盛り上がったライブハウスの空気は信じられないほど薄い。ぐいぐい押してくる観客の熱気。バンドサウンドの心臓に響く重低音。全てが私の感覚器官を刺激し頭をガンガンさせる。
バンド好きな友達に誘われてライブに来たものの、入場の直後彼女は一人でどんどん前に行ってしまった。慌てて追いかけようとしたけど人の波に押されて思うようにいかない。
後ろの方に煙草を吸っている人がいるようだ。前方にまで漂ってくる煙で余計息苦しくなる。
暗い、音の波、歓声、人混み、煙草、熱気。
頭がフラフラする。呼吸が上手く出来ない。四方から圧迫される身体が痛い。
もうダメだ。そう思った時だった。
「こっち」
低い声が聞こえた途端、左腕を掴まれぐいっと強く引かれた。予期せぬ衝撃に身体が大きく傾ぐ。人混みのせいでリストバンドをした腕しか見えない。姿の見えない人は私を引っ張ったまま人混みを掻き分けて後ろの方へ行く。
「あ、あの・・・?」
「きついんやったら無理せんと人混み抜ければええやろ。何でわざわざ前行くんや」
低い男の子の声。
人混みを抜けても彼は振り向かずに歩き続けた。私は金魚の糞のように彼について歩くだけだった。煙草を吸いながら談笑している人々の隣をすり抜け、彼は二階へと続く階段を上り始めた。私はそっとその男の子を見上げた。
黒い髪。耳に光る五色のピアス。細身のTシャツにジーンズとブーツというシンプルな格好だ。腕を掴む大きな手はひんやりと冷たい。
二階席に辿り着いて彼は私の手を離した。二階は人がまばらだった。冷房の風が汗をかいた身体に心地良い。煙草の煙もここまでは届かないらしい。一階が嘘の様に呼吸が楽だ。
まさか、私のために
少し息が切れた私の隣で、彼は軽く息を吐いた。初めて見る彼の顔は驚くほど精悍で思わず見とれてしまった。
「自分、ライブハウス初めてなんか?」
ステージを見たまま彼が言った。軽く放心したまま人形の様に頷いた。
「自分がおったとこはアンプの真ん前や。そら慣れてへんかったら頭痛くもなるわ」
「え」
「気分悪なる思たら後ろに下がるんは常識や。あとこういう地元の小さなライブハウスやったら煙草は覚悟せなあかん。嫌やったら避難せえや」
「あ、うん。ありがとう・・・」
月並みなお礼しか言えない自分が嫌になった。彼が居なかったら自分は倒れていたかもしれないのに。
でも、どうして。
「あの・・・どうしてこんなに良くしてくれるの?」
不思議だった。見ず知らずの私を助けてくれたばかりでなく丁寧に説明までしてくれた彼が。
彼は視線を外さないまま言った。
「俺、ここよお来んねん」
「え?」
「このライブハウス。知名度低くてもええバンド来るしな。ガキん頃からよお出入りしててん」
あ・・・
「・・・ここ昔から知っとるし知り合いも多いから、他人に嫌いになられんの嫌なだけや。倒れたとか変な思い出作られたらたまらんっちゅーねん」
「そうなんだ・・・」
私は穏やかな気持ちでステージに目を向けた。
ここは彼の場所だったんだ。大事な大事な場所だったんだ。
彼はここが大好きなんだ。
そうっと横目で見ると、彼の涼しい目元が少し優しくなっている気がした。
「ここで聴いたらええバンドやろ。リズム隊が安定しとるからな」
「・・・うん」
またここに来よう。この二階の特等席に行こう。もしかしたらまた彼に会えるかもしれないから。そうすれば、
今はまだ足りない、彼の名前を聞く勇気も出るだろうか。
(彼が隣のクラスでテニス部の財前光くんだったと知ることになるのは、もうしばらく後のこと)