり見つめようなんて思わなかったので、前だけ向いて生きています。
これは悪いことではないと思います。
前だけを向いて生きるというのは、酷く素晴らしいことだと自分は思うので。

だから自分は、この渋谷を前だけ向いて歩いていたはずです。

本当に青空なんて見なくたって支障はなく、視界の隅っこに入り込む僅かな澄んだ青だけで十分でした。
仕事に支障がでることだってないのですから。
青空を避けながら素質があった為に死神として生きていたこの数年間、自分はそれなりに楽しんでいると思います、この生活を、仕事を、自分自身を。

「なんて、清々しいくらいに、綺麗な青」

ある時を境に、自分は青い空を見つめるということをしなくなっていました。
それは別に、青空が嫌いだとか曇りや雨の方が好きだからとか、そういう訳ではありませんでした。
怖かったからです。
変わってしまうからです。
青い空の下でなければ自分は生きていけないし、自分の世界は歪んでいくのです。
青である必要があるのです。
青を愛する必要があるのです。
自分は青空を愛していたし、青色を愛していましたし、何より空を眺めているのが好きだったのです。
前だけ向いて生きるなんて、息が詰まってしまいます。
前だけを向いて生きるというのは、酷く素晴らしいことですが、生きることにも疲れてしまうでしょう、そうでしょう。
だから自分は、この渋谷で前だけ向いて疲れきってしまったのですから。
本当に青空なんて見なくたって支障はなく、視界の隅っこに入り込む僅かな澄んだ青だけで十分なんて、強がりなのです。
仕事に支障はありませんが、自分自身には支障があったのです。
青空を避けながら素質があった為に死神として生きていたこの数年間、自分はそれなりに楽しんでいると思っていました、この生活を、仕事を、自分自身を。
何度だって繰り返します、思っていたのです。

「いっそ、その青色に溺れてしまえたのなら」

自分は青空に手を伸ばしました。
今まで避けてきた青色を久方に見たのは、確かに彼とのゼロとイチとの狭間でした。
彼との最初でした、始まりでした。
青色を見つめてしまったのは彼のせいでした。
南師さんのオブジェを撤去しなければ、という最中にでした。
こんなの逆ギレも責任転嫁も甚だしいと思うかもしれませんが、キッカケという意味では間違いがありません。
自分が南師さんに関わってしまった理由にもなんとなく説明がつくのです。
彼が自分に『青』を見せたからなのです。
夢を見ていた自分に『青』を見せつけてみせたからなのです。
だから、全部全部南師さんのせいなんですから。

「……日読野御言?」
「え?」

その声に。
聞き覚えがあるその声に。
自分は驚いてうしろを振り向きました。

「南師さん……!?」

自分は更に驚きました。
当然です。
何故この人がここにいるのか分かりませんでした。
南師さんがRGで活動する理由などまるでないでしょうに。
だって、あんなオブジェをこちら側で作ってもみましょう。
本当の意味で撤去されますし、下手をすれば罪として扱われます。
南師さんの美学やら芸術性やらをRGの方々が理解してくれるはずもありません。
グラフィティとは違います。

「やっぱりお前か」

って、そうではないのです。
そうですけれど、そうではないのです。
南師さんのことを考えたその直後に、南師さんに自分の変化の責任を押し付けてみたところに南師さんがやってくるのですから、これは何か良くないものでも憑いていると思いました。
馬鹿馬鹿しいかもしれませんが、本気でそう思ったのです。
ですが、そうでした。
自分は彼に呪いを与えられたのですから、彼にまつわる自分の不都合が起こったところで何でもないのでしょう。

「何をしてる?」
「南師さんには、関係ないことじゃないですか」
「ああ、関係ない」
「だから話しません」

それでいいはずでしょう。
自分はあなたの領域を侵しません。
だから、あなたに自分の領域を侵しては欲しくないのです。

「言えよ」

なのにあなたはそう、どうして無遠慮なものか。
そこまで興味があるわけでもないでしょうに。
あなたは自分の両頬を片手で掴みます。
このまま押し潰される……とは生憎思えないような力だったのが嘆くことでしょうか。

「い、言います、言いますから離してください、暴力は良くないです、本当、自分痛いのは嫌いですって」

南師さんはひとまず、といったように自分を解放しました。
自分は渋々と、最低限を言葉にして伝えます。

「ここ、生きていた頃によく来ていました。弟と」
「それはどっちだ?」
「勿論、ない設定で」
「真実だけ話せ、フェイクはいらねぇ」
「…… 自分に弟はいませんよ、そんなありきたりな設定なんてありませんよ、むしろその設定だった方がいくらか笑い話にもできるでしょう、言葉を続けることだって出来たでしょう。それが出来ないのはきっと家族という言葉では表現もできず、他人という言葉でも表現ができないからなのだと思います」

