xx、本能が笑ってる


ヨークシンにある、それなりに評判の良いレストラン。いくつかある個室のうち一室でマチは食事をしていた。よく着るジャポンの伝統衣装やジャージではなく、紺色のシンプルなAラインワンピースに袖を通し、その上には白いレースのボレロを羽織っている。いつもは無造作に束ねるだけの長い髪もきっちりと結い上げられていた。

明る過ぎない照明、ゆったりとしたテンポで流れる音楽と大きな窓から一望できる夜景が、上質な空間を創り出している。その空間内では食事を楽しむ人々の談笑する声が穏やかに響いていた。


澄みきった夜、ちょっぴり敷居の高いレストランでのディナー

そんないかにもなシチュエーションの中、それは起こった。


「マチちゃん、ケッコンしよ」


唐突に放たれたその一言にマチは飲んでいた食後のコーヒーを吹き出しそうになった。けっこん、という言葉を口内に残っていたほろ苦い液体と共に飲み込んで自身の正面に座っている友人を見れば、それはもう満面の笑みを浮かべている。淡いピンク色のオフショルダーワンピースに身を包み、緩やかにウェーブした髪をハーフアップにしている、自分と同じように着飾った女性。そう、どこからどうみても女だ。それは他でもない自分が一番よく知っている。

マチは形の良い眉をひそめた。目の前にいる女、ナマエは流星街にいた頃…それこそ幼少期からの付き合いで、あまり他人と馴れ合うことをしないマチにとっては数少ない友人の一人である。そんな彼女の誘いに応じたからこそこうして今慣れない服を着て食事をしているわけだが…、これは一体何の冗談だろうか。

「性別が同じなのに結婚できるわけないだろ。気持ちの悪いこと言うんじゃないよ」

「愛に性別なんて関係ないよ!ずっと、ずうっとマチちゃんのことが好きだったの。だからマチちゃん、ケッコンしよう」

頬を染め、ふわりと髪を揺らしたナマエ。何を寝ぼけたことを。マチの答えは一つだった。

「断る」

一世一代の告白を一刀両断されてナマエの顔が悲しげなものに変わったが、それもほんの一瞬。彼女は再び満面の笑みを浮かべた。いつものナマエの笑顔だけど、いつものナマエじゃない。マチの中で何かがおかしいと警鐘が鳴った時にはもう遅かった。

ナマエがゆっくりとマチに自身の手の甲を見せつけた。よくよく見れば彼女の薬指には微量のオーラを纏った刻印が刻まれているのが分かる。そんなもの、先程までは無かったはず。

…まさか。慌てて自身の左手を確認すれば、マチの薬指の付け根にはナマエと同じ模様があった。足掻きとばかりに擦ってみるが、念によって刻まれたそれは当然消える気配もない。

「私からのプレゼント。ケッコン指輪だよ」

結婚指輪?これが?

薬指に絡みついているオーラ。マチが嫌悪してやまない四番のそれに近いものを感じる。

マチ自身に結婚願望は無いが、少しだけ憧れを持っていた時期はあった。これでも昔は普通の少女よろしく色々と夢を見ていたのだ。その時想像した結婚指輪はもう少しキラキラしていたような気がするが、実際はこんなにも淀んでいるものなのか。まるで枷をつけられたみたいだ。

戸惑いと友人に対する嫌悪で言葉も出ないでいると、突如としてマチの中に得体の知れないものが流れ込んできた。熱に浮かされたような、むせ返りそうな甘ったるい感情。それと同時に速くなった心拍数。そう、まるで誰かに恋をしているような、そんな感じだ。幼い頃に感じたことのある初恋独特のふわふわ淡いものではなく、腐りかけの果実のような濃厚でぐちょりとしたもの。

こんな感情、知らない。アタシのものじゃない。まるで別の何かとプラグで無理やり繋がれたような違和感にマチの顔が歪んだ。

「すごい……マチちゃんの思いがそのままわたしに流れ込んできてる…。 ああ、わたし達、本当に一つになったんだね」

マチとは反対に、ナマエはこの不快感を享受しているのか恍惚的な笑みを浮かべていた。いつも見ていた天真爛漫な笑顔とは全く違う表情。友人の隠れた一面に対する動揺よりも、呪いじみたものを結婚指輪と称して刻み付けられた屈辱の方が勝った。マチはぐるぐるとした感情をぶつけるように勢いよく立ち上がり、ナマエの胸ぐらを掴んで自身の顔近くまで引っ張り上げた。

