私は息を飲んだ。幸村精市から目を離せなかった。自分が骨折したときの傷を生々しく思い出した。縦に長い赤のラインはいやに刺々しく、美しい幸村精市の身体にそぐわない強烈な異質さを放っていた。幸村精市は目を閉じたまま話し始める。
「この痕はね、徐々に薄くなっていくらしいんだ。未来の俺の身体ではもうほとんど目立たないかもしれないね。だけど今の俺は、この痕を見るたび思い出すんだ。絶対に薄れさせたくない、この一年の記憶を」
幸村精市は強く拳を握りしめた。
「俺が倒れて入院したのは中学二年生の十二月。信じられなかったよ・・・信じたくなかった。自分がこんな大病にかかるなんて。八ヶ月も入院することになるなんて。人間ってそういうものだろう?実際自分の身にふりかかるまで、実感なんてない」
幸村精市の口調は自嘲気味だった。私は彼がこんな風に話すのを見たことが無かった。
「最初はね、ここまでのことになるなんて思わなかった。部員がお見舞いに来てくれたときも笑っていられた。でも病状はずっと良くならなかった。テニスが出来ないまま、俺は焦り始めていた。どれだけ身体が鈍っていたか、考えただけでも恐ろしかったからね。中学最後の大会を控えているのに・・・って。そんなある日、先生の話を立ち聞きしてしまった。俺はもうテニスは出来ないって」
幸村精市は唇を強く噛んだ。
「立ち聞きだから、一切誤魔化し無しの宣告だった。目の前が真っ暗になった。・・・病気に負けてしまう人もいることを考えれば、俺は強欲だったのかな。だけどあれは間違いなく、俺が人生で初めて感じた絶望だった。生きる意味を奪われたに等しかった。・・・生きていても仕方ないと、考えたこともある」
ハッとした。生きていても仕方ない・・・私が、常日頃感じていたことだった。まさか幸村精市の口からそんな言葉を聞くなんて。あんな輝いている人間が、そんな・・・
歌手が歌声を失うように、また、水から上げられた魚が呼吸の術を失くすように、テニスを失うことは幸村精市にとって、未来を喪失することと同義なのだと言う。そこまで大切に思えるものは自分には無いけれど、胸がどうしようもなくズキズキした。
幸村精市の声は揺れていた。彼は目を伏せて、険しく顔を歪める。
「つらくって、苦しくてね。格好悪いことだけど、明日が見えなくて何度も心が折れてしまって・・・俺はね、自分がとても強い人間だと思っていたんだよ。でも違った。支えが無いと立ち上がれもしない身体と、悲鳴を上げる心・・・俺も知らない自分だった」
「・・・・・・」
「誰かに助けてほしくて、でもどうにもできなくて・・・っ!何の不安も無くテニスが出来るチームメイトが羨ましくて、憎らしくて・・・そんな自分を自己嫌悪して、俺は・・・」
私の心臓は幸村精市の言葉に共鳴して泣き出した。初めて友達を失ったときの自分。最初は自分がその状況にいることが信じられなかった。まさかそんな、ドラマみたいな・・・って。現実がつらくて耐えられなかった。周りも、自分も嫌いになった。行き場のない想いを抱えて、消えてしまいたくて・・・・・・
おんなじだ、私たちは。
「だけど、」
その時の幸村精市の声は打って変わって力強かった。私は俯いていた顔を上げた。
「俺はへこたれてる場合なんかじゃなかった。真田が、そしてチームメイトのみんながそれを思い出させてくれた。俺たちは勝たなきゃいけないんだ・・・誰が何と言おうとね。その想いだけが俺を支えた。全国で勝つイメージトレーニングを欠かさず、それを心の糧にした。手術が終わり関東大会で負けてからはさらにね・・・」
幸村精市は決然とした表情で、痛ましい手術痕にそっと触れた。
「全国では負けてしまったけれど、俺たちがもっと成長できるチャンスをもらったんだと思ってる。・・・俺は勝つことが一番大事だと考えていた。今も変わってない。でも他にも大切なものがあるんじゃないかって、全国大会を含めた一年を振り返って、少しずつ思うようになってきた。十五歳の俺はまだぼんやりそう感じているだけだけど、未来の俺なら、心でしっかり分かっているのかな」
手足が震える。私は今一人の同級生の成長の過程を目の当たりにしているのだと、まざまざと理解する。
「『テニスを楽しむこと』の答えを探していると、なんとなくね、入院してたときを思い出すよ。俺は仲間たちのおかげで帰ってこられたんだ。絶望の中から歩き出すことができた。青学のボウヤが五感の無い中、希望を失わずに闘えたように・・・どんなにつらくても、自分の本当の望みを見失わずに歩き出せば、きっと前に進める」
本当の望み・・・?私の、本当の望みは、
幸村精市はビデオカメラを真っ直ぐ見据えた。
「俺は今、自分なりに大変な中学生時代を過ごしたつもりでいるけれど、これから先も苦しいことはたくさんある。それを経験した未来の俺、あなたがどう生きているか分からないが、十五の俺の抱えている気持ちを、大きく育てながら乗り越えてくれていればいいなと思ってる。万が一忘れてしまっていたらこの映像を見て思い出してほしい。本当の望みをちゃんと掴まえていてほしい・・・俺ならできるって信じてほしい」
私は廊下にしゃがみこんだ。
私の本当の望み。誰かと関わることを放棄して、自分の殻にとじ込もっていた私の、本当の望みはね。
・・・友達が欲しい。人と交わることを恐れず、ぶつかっていきたいよ。一度じゃ上手くいかないかもしれない。だけど諦めたくない。私もまた、誰かの隣で思いっきり笑いたいよ。
教室から、幸村精市の軽やかに笑う声がした。
「・・・結構長くなっちゃったね。こんな映像を見たら、未来のみんなもびっくりするかな。じゃあ、これで終わります、未来の俺、身体には気をつけて」
幸村精市が動く音がする。私は慌てて立ち上がり、近くのトイレに駆け込んだ。そっと覗くと、制服をきっちり着込んだ幸村精市が教室の鍵を閉めて出て行くところだった。多分今から部活で誕生日を祝われるんだろう。忌々しいと思う気持ちは無くなっていた。十五歳になりたての少年の凛々しい背中が遠ざかるのを、私はずっと見つめ続けた。日記を取りに行くのはもうちょっと後になってしまいそうだ。
未来の私へ。十五歳の私はいつも一人ぼっちで、人の親切を素直に受けとることもできないダメなヤツです。傷つきながら人を拒絶して、バカみたい。でもこういう不器用な生き方しかできなかった。
だけど変わりたい。真っ暗なこの場所から歩きだしたい。人と関わろうとすれば、悲しいこともたくさんあるだろう。それでも負けたくない。逃げたくない。幸村精市を誤解していたように、私は人のことをまるで理解できていないけど、頑張ってゆっくり少しずつ分かり合っていきたい。
十五歳の彼が言っていたように、私も少しずつ歩き出したいから。確実に前に進んでいきたいから。
「・・・お誕生日おめでとう・・・それと」
ありがとう
消えゆく彼の背中に、掠れた声で呟いた。
幸村くんお誕生日おめでとう!
20120305