自分は空を見上げました。
雲はひとつもありませんでした。

「幼馴染みでした。自分のパートナーでした。自分の孤独を覆い隠してくれていた人でした」

今は存在していません、その時点でお察しでしょう。
いつぞやのゲームに自分たちは勝利したはずですが、自分は死神として存在しているのに対してその人は存在していないことで、お察しです。

「自分はですね、常に彼に感謝していたんです。いつだって自分を引っ張ってくれていたから。いつだって自分を独りにしてくれなかったから。感謝すると同時に、自分は彼に申し訳なさを覚えていた。感謝とは罪悪感です。想いとは罪悪観です。きっと自分は、彼に申し訳なさを感じることで彼と一緒にいたのだと思います。そうすることで、ずっと一緒にいられるのだと思って」

だから、彼もそれもなくなってしまった時には、一斉に虚無感が押し寄せてきたものでした。
何もかもが無意味で、何もかもが不要になった気がしました。
自分は孤独になりました。
それが自分の始まりだったと言えば、確かにそうです。
執着していたものと、執着していたものを手離さないこだわりを持っていた自分の消失によって在るのが、今の自分です。

「あのね、南師さん。自分は変わりたくなかったのです」

自分は、自分です。
自分は日読野御言です。
それは変わらないはずです。
しかし、変わったと思ってしまうのは、何故でしょうか。
そしてそれを着実に受け入れてしまっているのは、やはり子供にはなりきれるはずもないからでしょうか。
でも、ワガママでも無理な願いでも良かったのです。
自分は、変わりたくなかった。
分かりたくなかった、そんなこと。

「ねぇ、南師さん。あなたが居るセカイは果たして、自分が変わらなくてもいいセカイなのでしょうか」

そうだとしたら、自分は。
きっと何もかもを拒絶してあなただけの味方になれるでしょうに。
けれど、それは無理なのだと分かっています。
自分はあなたの味方にはならないし、あなたも自分の味方にはならない。
見ているものは違いますから。
感じているものは違いますから。
自分と彼の関係というのは、限界まで高める為の余興の遊び相手でしかありません。
所詮はそうなのです。

「南師さん、お願いです。答えてください、お願いです、……答えて、南師さん」

気が付けば自分は涙を流していました。
南師さんはどうやら目を見開いて驚いているようにも見えましたが、滲んだ視界の中で自分に見せた錯覚かもしれません。
ですが、もし驚いているのだとしたら酷い話ですし、失礼な話です。
自分は人並みに感情があります。
自分は人並みに表情があります。
それがどうも理解されないのはきっと、自分がいつも独りでいるからなのでしょう。

「ああくそっ……、ゼタうぜぇ!」

南師さんに、乱暴に頭を掴まれました。
そこから更に強引に引っ張られます。
ただ掴まれるだけよりもずっとずっと痛いです。
いよいよこれは潰されるな、消されるなと思いました。
彼は自分に失望したでしょうか。
きっと彼は、自分を気に入ってくれていたと思います。
少し自惚れて物を語ってみるとしたのならば。
きっと彼は、自分を理解に至ることのできる人物だと思ってくれていたと……思います。
期待を持たれていたのでは、ないかと。
だから、感情の檻をぶっ壊してしまった自分というのはあまりに人間過ぎやしませんでしたか。

「……南師、さん?」

しかしいつまで立っても自分の想像した痛みというものはやって来ませんでした。
むしろ、想像すらしていなかったものが自分の頭上に降りかかりました。
南師さんの顔が、自分の頭上に押し当てられました。
いえ、少しこの表現は適切ではないかもしれません。
もっと簡潔に、もっとすんなりと入り込む言葉にしましょうか。
言ってしまえば、南師さんの唇が、自分の髪に触れた訳ですが。
まるで嘘のような言葉です、まるで自分が自分に虚言を吐いているかのようではありませんか。
しかし、その温もりは偽りではありませんでした。
確かに、そこにあるものでした。

「……」

自分は、彼の接吻に照れることはなく、むしろ微笑ましい気持ちになってしまいました。
こんなことで甘酸っぱくなる感情を抱えるほど若くはないのでしょう、完全に枯れている訳ではありませんが。
それでも微笑ましい気持ちは消えずに、肥大するばかりで。
彼は言葉にして答えるなど無理だったのでしょう。
だからこうして、行動で応えるしかできなかったのでしょう。
それが、どんな意図を持っているのか残念ながら自分は分かりませんでしたが。
くすくすと笑いながら、自分は南師さんを見上げました。

