東堂尽八と初めて | ナノ
凶事は重なるという。休み明けの月曜日、ただでさえ気分の上がらないこんな日に、財布を家に忘れた。それだけで1日ブルー決定なのに、なんとか授業を乗り切った放課後こんな羽目になるなんて。

「タ、タイヤが・・・」

一年生用の自転車駐輪場で膝から崩れ落ちた。目の当たりにしているのはほんの数ヶ月前、高校の入学祝いに買ってもらったピカピカの赤いママチャリでだ。そのタイヤが無残にも前後仲良くぺっちゃんこになっている。見れば小学生でもわかる。パンクしていた。

そういえば最近この箱根学園に不審者が侵入しているって話があったっけ。窓ガラスに落書きされるなどのせせこましいイタズラが数週にわたって発見されているらしい。よく見れば周りの自転車もカゴにゴミを入れられたり車体に落書きされたりしていた。なぜパンクさせるのに私のを選んだのか。ていうかそこまでされたなら警備とかもっと厳重にしておけと心の底から言いたい。

これどうしようかなとしばし途方に暮れた。学校から家までは徒歩だと一時間近くかかる。両親に連絡して自転車もろとも回収してもらえれば万事解決だけれども、共働きの上帰りは遅い。財布を忘れたのが最悪だった。昨日友だちと遊びに出かけたときのカバンに入れっぱなしだ、たぶん。ちょっと寝坊もしちゃったもんなあ・・・・・・

どうにか穏便に事を済ませられないかと悩んだ。そして閃いた。なんでもこの学校の自転車部は全国でもトップの実力だそうだ。そんな部活なら予備の自転車くらい置いてあるかもしれない。後でお金を払えばタイヤの予備を譲ってくれるかも。確かクラスメイトの男子が1人所属していた。その子に頼めば何とかなるかもしれない。

そういうわけで私は傷ついた自転車を押しながら自転車競技部の部室の方へ向かったのであった。


今日この日まで縁の無かった自転車部の部室はさすが強豪というだけある迫力の大きさだった。ロッカーだけでなくトレーニングルームや倉庫も兼ねているそうだ。かなり近寄りがたい。物陰から様子を伺っていると、たまに見かける細くてカゴがなくてサドルの高い自転車に乗った部員が次々と集まってきた。これから漕ぎに行くのだろうか。そのメンツの中に知った顔のクラスメイトを見つけた。

「泉田くん!」
「えっ・・・わっ、その自転車どうしたんだ!」

人の良さそうな泉田くんはスリムな自転車を押したまま慌てて私の方に駆け寄った。身体にぴったりとフィットしたジャージを着ている。周りの部員たち、一年生だろうか、数人がなんだなんだとこっちに注目しはじめた。はたから見たらどんなに格好悪い状態かと思うと恥ずかしさがこみ上げてきた。

「ひどいなこれ・・・さっき見つけたの?」
「うん。帰りにこうなってた。何とかならないかな?これ、絶対パンクかな」
「いや・・・試しに空気入れてみようにも、うち自転車部だから、ロードレーサーとママチャリってバルブが違うから同じ空気入れ使えないし、予備のタイヤももちろん違うからね」
「そういうもんなの?予備の自転車とかさ、借りれたりしないよね」
「あるにはあるけどキミはロードレーサー乗れないだろう。乗ったことある?」
「ない・・・」

そりゃそうだ、自転車部の速そうな自転車とママチャリは明らかに種類が違う。強い自転車部は別に自転車屋ではないのだ。ガックリ肩を落としていると、泉田くんは心配そうな顔で私の自転車を撫でた。

「大丈夫だって。帰りのバスはあるだろ?」
「財布忘れた・・・・・・」
「運悪いな・・・・・・そうだ、ボクで良かったらバス代くらい貸すからさ」
「泉田くん!!」

力強く泉田くんの手を握った。泉田くんは苦笑いを浮かべた。その時だった。

「ムッ!泉田、おまえ何をしている!他の一年生はもうコースに向かったぞ!!」
「あっ東堂さん!すみません、この子クラスメイトなんですけど、ママチャリのタイヤやられちゃったらしくて・・・」

泉田くんの背後から声をかけてきた人が私を見た。私も彼を見た。

泉田くんと同じ身体のラインに沿ったジャージ姿だ。でもその珍しい服装が、細く引き締まった腕や脚の筋肉の筋の美しさをよく際立たせていて、目を奪われるほど様になっていた。肩まで伸びた黒髪をカチューシャで後ろに流している。垂れてきた前髪がかかる目元はきつめで、瞳の色素は薄かった。彼はキレイなかたちにつり上がったマユを寄せ、至極まじめに泉田くんから事情聴取をし始めた。端正な顔がみるみる歪む。

「なにッ!パンクさせられたとは許しがたいな。しかも財布を忘れた日に起きたとはなんて哀れさだ!!同情の余地しかない!!」
「・・・・・・」
「あ、あの東堂さん、ですから彼女にバス代を貸したいので、一度部室に」
「いい心がけだが泉田よ、一年生たちはもうだいぶ前にメニューをスタートさせたぞ。このままではおまえだけ遅れをとる。おまえはすぐ出発しろ。バス代はオレが貸そう」
「え!?」
「東堂さんが!?いやでも、」
「四の五の言わずに早く行け!フクに報告されたいか?」