「ふざけた念かけてんじゃないよ。警告だ。今すぐ解除しな」

怒り心頭なマチの要求をナマエはあっさりと跳ね除けた。

「嫌よ。解除する方法はあるけれど、せっかくマチちゃんとケッコンできたんだもの。リコンなんてするわけないでしょ」

警告はした。ならば遠慮することはない。そう判断したマチは流れるような動作でナマエの首に自身のオーラで創られた糸を巻き付けた。更なる誠意をもって要求するため、死なない程度に糸を引っ張って彼女の首に食い込ませる。

しかしそれも思い通りにはいかなかった。ナマエの顔が苦痛に歪められた途端、マチの首に細い何かが巻きつけられ、肉を切られたような感覚が走ったのだ。それはマチが糸を引けば引くほど大きくなっていく。久しく感じなかった焼けるような痛みによって滲んだ涙で視界がぼやけた。堪らず念糸を消せば、嫌な余韻を残して痛みが薄れていった。

けほ、と小さく咳き込んだ後、ナマエがあどけなく笑った。

「すごいでしょ。この指輪がね、わたしとマチちゃんを繋げてくれてるの。思いと痛みを共有できるんだよ。わたし達だけの、世界に一つだけの特別なケッコン指輪。ね、素敵だと思わない?」

弧を描く唇の下、ナマエの首で赤黒く光るいくつもの筋。糸の方向と垂直に下へ下へと延びていくのを眺めていると、マチの首で何かが垂れたような感覚がした。それを止めようと咄嗟に首に手をあてるも、想像していた液体の感触は全くない。

くすくすと可愛らしい笑い声が聞こえた。

「今、血が出た、って思ったでしょ。知ってる?マチちゃんの思ってる以上に脳みそってバカなんだよ。その首の痛みと私の血を見て、マチちゃんの脳みそが血が垂れてるって思っちゃったの。 マチちゃんは痛みに強いけど、わたしはそうじゃないから…。その点で言ったら、マチちゃんにとってはマイナスかもね。まあ、さすがに脳みそが死んだって思いこんじゃうくらいの痛みってそうそう無いとは思うんだけど」

ペラペラと饒舌に語るナマエ。その口調には喜びが滲み出ているし、事実、まさに今それがマチの中で強制的に共有されている。マチはうっとりとしているナマエを睨みつけながら、絶え間なく流れ込んでくる彼女の濃厚で甘ったるい感情に流されまいと必死に踏ん張っていた。しかし濁流のように胸の内を埋め尽くそうとするナニカが確実にマチの判断力を鈍らせていく。一体なんなんだ、この、思いは。

「ねえマチちゃん、ケッコンもできたことだし、」


いっしょに幸せになろうね


気づけば足が勝手に動いていた。途中何かがガチャンと落ちる音とウエイターの呼び止める声が聞こえたが、そんなことにいちいち構っていられない。今は早く、あの女から逃げなければ。マチは走った。どちらのものとも分からないぐちゃぐちゃの思いを抱えて。今までにないくらい、必死に。

あれは、あの女はナマエなんかじゃない。ナマエの姿こそしているが、完全に別人だ。素直で、人を疑うことを知らなくて、アタシと違って女の子らしくて、つい世話を焼いてしまいたくなるあのナマエは一体どこへ行ってしまったんだろう。

薬指には相変わらず不気味なオーラが絡みついている。気色の悪い念だ。感情と痛覚を共有させる念。あの場で痛みを感じさせる暇もなくスパッと殺したかったが、そんなことをすれば死後の念でこの忌々しい刻印は一生消えないかもしれない。マチにとってそれは何よりも避けたい事柄だった。己の身体に巣食って良いのは蜘蛛だけだと決めているから。

光かがやく街をがむしゃらに走り抜けていると、何の予兆もなくドクン、と胸が高鳴った。なんとも言えない、幸福感に似た気持ちがマチの中を侵食していく。胸のあたりを掻きむしってもそれは全く消える気配がない。むしろ増している気さえする。

まるで別人なナマエが恐ろしくなって逃げ出したが、彼女と距離をとったことによって逆にマチは彼女とこの薬指の印で繋げられている現状を痛感させられていた。一体あの女が何を通じてそう感じたのか、こんな状況なのにも関わらず無意識のうちに考えてしまう。

痛覚はともかく、あんなイカれた女とこれから四六時中わけのわからない感情を共有させられ続ける…そう思うだけでマチの気が滅入った。ああ、早くこの念から解放されたい。早く、アタシの頭がおかしくなってしまう前に。


絶対にリコンしてやる!