「……随分、可愛らしいことしますね」
「はっ……、」
「らしくないことしてまで自分を元気付けようとしてくれたんでしょう?その行動が、ああ、何て言うんだろう……敵わないなぁ」

自分は酷く穏やかな気持ちでした。
ああ、独りではないとは何と心地が良いのでしょう。
独りで良いだなんて……自分がまるで馬鹿のようです。
いいえ、もしかしたら、それは彼だからなのでしょうか。
答えはありませんし、知る必要もありません。
ただ、彼といるのは落ち着いて、彼に日毎惹かれているのは確実でした。
彼の明晰性や正確性は、自分の抽象性や曖昧性を色濃くさせて、自分の個性を強めていくのです。
その高まりの、なんと心地の好いことか。

「ミコト」
「はい、何でしょう」
「俺はもっと上に行く。お前が俺のオブジェを破壊されないまでの完璧さを続けなくともだ。俺はそこよりもずっと、上に行く」
「……ああ、確かにあなたは指揮者にまでなれそうですよね。能力として言えば。協調性はないから死神たちを束ねられるのかは些か疑問ですけれどね」

自分がそう言うと、南師さんは笑った。
馬鹿にする訳ではなく、子供に分からせるための笑みに似ていました。
けれど、自信に満ちたその笑みは、やはり南師さんのものでした。

「いいや、もっと上だ」
「もっと上って、」

あえて口には出しませんでした。
口に出さすとも、それが彼の望むものであればそこをわざわざ言葉にしなくても彼には伝わると思いました。
実際、彼はその表情を変えようとすらしていません。

「ああ……それは、なんというか、頑張って下さい、としか」
「なるほどな、協力する気はないと」
「協力」
「馬鹿馬鹿しいか。らしくはないか」

南師さんは自分に手を差し伸べてきました。
それは誘いの手なのでしょうか。
自分は彼に誘われているのでしょうか。
彼が統治するこのセカイ?……なんとまあ。

「南師さん」
「どうだ、ミコト」
「やはりあなたは自分の領域には来れませんよ」

自分は笑ってしまいました。
耐えられませんでした。

「自分を言葉で誘うだなんて。そんなの4年早いですよ?」

南師さんは気難しそうな顔をしています。
やはり、南師さんの多少無理のある冗談だったようです。
自分の言葉は、自分からしてみれば彼への最大の意地悪でした。
言葉に限定して云うのならば、永遠に埋まることのないその時間という絶対的なものによって、自分の言葉が構築されている訳ですので……、つまりどれだけ時間が経とうとも彼は自分に追い付くことはない、ということになります。

「……やっぱり他人の領域を無理矢理組み入れようとするもんじゃねぇな。俺の自我同一性が穢れる、曇る」
「大体ですよ、そもそもですよ。仮にあなたが本気だったとしても、自分は孤独な詩人なものですから誰とも組むことなんてしませんよ。ずーっとひとりぼっちです。あなたも、そうですね?」
「ミコトの言葉で言えば孤高か。……そうだな、独りだとか不要だとかというよりも、必要じゃねぇな。他人の価値観も思考も行動も」
「そうですそうです!それが南師さんです!いいじゃないですか、自分たち、ずっと独りで!」

第一、想像してみてもください。
自分たちが協力関係になる理由なんてこれっぽっちもありません。
いくら自分でも、妄信的に南師さんの為に動くなどありえません。
それよりは、自分の生命活動を優先していざという時には彼を裏切ることの方がずっとずっと現実的です。
裏切ったところで、自分は軽く「ごめんなさい」で済ませてしまうのですから。

「自分ならばあなたの捨て駒となれるのでは?」
「お前ならば俺の描いた盤上にあげられるのでは?」

自分と彼は笑い合いました。
ほぼ同時に吹き出しました。

きっと、考えることは同じだったのでしょう。


ああ、まさか!そんなはずはない!!

と。


───まだゲームは始まっていません。

これは猶予期間の話でした。

これはゲームが始まる前の話でした。
ゲームが始まる、その1週間前からの話でした。

そしてこの話は句点を打たれ、終わります。
次からはきっと、長い長い7日間の話をするのでしょう。

いつになるかは、分かりません。

ただ、これだけは伝えましょう。

日読野御言は変わりません。
ずっとこのままです。
ずっとずっと、南師猩という名前の彼を、慕い続けています。

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