檸檬(日吉) | ナノ
10月4日が近づくたびに、彼女はどんどん綺麗になっていく。
「ねえ若!」
秋の冷たい風とともに振り向いた先輩は、夢見ているような、幸せ一杯という顔で俺に微笑んだ。
「跡部、誕生日には一時帰国するんだって!家でパーティーするって」
「そうですか」
「なに?反応悪くない?」
「別に驚くこともないでしょう。あの人なら」
「そりゃまあね」
もう少ししたらイチョウで彩られるであろう大学までの並木道を、先輩と肩を並べて歩く。学年は違うが同じ学部に通う俺たちは通学路でこうして出会うことがよくあった。昔は握り拳ほどしか差が無かったけれど、今は先輩の頭は俺の肩の辺りにある。気づいた時は嬉しかった。
「ね、若も来るよね?忍足たちも呼ぶから久しぶりに氷帝テニス部集まるよ!」
「あの人たちしょっちゅう部活に来てたし別に・・・鳳に至っては高校以来だからたったの半年ぶりですよ」
「冷たいなあ!ほら、樺地くんなら久々でしょ?跡部についてアメリカ行ったんだもんね」
「・・・多分4日はバイトが」
「バカ!そんなの休むに決まってるでしょ!跡部に会いたくないの!?」
会いたいのは、アナタでしょう。
喉元まで出てきた言葉を飲み込んで歩調を速めた。「待ってよ若!」と言いながら駆け足になる先輩の走るリズムが耳を占める。若、と俺のことは名前で呼んでくれる。それなのに跡部さんの話をする先輩との距離は、すごくすごく遠い。
「若、速い!」
「先輩が遅いんですよ」
「あのさ、プレゼント何がいいかな。一応手作りのクッキーとか考えてるんだけど。ほら、金目のモノじゃ勝ち目ないだろうし」
「・・・何に勝つつもりですか。あとどうして俺に聞くんですか」
「だって跡部と若、ちょっと似てるもん」
「はあ?」
思わず立ち止まった俺を見上げて先輩がにっこり笑った。
「冗談止めて下さい」
「冗談じゃないよ。自分中心に見えて素直じゃないとことか、悲しさとか悔しい気持ちとか、自分の中に仕舞いこんで人に見せたがらないとことか」
「・・・じゃあ」
じゃあ、アナタはどうして俺を好きにならない。
眉がひどく歪みそうになるのを必死で堪えて前を向いた。何も知らない先輩は「何着てこっかなー」と朗らかな表情をしている。能天気に見えて、陰であの人を想ってずっと泣いていたのを俺は知っている。
アナタを好きになった。でもその時にはもうアナタには思いを想いを寄せる人がいて、アナタもまた片思いをしていて。堂々巡りの気持ちに結末はない。俺たちは二人とも、未だに一方通行の恋から逃れられていない。これが俗に言う甘酸っぱい恋愛かと思うと鳥肌が立った。
先輩は跡部さんが留学を決めたときに告白しようとしたらしい。でも「関係が崩れて跡部が困ると思うと結局言えなかった」と泣きつかれたことがある。
残酷な人だと思った。跡部さんも、先輩も。跡部さんは先輩の気持ちを知っていたに違いない。それでも留学を選んだのはつまりそういうことなのだ。俺は恋愛でも、跡部さんに勝てない。その事実が重く心にまとわりつく。
俺を好きになればいい。その一言が言い出せなかった。臆病なのは俺も一緒だった。日々気持ちだけが募っていく。今俺が告白したら、先輩はきっと今までの自分の話を思い出して落ち込む。片思いの苦しさを知っているからこそ自分を責めるだろう。「好き」が溢れ出しそうになる時、いつもそう念じて堪えてきた。
でもいっそ。
いっそ、同情を利用してでも手に入れてしまえば、
「わかしっ!」
「わっ!!」
いきなり目の前でパチンと手を打たれて我に返った。なんなんだこれ。猫騙しか。見下ろすと先輩がキッと俺を睨んでいた。
「何ですか全く・・・」
「話全然聞いてないのは若でしょ!パーティーに着ていく服買いたいから講義のあと一緒に来てよ。三限まででしょ?」
「・・・嫌ですよ。何だって俺が」
「だって若はマナーとかしっかりしてて頼りになるんだもん!ドレスコード?とか私よく分かんないし」
「たかが跡部さんの誕生日にドレスコードも何も」
「何でもいいの!若と行きたいの!」
「っ、」
なんて人だ。なんて酷い人だ。こうやって何度でも、俺の心臓を簡単にぶち壊す。一気に心を拐っていかれる。後に残るのは、虚しさと切なさだけなのに。
さっきまでの考えがチラッと脳裏をよぎる。この笑顔を俺だけのものにしたい。跡部さんなんかに見せてやりたくない。だけどやっぱり、彼女の心からの笑顔を曇らせてはいけない。それだけははっきり分かるんだ。
だから俺は今日も、したためたこの気持ちをアナタに届けられずにいる。
企画サイト「花天月地」さまに提出しました!素敵な企画に参加させていただきありがとうございました!
20101002