口に出された名前にビビったらしい泉田くんは私を申し訳なさそうに見てからサッと自転車に跨がり猛スピードで近くの門を出て行った。残された私はおそるおそる泉田くんの先輩を見上げた。東堂と言うらしきその先輩は真っ白な歯を覗かせて得意気ににやついた。

「さて、不幸な一年生女子よ。約束通りバス代を取ってこよう。いくらだ?」
「い、いや、もう結構です」
「は?」
「押して帰ります。お手数おかけしました」
「ちょっ」

いくら何でも見ず知らずの、それも上級生の男子にお金を借りるなんて嫌すぎた。私は東堂先輩に一礼して踵を返し、門の方まで歩き出した。話を通してくれた泉田くんにも明日謝っておこう。うまく進まない自転車を押しながら家まで歩くのは気が滅入るけれど、季節が夏に向かいだしている今なら日も長い。近くの自転車屋さんが閉まるまでに着くだろうかと思案していると、不意に自転車が背後から押さえつけられた。タイヤは回転を止め、私の右の向こうずねにペダルが激突する。

「いっ!痛ッ」
「待て!待つんだ!」

ギョッとした。必死の形相でママチャリの後輪を押さえつけて引き止めていたのは、なぜか東堂先輩だった。困惑している私をよそに、東堂先輩は尋常ならざる気迫でこちらを睨みつけた。

「なぜだ!?なぜオレから逃げる!?」
「えっ?」
「オレがあまりに眩しくて見つめるのに堪えきれないというなら分かる!だがそんな、あまりにもそっけなく!なぜだ!泉田からは受け取れてオレからは受け取れないと言うのか!?バス代!!」
「それは先輩だから・・・・・・」
「ハッ!まさかキミ・・・・・・泉田のファンなのか!?確かにアイツは見所ある一年だがどう考えても人気はオレに遥か及ばないだろう!!それでもキミは泉田のファンでいるのか?それとももしや、泉田のことが好」
「違います!!」

あ、この人変人だと察せずにはいられなかった。思わず声を張り上げてしまったが、東堂先輩は全く怯む様子なく、マユをつり上げたまま、ねめつけるように私から目を逸らさない。変人、それも面倒くさくて他人を意に介さないタイプの変人だ。

「とにかく女子に緊張されどすれ、迷惑そうに逃げられるのは我慢できない。それはオレのプライドが断じて許さない。一年生なら大人しく先輩に従え!」
「迷惑とかじゃなくて!それに押して帰れますから!」
「簡単な距離ならわざわざここまで頼みに来ないはずだ。住所は?・・・・・・遠いじゃないか!いいか、強がるのは男に任せておけばいいんだ!女子は愛嬌!」
「何の話ですか!」

ハンドルを押す私、止める東堂先輩。強情だなロッカールームまで連れてくぞ!と怒鳴る東堂先輩、さっさと帰らせてください!と怒鳴り返す私。その果てしない面倒くささが私に、この人から恩を売られたくないと思わせた。にっちもさっちもいかなくて、私何やってるんだろうと考え始めていた。先輩も同じ想いらしく、「ああーーックソ!」と投げやりな大声をあげた。

「分かった分かった!オレの世話にならなくてもいい!その、女子なら誰もが羨む貴重な機会をみすみす逃してもいい!」
「何か言いました?」
「だから先生の誰かに送ってもらうよう頼め。事情を説明すれば分かってくれるだろう」
「あっ」

その手があった。


結局、自転車なら2、3台詰める車で来ているという2年生の数学の先生に家まで送ってもらえることになった。ついでに不審者への対策会議も行うと約束してもらった。先生の車の2列目で一息つきながら、私は隣に座る東堂先輩に頭を下げた。

「どうもありがとうございました」
「なっ!なんだ急に、どうしたんだ」
「先生に口添えしていただきましたし。部活に入ってないからか、放課後に先生に頼み事に行くという発想がありませんでした。結局お世話になってしまいました」
「そんなことか。どういたしまして。キミも素直になることがあるんだな。安心したからか?」
「別に意地なんて張ってませんし・・・」

東堂先輩はちょっと得意気に笑った。その笑顔が性分を表すような無邪気さで、それでいて大人っぽくて、なんだか不思議な人だなとつくづく思う。変わってるし面倒くさい人だけど、事態が収まってみれば他人の私にとても優しくしてくれたことが分かってきた。

「しかしキミも強情だったな。オレは全然大丈夫だったが、全く気にしていないが、あんなふうに女子から逃げられると傷つく男もいるからそれを肝に銘じておけよ。特に普段女子に人気を誇っている男はな!」
「・・・・・・先輩、どうしてあらぬ方を向いて言うんですか?」
「なんでもないぞ・・・・・・まったく、なんだか調子が狂うな。財布を忘れるオッチョコチョイのくせにな」
「小声のつもりでしょうけど聞こえてますよ」