そう固く決心したマチは、小洒落たミニバッグからケータイを取り出し、電話帳を開いて蜘蛛の中でも情報収集の得意な男の名前を探した。



▽ ▲ ▽



「ちょっとはしゃぎすぎたかな」

元あった位置から激しくずれたテーブルとこぼれたコーヒー、倒れた椅子を見て、愛する彼女を混乱させてしまったことをちょっぴり反省した。戸惑ったり怒ったりするマチちゃんが可愛すぎてつい調子に乗ってしまったのだ。

近くにいたウエイターが血相を変えて「何がありましたか!?」と聞いてきたので「ちょっと妻と喧嘩をしてしまって」と答えれば、何か得体の知れないものを見るような目で見られた。あれ?わたし、おかしなこと言ったっけ?

改めて左手の薬指に目を向けると、そこには念願の指輪が刻まれていた。頬を思いっきりつねってみる。痛い。やっぱり夢じゃないよね。


ずっと昔から、わたしの一番はマチちゃんだった。本当に大好きだった。ずっとマチちゃんと一緒にいるんだと思っていた。けれどそんなわたしの考えとは裏腹に、マチちゃんはだんだんとわたし以外の人間を優先するようになっていった。わたしの方が先にマチちゃんと出会っていたのにもかかわらず、だ。

そして数年前。今思い出しても腹の中が煮えくりかえりそうになる、あの日。マチちゃんがわたしを置いて流星街を出て行った日。


『アタシ、あいつらと一緒にいくよ』


そう別れを告げにやって来たマチちゃんが見せてくれたのは、彼女の白く綺麗な肌を犯すように這う十二本足の蜘蛛だった。そう、後々世界に名を轟かすことになる盗賊、幻影旅団のシンボルマークである。

それ以来、幻影旅団の団員全員が憎くてしょうがない。特に憎いのは、わたしからマチちゃんを奪った元凶である、クロロとかいう男。(最近になってマチちゃんの口からよく出るヒソカという名前の男もわたしのブラックリストに加わった。)

このままあの集団にいれば、キレイなマチちゃんは必ず不幸になってしまう。そう確信したわたしは、当時たまたま流星街を訪れていたプロのハンターに弟子入りをして、ブラックリストハンターを志した。マチちゃん以外の幻影旅団の団員全員の息の根を止めて、マチちゃんを蜘蛛から解放してあげようと思ったのだ。

しかし修行を重ねて武術の才能も念の才能も人並み以下だということに気づいたわたしは、程なくしてその道を諦めた。何か他に良い方法はないものかと考えたわたしは、ナニカであの憎き蜘蛛を上書きして、蜘蛛からマチちゃんを切り離そうという結論に至った。そうして生まれた結魂指輪(リンクリング)。薬指に刻むのはわたしとマチちゃんの愛の結晶であり、蜘蛛の刺青なんかよりもよっぽど濃くて深い、強固な繋がり。

そして今日、晴れてわたしたちは結魂した。夢にまだ見た、けっこん。愛しいマチちゃんとリンクしたこの感覚、なんて甘美なんだろう。けれどマチちゃんはこの指輪に不満があるらしい。流れ込んでくるマチちゃんの感情がそうわたしに訴えかけていた。

まあ確かにきちんとしたステップを踏まずに急にプロポーズしてしまったことは悪いとは思ってるけど、マチちゃんの意思とか、そんなことは関係ない。だってわたしは、わたしを幸せにしてくれるのはマチちゃんしかいないし、マチちゃんを幸せにできるのはわたししかいないと知っているから。今はちょっと混乱しちゃってるだけだ。この流れ込んでくる怒りや戸惑いも、すぐにわたしと同じ甘いものに変わってくれる。

マチちゃんにハッピーになってもらうために何をすればいいだろう。字はちょっと違うけど、結婚にちなんでハネムーンにでも行こうかな。あ、いい。それすごくいい。

どこへ行こう。ジャポンにでも行こうか。マチちゃんが前に行ってみたいって言ってたし。一緒に温泉に入ってのんびりしたいなあ。湯上りのマチちゃんのユカタ姿、きっとプライスレス。

そうと決まれば早速マチちゃんの後を追わなければ。ケータイを開いて、マチちゃんが今どこにいるかを確認した。彼女にはさっき出て行った時に発信機をつけてある。これで後を追えるはず。仮に途中で発信機が機能しなくなったとしても、情報屋に彼女の居場所を割り出してもらうくらいの金は持ち合わせている。抜かりはない。

解除なんてしてあげない。離魂なんてしてあげない。もう遅いのだ。どんな形であれ、彼女はもう、わたしとともに歩む運命にある。


一緒に幸せになろうね、マチちゃん。

MarkerMaker様に提出。