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溶け出した太陽のいろ

呼吸をするのも苦しいほどの暑さの中で、彼女は全身に熱を集まる色をしたパーカーを着込みながら、人の群れを器用に潜り抜けていく。
まるで裁縫でもするように、布に針と糸を通すように、すり抜けて、すり抜けて。
片手に持ったビニール袋をチラチラと横目で見ながら目的の場所まで彼女の足は迷いなく進んでいた。
目的の場所とは言うが、約束の場所でもなければ目的の場所でもない。
彼女が多分、恐らく、きっとと仮定した、彼が居るかもしれない場所へ足を運んでいるだけだ。
彼女は彼の痕跡を見つけるのは得意だったが、彼自身を見つけるのは得意ではなかった。
彼の方からふらっと根無し草のように現れるのが常だったので、彼女から見つけられたのは数えられる程度だ。

「いるといいけど……、いなかったら勿体ない……」

ビニール袋が擦れる音に目を向けながら、彼女にしては大きな声での独り言を呟く。
それでもすれ違う人の群れは彼女の言葉にも気付かない。
彼女は頭では分かっているが、逸る感情を抑えられずに無償に叫びたい気持ちにさせられる。
わーっだの。
あーっだの。
溢れる音は何でも良い、そこが重要なのではなく、大声を上げるというのが重要で、彼女にとってはそれがストレス発散と同意義になる。
ストレス発散は、少し違うだろうか?
彼女は別に心労か何かを抱えている訳でもない。
ただ、なんとなく、叫びたくなってしまっただけで。
きっと、暑すぎるせいだろう、脳味噌が溶けかけているのかもしれない。
彼女は自分にそう言い聞かせながら、人の波をぶつからないようにすり抜け続けた。

「2つも食べたら、お腹壊しちゃうかもしれないけど……、……溶けてなくなっちゃうよりはずっといい……」

いつもは規則正しい呼吸も、どこか落ち着かずに荒れている。
呼吸が苦しいのは暑すぎるのと動いているせいなのがあるかもしれないが、落ち着かないのは何故だろう。
自分の行動に、感情に、彼女は説明が付けられていない。
だからだ、だから気持ちが悪い。
とても、もやもやとしている。
言語化できないのは自分自身のことが分かっていないようで苛立ってしまう。
自分自身のことを把握していなければ自分が次に取るべき自分らしい行動というものが取れずにその場に足踏みしてしまう、彼女はそうだ。
それでも今、迷わずある地点まで目指しているものだから、これを気持ち悪いと感じてしまうのだ。
しかしこのような行動を不安に感じながら、好ましいとも思っている節がある。
変化を求めるよりも現状維持が彼女にとっては平穏のはずだが。
それが崩れているからこそ、言語化ができない靄掛かったものを抱えるのだろう。

「……あっ」

その靄が、ふっと晴れたような感覚が彼女の中に唐突に落ちる。
難しく考えてこんがらがった糸屑の束が些細なきっかけでするっと解けたみたいだ。
目的の場所には彼の痕跡がある。
彼の新しい作品がある。
やはり自分は彼の作品を見つけることだけは得意なようだと、彼女はほんのり上機嫌になる。

「南師さん!!」

念願叶って彼女は今日一番の音で彼のことを呼んだ。
幸運なことに、彼は自身が製作したオブジェの頂上に腰を掛けて居座っているようだった。
彼は背中を向けていたが、彼女にしては大きい声にすぐ気が付いたようですぐさま振り返る。
その顔は、──その顔も、彼にしては、彼らしいとは思えない顔をしていた。
金色の目をやや見開いて、口をぽかんと開けている。
自分の中にある予想、考え、価値観、概念、……そういったものが一瞬だけ壊されてしまったような、驚いているという表情。
不意打ちを喰らった青年の無防備な顔だ。
彼女はそんな彼の表情を気にかけることはなく、そこにいたことをただ喜び笑顔になった。

「南師さんっ!よかった、いました!!」

そしてもう一度、彼の名前を呼ぶ。

「……なまえか?」

彼は彼女によって壊された表情をそのままに、瞬きを数回繰り返しながら彼女の名前を呟いた。
彼にしては威勢のない聞き返し方に彼女は首を傾げながらも、「はい、そうですよ」と笑う。

