さようなら(白石) | ナノ



学校を一週間も休むとノートは予想以上にたまる。それが法事だったとしても授業は待ってくれない。放課後の教室で一人、友達のノートを写しながらふと窓の外を見た。藍色が空の大部分を侵食し、微かに星が光っている。西の端が仄かに朱に染まっているのがとても綺麗だ。あの日の夕暮れ・・・病室から見たのもこんな空模様だった。思い出してじわりと景色が滲んだ。


「・・・どない、したん?」

ハッと振り返ると、教室のドアのところに目を丸くした男子が立っていた。クラスメイトの白石くんだった。

「俺、忘れ物してしもたんやけど・・・」
「・・・」
「・・・大丈夫か?」

心から心配している声音に慌てて目元を拭ったけれど、白石くんはそっとこちらに歩いて来た。白石くんは人の気持ちにすごく敏感だ。

「・・・とても大丈夫には見えへん」
「あ・・・」
「それとも俺がおらん方がええ?」
「そんなことないっ・・・」

慌て首を横に振ると白石くんは私の肩に手を置いて「落ち着き」となだめてくれた。それだけで乱れた呼吸が少しマシになった気がする。この手の温かさのせいだろうか。

「俺で良かったら話聞くで。もしかしたらちょお楽になるかもしれへんし」

眉尻を下げた白石くんの表情と気遣うような言葉に、張りつめていた琴線が切れた。


「この間亡くなったの、お父さんなの」
「・・・法事のことか」
「うん。すごく仕事一筋な人で、私とも全然遊んだことなくて・・・普段も話もしなかった」

物心ついた頃から父親を家で見ることは極端に少なかった。朝は私が目覚める前に出勤し、夜は私が寝静まったときに帰ってくる。幼い頃に家族で出掛けた記憶なんて無かった。

大きくなると夜に顔を合わせることもあったが会話は0に等しかった。元々無口な人で、お母さんと喋るときもあまり長く話さない。そもそも私のことをほとんど知らなかっただろうし私もお父さんのことをよく知らなかった。知っていることと言えば頭が良くて本をたくさん読む人だったということくらい。お父さんの書斎にある本は面白かったのでちょくちょく借りて読んだりしていた。


そんなお父さんが今月急に体調を崩し入院した。


「最期の時はね、私も側にいたの」
「ああ」
「でも最期の言葉が」

お父さんは亡くなる寸前、生気の無い青白い顔で私を見つめた。そして泣きじゃくる私に一言、聞き取れないくらい小さな声で呟いた。


“さようなら”



「娘に最後に残した一言が『さようなら』なんだよ。味気無いよね」
「・・・」
「後にも先にもそれっきり。・・・私ってお父さんにとって何だったんだろ」

そう言って口を閉じる。もうすっかり夕日は沈んでしまって、紺碧の世界に私と白石くんの二人だけ。しばらくの沈黙が訪れたが、私にはそれが永遠のように感じた。

「・・・こんなこと聞かされても困るよね。ごめんね白石くん」




「なあ自分、『さようなら』って元々どういう意味か知っとる?」
「・・・元々の意味?」

白石くんの眼差しはひどく真剣だ。

「元々はな、『左様ならば』って意味やねん。関西弁で『さよか』って言ったりするやろ?あれもここから来てんねんで」
「左様ならば・・・」
「そう。真意は『左様ならねばならぬのなら』。つまり『そうならねばならぬのなら』」


そうならねばならぬのなら


まるで何かを苦渋の末に断念するかのようなその言葉は、スッと私の胸に刺さった。


白石くんは微笑んで続ける。

「ほなチャールズ・リンドバーグは知っとるか?大西洋を飛行機で一人で横断した人」
「あ、名前くらいは」
「その奥さんがな、アンって言うねん」

何が言いたいんだろう。


「この二人は日本に来たことがあるんやけど、横浜から出発するとき日本人がぎょうさん『さようなら』言っとんのを聞いて、その意味を尋ねたんやって。そのアンさんの言葉が残ってんねん」

白石くんの綺麗な薄い唇がそっと言葉を紡ぐ。


「“さようなら、とこの国の人々が別れに際して口にのぼらせる言葉は、もともと『そうならねばならぬのなら』という意味だとそのとき私は教えられた―――"」


“「そうならねばならぬのなら」。なんという美しいあきらめの表現だろう。

西洋の伝統の中では、多かれ少なかれ、神が別れの周辺にいて人々をまもっている。英語のグッドバイは、神が汝とともにあれ、だろうし、フランス語のアディユも、神のみもとでの再会を期している。”


「“―――・・・それなのにこの国の人々は、別れに臨んで、そうならねばならぬのなら、とあきらめの言葉を口にするのだ”」




いつの間にか、幾筋もの涙が静かに頬を伝っていた。


白石くんは優しく微笑む。

「お父さん、博識な人やったんやったら知っとったかもしれへんで?」
「っ・・・う・・・そだ」
「自分と離れるの、もちろん嫌でたまらへんかったんや。でも運命にあがらえんことも承知しとって、自分に『仕方ない』って伝えた。悟ってたんやないかな」

「・・・嘘だっ・・・」




「送る」と言ってくれた白石くんに謝ってから家まで走り続けた。


嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ。お父さんが私との別れを惜しんでいたなんて。お父さんは全然一緒にいてくれなかった。遊んでくれもしなかった。私に学校のこと聞いたりもしなかったんだよ。そんな人だったんだよ。

だいたい白石くんはお父さんのことを何一つ知らない。白石くんの都合のいい解釈だ。そうだそうに決まってる。だって


だって、それじゃあまるでお父さんが私を大好きだったみたいじゃないか。



咽び思い泣きながら家に飛び込むと、貯金通帳を持って同じように目を腫らしたお母さんがいた。





お母さんに聞いて初めて知った。お父さんは重い持病があって、自分がいなくなってからも私とお母さんが困らないようにと仕事一貫で働いていたこと。お母さんが止めても聞かなかったこと。

私とは話したくても、私がどんな話題が好きかが分からなかったこと。入学式や卒業式で私の写真を撮るのを張り切っていたこと。私がお父さん似なのを密かに喜んでいたこと。


私が可愛くて仕方がないって友達に話していたことを。



白石くんの言った通りだった。「さようなら」は「そうならねばならぬのなら」という意味だったんだ。お父さんは全部分かってたよ。あの「さようなら」は全て受け入れた優しい「さようなら」だった。お父さんは強くて優しい人だ。

でも私はそんなに急に大人になれないんだ。そんな簡単に諦められないんだ。いつか私も穏やかに「さようなら」と言える日が来るのかな。




白石くん。なんだか今すごく君に会いたいです。
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