とある団員の独白

違和感、と呼ぶにはあまりにも小さ過ぎる変化はあった。スナック菓子の内容量が前より少し減ったかな、減ってないかな、と思うくらいの、一見すると本当に大したことはないような変化。だから気にも留めなかった。けれど今思えばそれが間違いだったのかもしれない。


『シャル、知っているか?兎の唾には衛生状態を保つ効果のある成分が含まれているらしい。奴等は自らの唾液を目的の部位全体に行き渡らせる事で身体を綺麗に保っているんだそうだ』


オレ達の唾にもそんな成分があったら良かったのにな。そう言って自嘲気味に笑った団長は勿論、俺も頭のてっぺんから足の先まで汚くて。まだ俺達が流星街にいた頃の話だ。彼は俺達が修行と称して取っ組み合いをしている間、それに混ざらずただひたすら本を読んで貪欲に知識を吸収していた。
クロロが本で得た知識を俺に話して聞かせることは珍しくない。大方それも新しく本で得た知識だったんだろう、そう思い、その話に大して興味を持たなかった俺は「へーそうなんだ」と軽く相槌を打って聞き流した。

それから十数年の時が経ち、流星街を出て、始めはただの盗賊団に過ぎなかった幻影旅団も、やがて世界に名を轟かせるまでになった。沢山の物を奪い、その為に邪魔なものは何であろうと蹴散らしてきた。蜘蛛として、やりたいことを好きなだけやってきた。


ある日のことだ。俺は団長に頼まれていた仕事の報告をしようと、彼の滞在するホテルを訪れた。コンコンと中に聞こえるように扉をノックしても反応がない。外出しているか、本に夢中で気付かないかのどちらかだろう。約束をすっぽかす団長ではないから恐らく後者だ。団長は、一度本を読み始めたら本以外の五感全てを閉ざす癖がある。ちょっとやそっとじゃ反応しない。しかしこんなこともあろうかと、事前にこの部屋のカードキーのコピーを作ってある。おそらく何の意味も成さないが、一応礼儀として一声かけてから例のカードキーを使い、部屋の中へと足を踏み入れた。

ちょっとした通路を通った先に、ウボォーでも楽々座れそうな程大きなソファに座り、一人黙々と本を読む団長の姿があった。流石団長、と言うべきか、足を組んで本を読む姿も実に様になっている。テーブルの上には、ほわほわと白い湯気を立てているマグカップが置いてあった。ブラックコーヒーかな。あー、俺も飲みたくなってきた。ミルクも砂糖もたっぷりのがいい。ブラックも嫌いではないけれど、あれは一夜漬けコースの時の気合い注入用と決めているから。

団長、と呼んでみても全く反応がない。目の前で手を振ってみても変化なし。やっぱり本を読み終わるまで待つしかないかと思った俺は、彼が何の本を読んでいるのかがふと気になり、テーブルに積み上げられた内の1冊を手に取った。
案外薄い。いつも無駄に分厚い本ばかりを読んでいるイメージが強かったため、ちょっとした疑問を感じつつタイトルを見ると、瞬間雷に打たれたような衝撃が俺を襲った。

『あなたがウサギの為に出来る10のこと』

そう、それにはおよそ団長には似つかわしくないタイトルが記されていたのだ。何羽かの小さな子うさぎが扉絵に写っている。実にファンシーだ。 まさかと思いそこら辺に置いてある本を片っ端から調べてみれば、いっそ気持ちの良いくらいうさぎに関する本しかない。

小難しい専門的な内容から、どこかの国の言い伝えをモチーフにした絵本まで。幅広く置いてある。一瞬団長の頭がおかしくなってしまったんじゃないかと思ったが、目の前で読書に勤しむ本人にはこれといっておかしな様子は見て取れない。