「みょうじなまえですよ!ああ、よかった、無駄にならずに済みました!」

彼女は笑ったまま、大事に片手に握っていたビニール袋の中から、青い長方形の袋に包まれたものを差し出した。

「どうぞ、南師さん!ソーダ味、お好きだと嬉しいんですが」
「……アイスか?」
「ええ、アイスです。暑いですから。……そこは特に、お日様に近いから暑いだろうなぁと思って。呼吸も、苦しいくらいの暑さです。気休めですが、ごっこかもしれませんが、アイス食べないかなと思って。差し入れのつもり、なんですが」
「……素数かよ」
「?はい」

よく分からないなりに彼女は笑いながら頷く。
そして、彼は彼の方からオブジェの頂上を降りてはこないだろうとも考えていたので、ここまで大事に運んできたアイスを自身の「糸」にくくりつける。
そのまま彼の元まで届ければいいと考えていたが、どうやら彼の考えとはそこには無かった。

「おい、なまえ。上がってこい」
「……上がる?」

首を傾げながら彼女が見上げている間にも、彼は「早くしないと潰す」などと物騒なことを言っている。
上がってこいとは何処にだとも思うが、彼女もそこまで馬鹿ではない。
しかし、いきなり行動に移すほど命知らずでもない。
この辺りに上がれそうなものなど、目の前にある彼の作品くらいなものだ。

「お前の糸なら上がってこれるだろ」
「……南師さんの隣ですか?」
「この上だ」
「なるほど」

なるほど、とは答えたものの、結果として彼が示したのは彼の隣と何ら変わりがない。
彼の作品の上だ。
彼女からしてみれば、いずれ壊す作品。
そして彼が作った尊い作品のひとつだ。
そこに土足で上がるということを考えただけで、彼女の喉元はきゅっと絞まるような感覚に襲われる。

「おいなまえ、早くしろ。それも溶けるぞ」
「あ、は、はい」

しかしこのままでいても、物理的に絞められかねない。
いいや、もしかしたら彼が先ほど言ったように潰されるかもしれない。
それは勘弁願いたいと彼女は素直にオブジェに足をかけて、上がっていく。
そういえば、作品の頂上に上るのは初めてかもしれない。
いつもは外観をくるりと見回してから壊すだけの作業だった。
上ろうなんて考えには絶対に至らないし、今こうして上る間に緊張が彼女の中に走る。

「の、上りました、南師さん」
「見りゃ分かる」
「えーと、はい、では、改めて。どうぞ。本当に暑いから、溶けちゃいます」
「ん」

「糸」ではなく、手渡しで彼女はアイスを差し出す。
それを彼は大人しく受け取ってくれるものだから、彼女は少し驚く。
さすがの彼も暑かったのだろうか。
首筋にはうっすら汗がにじんでいるようで、ああ、この距離だとそんなことまで視界が捉えてしまうんだなぁと彼女は慌てて目をそらす。
アイスはまだ溶けていなかった。
食べているうちにどろどろと氷が地面かオブジェの上に落ちてしまいそうだと思ったが、地面はともかく作品であるオブジェの上には落とすわけにはいかないだろうと、彼女は慎重に水分を吸い込みながらソーダの甘味を残す氷にかぶりつく。

「……南師さん、美味しいですか?」
「悪くない」
「なるほど、じゃあよかった」

彼が何かを食べている姿というのはあまり見られるものじゃない。
何度か時間やタイミングの気まぐれで、食事を共にすることはあったが、そうまじまじと見れるものじゃない。
アイスを食べている彼の姿は率直にいって、彼女の中では「似合わない」と思ってしまう姿だった。
と、同時に年相応だと微笑ましい気持ちになる。
年上面をすると何故か彼は理不尽に彼女に分からない数学用語で罵ってくるので、困りものだが。
彼女は声には出さず、口元だけを緩めてみる。

「なまえ」
「はい、あっ、食べ終わりました?ゴミ、捨てていいですよ?ビニール袋の中。あとでオブジェと一緒に処理しておきますから!なーんて、うっ!?」

彼女にしては少し冒険したおどけ方をしてみせたところ、反応は即座に返ってきた。
衝撃ではない。
痛みではない。
暗闇だ。
おどけて笑って見せた次の瞬間には目の前が真っ暗になっていた。

「み、南師さん?怒りました?冗談です、いいえ、冗談ではないんですけれど、ええと、これは……あれ……ええと?」

彼女が思わず自分の頭部に触れると、そこには慣れないものが覆い被さっている。
そういえば、僅かに頭の上に重量感がある。
少しずらしてみれば、彼女の視界はすぐさま開ける。