ちょっとバツが悪そうに唇をもごもごさせながら私を一瞥した東堂先輩。その細い身体を包むジャージが動くたびに香る優しい柔軟剤のにおい。腰の細さのわりにがっちりした太ももの上に置かれた手のひらは、握りダコのようなものだらけですごく固そうだ。これがレーサーのカラダなんだと思った。

「それはそうとなんで先輩まで車に乗ってるんですか?」
「ム。いやなに、キミの住所を聞いたらトレーニングになかなか良さそうなルートが浮かんでね。主将に許可をもらったから帰りに軽く走ろうと思ったんだ」

東堂先輩につられて荷台を振り返ると私の可哀想なママチャリの隣に先輩の白いレース用の自転車が並べてあった。その自転車が隣にあると、私のピカピカのママチャリでさえ重装備の不格好な乗り物に見えてしまう。それくらい洗練された美しさを感じるフォルムだった。

「え、今走ってるこの道ですか?信号が多くて結構面倒くさいですけど」
「ちがうちがう。こう、山の方を迂回するルートで」

東堂先輩は筋張った手首をぐにっとうねらせた。私はあんぐりと顎を開いた。

「正気ですか?あの山を通るなんてめちゃくちゃ遠回りですよ!無駄にカーブも多いし、坂もきついし!」
「だからトレーニングになるんだろうが。それにあのくらいの山、オレにはきついうちに入らんよ」
「冗談じゃないんですよね?」
「冗談なもんか。山がオレのステージだからな。箱根学園のクライマーならあれくらいは楽勝でこなせないと話にならん」

そう言って東堂先輩は窓から見えるその山をどこか愛おしそうに眺めた。変なの。さっき女子がどうこう騒いでた人とは別人の顔だ。遠くの山に想いを馳せるその表情は、今まで出会ったどんな男の人の顔より真剣で、熱い気持ちを胸に秘めているような、簡単に触れてはいけない世界を感じさせた。この人を信じていけば大丈夫だと、部員はそう思ってしまうのではないだろうか。

かと思えばくるっと私に向き直り、決め顔で歯を見せてくる。

「そうそう!家に帰ったらすぐ最寄りの自転車屋に行くんだぞ!この時間ならまだ開いているよな。いつまでもこんな状態では自転車が不憫だ」
「分かってますよ。それ三度目です」
「うんざりした感じに言うな!キミは間違いなく今日の運勢最下位なんだから、オレのありがたい助言で少しでも運気を回復しておかなくては!」
「その件はもう十分です。ありがとうございました」
「まあ心配しなくとも今日オレと知り合えた時点でキミの運は急上昇間違いなしだ!お墨付きだぞ。荒北という口も目つきも悪いチームメイトがいるんだが、そいつがオレと出会った日、なんと自販機で」
「話を聞いてほしいです」

運転席からミラーを見上げた先生が「さっきから仲がいいなおまえら」と笑った。

「東堂、ファンクラブがどうだのと騒ぎながら本命はしっかり一年生を狙ってたのか?」
「先生!お言葉を返すようですがオレは今先輩として、パンクちゃんに懐の深さというものを示してーー」
「パンクちゃん!?」

なんて不名誉なあだ名だ。これが懐の深い人のすることだろうか。私は怒った勢いで東堂先輩の肩をこっちに引き、自分に対して正面を向かせた。

「私の名前は!月浦そよです!」

東堂先輩は大きな瞳を見開いてキョトンとした。言ってしまったあとで後悔と恥ずかしさが押し寄せた。なんだこれ、自分をアピールしたい人みたいじゃん。しかし東堂先輩はいきなり吹き出し、ハッハッハと大声で笑い始めた。

「なんで笑うんですか!」
「いやすまんね、こうして隣に座って楽しくおしゃべりしていながら、まだお互いの名前もよく知らなかったのだと思ってね!」

普通は先に名乗るよな。東堂先輩はまだおかしそうに腹をさすりながら、目を細めた。

「ちゃんとした可愛らしい名前があるのに、パンクちゃんなどと呼んですまんかったね。月浦そよちゃん」
「えっ」
「オレの名は東堂尽八。いずれ箱根学園のエースクライマーになって、インターハイで山岳賞を獲る男だからしっかり覚えておきたまえよ」


その時の胸に手を当てる凛々しい姿が王子様みたいだなんて、そんなことを思うなんて私がこの変人に相当頭をやられていた証拠である。無事に家まで送り届けてもらった後、「もう財布忘れるんじゃないぞ!次オレの善意を無碍にしたらお魚くわえた主婦の名で呼ぶからな!」などと無駄口をたたきながらも、軽やかに手を振りながら滑るように加速し、あっという間に見えなくなった自転車姿に見惚れてしまったのも、その後遺症といえるだろう。ていうか、お魚くわえたの主婦じゃないし。どら猫だし。

しかし後からいくら思い返しても私が東堂先輩を気にするようになったのはこの日からだ。つまり私は、本人には絶対に言いたくないが、出会ったその日に東堂尽八に好意を抱いた。さらに言えばこれは、墓場まで持って行きたい秘密ではあるけども、どう足掻いても限りなく一目惚れに近かったのである。




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