「『スイマセン』、『スミマセン』・・・『フインキ』、『フンイキ』・・・『ニホン』、『ニッポン』、『ヒノモト』・・・・・・・・?」
あーもう!日本語、難しい!危うく教本を放り投げそうになった。
父の仕事の都合でこの春から日本の中学校に編入することが決まったのは、少し前のこと。それから必死に日本語を勉強しているけど未だに自信を持てない。父親は日本人なのに・・・。私自身は顔も名前も純日本なのだけど、フランス人である母が全く日本語を話せなかったから、家での会話もほとんどがフランス語だった。せっかくだから完璧なバイリンガルに育てて欲しかった。
だいたい日本語は複雑すぎる。それにフランス育ちのせいでハ行の発音が難しい。助詞も人称も多くて、字が三種類あってややこしいことこの上ない。「ワタシ」が女性、「ボク」や「オレ」が男性の一人称なのは分かったけど、男性も場合によっては「ワタシ」と言うなんて、なんなの!?しかも日本オタクの友達によると女性でも「ボク」や「オレ」を使うボクっ子、オレっ子なるものも存在するらしい。奥が深い。
あーあ。私は教本を眺めながらトボトボ歩いた。三月の風は思ったより冷たくて、なんだか心まで寒々しくなる。日本に慣れるためにこうやって街中に出てみたけど、誰かと話すことも無いし。私も日本の漫画が大好きだから、日本に来るの楽しみにしてたのになあ。来月からの学校、大丈夫かなあ・・・。
下を向いてこんなことばかり考えていたから、角を曲がって現れた人影に気づかなかった。
「わっ!」
「つっ・・・」
勢いよく衝突した。バランスを崩した私は盛大に尻餅をつき、本を取り落とした。ぶつかった人が慌てて寄ってくるのが見えたので、急いで謝ろうと顔を上げた。
「えっ・・・」
「すみません!大丈夫ですか?立てますか!?」
「・・・セーラー・・・マーキュリー・・・!」
「は?」
目の前にいたのは凄まじく整った天使のような顔だった。年は私と同じくらいに見えるけど少し背が高い。青みがかったショートヘアーに西洋人顔負けの真っ白な肌、瞳はくりくりと大きくて愛らしい。ここまで純粋に綺麗だと思える女の子はなかなかいなかった。
どうやらランニングの途中だったらしい、黒いジャージの上下に身を包んだ天使は、心配そうに身を屈めた。
「どこか痛めました?すみません、すぐに近くの病院へ・・・」
え?病院?病院って言った?
「Oui,je vais tre`s bien!」
「えっ」
「あっ・・・違う、大丈夫・・・です。私が悪いんです。本を見てたから」
「・・・もしかして外国の方ですか?」
「あ、日本人です、けど、来たばかりで・・・」
「そうだったんですか」
私が無事だったことに安心したのか、天使は小さく息をついてから、私の手を取って引っ張り起こした。細腕のわりに驚くほどの力だった。彼女はそのまま私の手のひらに目をとめた。
「手!血が・・・」
「あっ」
尻餅をついたときに擦りむいたのだろう、薄く赤が滲んだ場所がチクリと痛んだ。こんなの大したことないケガなのに、彼女はひどく真剣な表情をしている。
「大丈夫です、あの」
「早く消毒しないとバイ菌が入ります」
「バイキン?Je ne comprends・・・じゃなくてえっと・・・」
「・・・弱ったな、英語なら少しは分かるんだけど」
「あの、本当に大丈夫で」
「ちょっと来て!」
「わっ・・・!」
突然彼女が私の手を引いて走り出した。予想外に大きな手だった。それに、温かい。軽やかに走る彼女に合わせて艶やかな髪が小気味よく踊る。私の胸は不思議と高鳴っていて、世界が彼女でいっぱいになってしまって、どこに連れて行かれるんだろうとか、そういうことは全く考えていなかった。
彼女が向かったのは小さな公園だった。水道で私に傷を洗わせ、その間彼女は近くの薬局に消毒液と絆創膏を買いに行ってくれていた。なんて優しい人なんだろう。私をベンチに座らせ、絆創膏を貼ってくれた彼女はニッコリと笑った。
「はい、これでよし。無理矢理やってごめんね」
「いえ、本当に、ありがとう・・・」
「どういたしまして。でも危ないからもう本を読みながら歩いちゃダメだよ」
「ごめんなさい・・・」
それにしても本当に可愛い、というか美人だ。落ち着いた中性的な声が耳に心地いい。頭も良さそうだ。私が外国育ちだとわかってから言葉をゆっくり喋ってくれるのも素敵。友達になれないかなあ。
彼女は私の教本を見て言った。
「フランス語の・・・日本語会話の本?これからずっと日本に住むの?」
「うん。お父さんの仕事で・・・春から中学二年生」
「ほんと?俺もだよ。てっきり年下かと思ってた」
「そうなんだ・・・・・・って」
「?どうかした?」
今、この子、自分のこと俺って言った・・・?俺って・・・「オレっ子」!!本当にいるんだ!!あとでみんなにメールしよう!!
これは是が非でもお友達になりたい・・・!私は勇気を振り絞って彼女の目を見た。
「あの、お名前は・・・」
「俺?俺は幸村精市っていうんだ」
「ユキムラ・セーイチ・・・」
ええっと確か、女の子の名前には「ちゃん」を付けるんだった。
「セーちゃん!」
「え、ああ、そう呼びたいんだったら呼んで」
「セーちゃん、良かったら、友達になってくれませんか!?」
「!」
私の言動がおかしかったのだろうか。セーちゃんは少し目を丸くして、それからフッと優しく笑ってくれた。
「俺なんかで良かったら、ぜひ」
「!ありがとう!!」
「そうだ、せっかく友達になったんだし、良かったら俺が日本語教えようか」
「えっ、いいの?」
「うん。俺は平日の夕方は走ってるから、そのときで良ければ。もう上手みたいだけど、会話慣れしといた方がいいでしょ?」
「嬉しい!お願いします!」
「こちらこそ」
なんて幸運なんだろう。さっきまであんなにブルーだったのに、こんなに素晴らしい友達ができたばかりか、日本語まで教えてもらえる!神様、本当にありがとう!
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