「……キャップ……」

どうやら彼のキャップを頭に被せられたらしいというのはすぐに分かった。
そういえば、前にも彼のキャップをいきなり背後から被せられたことがあったということを思い出しながら、彼女はキャップの位置を整える。

「南師さん?」
「てめーの目は節穴だな、ヘクトパスカル」
「ええ……?」
「まだこいつは完成してねぇ、まだ制作途中だ、途中でぶっ壊すのはルール違反だな?なあ?」
「……ああ、そうだったんですね、それは……ええ、ダメですね」
「だろう?」

得意気に笑った彼に彼女はうんうんと頷いている。
頷きながら、それでは自分は制作の邪魔になるからこの場を離れた方がいいだろうと考えた。
しかし、キャップを外してオブジェから降りようとしようものなら、咄嗟に頭を彼に掴まれる。
咄嗟に。
今度は痛みだった。
キャップも外しているので痛みを緩和してくれるものは何もなかった。
痛みはそのままこめかみに直通する。

「いっ、たいです!南師さん!?何ですか……!?制作のお邪魔かと思って帰ろうと思ったんですが……!?」
「うるせぇ」

捨てるように頭を掴んでいたのを解放はしたが、彼はふいとそっぽを向いた。
子供が取りそうな行動に、彼女は目をぱちくりとさせながら、先ほどぶりの、とにかく無性に叫んでみたい気分になった。
しかし、ああ、ここでは音ではないだろうと思う。
もしかしたら、自分だけではなくて彼も暑さにやられているのかもしれない。
脳味噌が溶けかかっていて、そこへ差し出された冷たいアイスのお礼に制作している場を見せてくれるということだろうか。
いいや、そんなギブアンドテイクを彼はするだろうか。
それこそ、脳味噌が溶けていないとできないかもしれないと彼女はなかなか失礼なことを考えながら、しかしくすりとひとつ笑いを落とした。

「あの、南師さん。見ていてもいいですか、この作品を作るところ。圧倒的な芸術が完成するところ」
「……なまえに理解できるとは思えねぇがな」
「ええ、自分、文系ですから。でも、南師さんのやっていることを自分の立場に置き換えることはできます」
「なるほどな」

なるほど、とは言うが、そんなことは彼も分かっているはずだと何故か上機嫌になっている彼の横顔を見ながら彼女は小さく首を傾げる。

「それで、南師さん……キャップ、」
「要らねぇ」
「いらない……」
「お前が被っていろ。どうせ暑いんだろう。熱にやられて倒れられても俺は面倒なんて見れねぇからな」
「でしょうね……!!」
「……」
「いえ、何でも」
「……アイスなんて食うのは、暑いからだ。お前が買ってきたってことは、お前も暑かったんだろう」
「……そりゃあ、今日は暑いですもの」

彼の言葉は拙い。
彼は賢いが、人に分からせるように喋ることが苦手だからだろうか。
しかし、それでも分かりやすい時は分かりやすい。
特に彼女は、彼の言葉の無意味さを、その意図を解くのが好きだった。
否、慣れていた。
言葉のないコミュニケーション。
それは難解だが、解くことは可能だ。
まるで、彼自身や彼の作品のように。

「じゃあ、お借りしますね、ありがとうございます、南師さん。南師さんも暑くなったら、くらくらしたらすぐに言ってください」
「ゼタうぜぇ。俺となまえを一緒にするな、体の出来から違う」

彼は彼女が手に持ったままのキャップを引ったくるように奪うと、それを再び彼女の頭の上に被せる。
彼は、いつもキャップを深く被っているのだろう。
彼女の視界は再び真っ暗になって、彼女はまた、キャップの位置を直した。

「……特等席ですね、」

ただでさえ、呼吸をするのも苦しいほどの暑さだ。
そしてここは彼の作った高い高いオブジェの上。
余計に太陽の近い場所。

「有り難く思え」

太陽と彼が一緒になっているように見えて、また、また彼女はくらくらする。
太陽と彼が重なって見えるのは、比喩であるし、比喩でもない。

「ええ、作り方を見て、……ええ、ちゃんと壊せますように」

呼吸が苦しいのは、暑さだけのせいではないなと彼女は苦笑する。
くらくらとしているのは、先ず自分の方かもしれない。


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