……いや、待て待て。団長のことだ。きっと何か深い考えがあるに違いない。落ち着け、落ち着くんだ俺。

「何だシャル、いたのか」

「えっ、あ、あぁ、うん。頼まれてた仕事、やって来たよ」

「そうか、いつもすまないな」

そう言って再び目を伏せて本へと視線を戻した団長。いつもと違って自然体のままの髪が額にかかっており、その隙間からチラリと見え隠れする十字の刺青。


俺と同じく童顔だと言われている団長だけど、俺は全然そうは思わない。俺とは違い、そこには精悍さがプラスされている。そして本を片手にコーヒーを飲む姿が悔しいくらいかっこいいのだ、我らがリーダーは。

だが俺は見逃さなかった。その団長が読んでいる本もまた、うさぎに関するものだということを。
胸の奥がざわざわする。一体どうした団長。
平静を装って「団長ってうさぎが好きなの?」と聞いてみようか。聞くべきだな。よし聞こう。

ぐるぐると回る思考を落ち着かせ、意を決して団長の"だ"を言うと、それに被せるようにしてシャル、と団長の低い声が部屋に響いた。

「…………何?」

「イルミに頼まれていることがあってな。近々奴と会う。お前にも同席して欲しい」

「そりゃ勿論いいけど、団長1人で十分なんじゃないの?」

「まぁ、そう言われればそうなんだが。ヒソカも同席するんだ。仲間を信じていない訳ではないが、念には念を入れる」

……4番(ヒソカ)。少し前に旅団に入団してきた男。はっきり言ってあいつは旅団がと言うよりも、団長とマチにご執心な印象を受ける。

マチだけならまだしも、団長にもいらぬちょっかいをかける為、ヒソカはめでたく団員全員から嫌われている。団長の招集や指示に応じないというのも大きな理由だ。確かに、それは団長一人では不安だ。俺達が。

「分かった。丁度パクも今近くにいるんだ。呼んどくよ」

「あぁ、頼む。それで待ち合わせ場所なんだが───…」

▽ ▲ ▽


「ねぇシャル。私達今、幻覚を見ているのよね?」

「……あぁそうだよ。悪い夢だよこれは」


そして迎えたXデー。団長がゾルディック長男と会うために指定した場所は、田舎にある牧場内のカフェ。最近、様々な変わり種のサービスを用意して客をもてなすカフェが増えている。古本が読めるカフェ、電車内を模したカフェ、猫が触れるカフェ……

そして俺達が今居るのもそんな変わり種カフェだった。うさぎと触れ合えるという、俺にとってはタイムリー過ぎるカフェ。


『生かすべきは蜘蛛。選択を見誤るな』

『…緋の眼。1つ残らず抉り取れ』

『俺が許す、殺せ』


俺達の士気を最高潮まで上げてきた数々のカッコいい決め台詞が、頭の中を一種の走馬灯の様に駆け巡っていく。

誰が思うだろう、目の前にいる男が普段は冷酷非情な人間だと。プロハンターも持て余す天下のA級賞金首、幻影旅団団長、クロロ=ルシルフルであると。

「……顔、緩んでるわね」

「……緩んでるね」

「……幸せそうね、団長」

「…………だね」

うさぎと戯れている団長はそれはそれはもうだらしのない顔(それでもイケメンなのがムカつく)で。終いにはウサギの横腹に顔を埋める始末。ふわふわの毛がついた団長の顔はそれでも緩みきっていて。この世の幸せ全部詰め込んでますみたいな顔をしていた。きっと団長に恋人ができたらあんな顔をするんだろう。甘い雰囲気垂れ流しの団長に、俺だけでなく、団長命なあのパクでさえもドン引きしている。そして俺達の注文を取りに来た、可愛いメイドちゃんも。そりゃそうだ。さっきまでスカしてた男が今やうさぎにメロメロなんだもの。

「コーヒー、すっごく苦いやつ頂戴。瞬時に目が覚めるくらい苦いやつ」

「…私も同じものを」

「か、かしこまりました」

メイドちゃんも何かを察したようで、そのまま大人しく厨房へ戻っていった。



あぁ、早くコーヒーが飲みたい。そしたらこの悪夢も覚める。そうに決まってる。