卒業式のあと、帰ろうとしていたら誰もいないはずのテニス部の門が開いていることに気付いた。なんやろかと思いながら入って見ると、さっきまで大勢の人に囲まれていたあの人が、一人で静かにテニスコートにトンボをかけていたのだった。
「・・・部長、」
「えっ・・・ああ財前、どうしたん?」
「いやこっちのセリフっすわ。先輩らみんなで記念に遊びに行くんやなかったんですか」
「んー、まあ最後にお世話になったコートにご挨拶しとこかな思て」
「・・・それ引退するときも言うてましたやん」
「はは、せやったっけ」
そう、部長は小気味よく笑った。学ランの胸にリボンの花を付けたままの部長がこのコートに立っているのは何だか奇妙な光景だった。色素の薄い髪はいつもより小綺麗に流してセットされている。こんな晴れの日まで包帯を巻いていて、そう言えば金太郎も式に出席していたことを思い出した。アイツ絶対途中退屈で寝たやろ。部長が手を休める様子がないので、俺はため息をついてもう一本のトンボを取った。
「手伝います」
「ええのに」
「部長がやってんのに後輩が帰るのもアレでしょ」
「そら律儀やなあ。ていうか財前、自分まだ俺のこと部長って呼んどるん?今は財前が部長やろ」
「・・・せやかて、」
入部したときから「部長」と呼んでいたのに今さら何と呼べと言うのだろう。二人黙々とコートを均しながらぼんやりと考える。俺、この人と二人のときどんな話しとったっけ。お互いやかましく喋る方じゃないけど、そう言えば共通な話題ってテニスくらいしか。
「ふー・・・今日は結構暑いなあ」
「そうっすね・・・あれっ」
さっきから感じていた違和感の一つが分かった。
「部長、なんで制服のボタン揃ってるんすか」
「ぷっ・・・なんやそれ。ボタンないのが普通みたいやんか!」
「部長なら当然そうなるやろうと」
「お前なあ・・・まあ何人かにねだられはしたけど、オカンに制服は綺麗なままにしとってやーって言われてん。なんでも親戚の子が今度入学するから予備にしたいんやて。三年間着古した制服なんか役に立たんと思うんやけどな」
そうやろか。苦笑いする部長の制服は、他の卒業生に比べればだいぶマシな状態に見えた。ズボンの裾も擦りきれたりしていない。多分三年間、ちゃんと毎日ハンガーにかけたり完璧にブラッシングしたりしてたんやろなあ。この人はそういう人やから。
ああ、そんな部長にも人並み以上にボロボロになったものがあった。テニスラケット。
「財前の方は調子どうなん?」
「、へ?」
「部活とか」
いきなり話しかけられて少し驚いた。部長は相変わらず下を向いて作業していたが、口角が僅かに上がっているように見えた。
「別に・・・可もなく不可もなくって感じで」
「こら、可はないとあかんやろ」
「・・・冬に陸上部が合わんかった一年が一人入部したっすわ。センスもええし謙也さんほどやないけど脚も速いヤツ」
「おお!これからが楽しみやなあ」
「はい。みんな着実に力つけてきとって・・・」
ピタッ。俺の足元に進路を遮るようにトンボが止まってふと顔を上げた。白石部長が、トンボにもたれながら真顔でじっと俺の顔を見つめていた。
「・・・なんすか」
「財前はどうなん?」
「俺は普通です」
「彼女はどうした?夏前くらいから可愛い彼女おったよなあ」
「それがなんの関係が、」
「小春から聞いたんやけど、財前俺らが引退してからむっちゃ自主練しとるんやて?彼女はほったらかし状態らしいやん」
「っ!」
咄嗟に「あのオカマ!」と心の中で悪態をついたけど、俺の動揺に気付かない部長ではなかった。ただこの人は、分かっていてわざわざ問い詰めることはしないのだった。
「・・・・・・そうやとしてなにか?悪いことやないですし」
「ん?いや、俺はちょっと意外やっただけ」
「意外?」
「財前ならもっと要領よくやりそうやなあって思っとっただけ。何か一つに比重おくんやなくて、何事もバランスよくこなしそうな気がしとったんや」
「・・・・・・」
「恋愛沙汰なんか当人の問題やし練習はええことではあるけど、財前らしないなって」
「・・・俺らしい?」
俺らしいって何。じゃあ部長らしいって何や。アンタらしいってのは一体何なん?
知っている。アンタが二年間も部長をやれたのは、伝統ある名門の部活を弱冠一年生で背負うことが出来たのは、誰よりも努力しててそれを周りが認めていたからだと知っている。
アンタが汗だくで守ってきたものの、その大きさを知らないわけじゃあるまいに、しれっと聞いてくる部長が分からない。
「俺は・・・部長みたく器用やないから」
「器用?俺が?」
部長は軽く目を丸くした。あかん、口調が荒くなる。
「器用やろ。人一倍努力はしてて、やけどそれは人知れずで。せやからそない尊敬されとって―――・・・」
「人知れずやないやん。自分も知っとったやろ?俺が一番遅くまで残って練習しとったの」
「!」
ハッとした俺に白石部長は優しく微笑んだ。
「俺は器用やないで。不器用でもあらへん思うけどな」
「・・・・・・」
「ずっと気になっとったんや。練習中の財前を見かけてもどこか切羽詰まっとる感じで。すごい練習しとるのは伝わってきたんやけど、なんか昔の俺とはちゃうかったから、なんでやろって考えとったんやけど」
「・・・・・・」
「自分、一人やと思っとるやろ。お前の努力を分かってくれるやつ、今の部活には一人もおらんと思っとる。違う?」
「えっ・・・」
心臓をぎゅっと鷲掴みにされたように感じた。白石部長の柔らかい声が、俺の心のやさぐれた刺を全部掬っていくから、それが悔しい。
「自分を分かってくれる人がおるのとおらんのとでは全くちゃうよな。俺も財前もそういうの自分から言うタチやないけど、お前のがずっと見栄っ張りやもんな」
「・・・うざいっすわ」
「誤魔化しても無駄やで。どうせ自主練はバレへんように違うとこでやっとるんやろ」
「後で一人でコート整備すんのがめんどいだけやし」
「彼女にも大した説明してへんやろ」
「・・・・・・」
「偉いな、全部一人で抱えて。でもそれってキツいよな。ただでさえ通常の自分より無理して頑張っとるときに一人って」
ああ、なんでこの人は、こんなふうに俺のことを全部見透かすんだ。そう思ったとき、やっと俺とこの人が同じ「部長」だったんだということを痛感した。
「入部したときから『天才』て呼ばれとってちょっと他とは違う扱いやったもんな。先輩の中で一人レギュラー張っとったわけやし。金ちゃんとナイーブな話するわけもなし」
「・・・・・・」
「自分を理解しとるヤツなんかおらんって思うのもそら当たり前かもしれん。でもな、もっと視界を広げてみてほしいねん。お前を必要としとる人、知りたいと思っとる人がきっとおるから」
「・・・・・・部長、」
「もし見つけられんかったら、この前部長が微力ながらも相談に乗るで?」
ニッと笑って作業に戻る部長の背中が今までよりずっとずっと大きく見えた。目を閉じると、うざい先輩らやいつも心のどこかで優越感を感じてた同級生たち、手のかかる後輩の顔が浮かんでくる。そして最後に、寂しそうに一人で帰るあの娘の後ろ姿。
「・・・大きなお世話っすわ」
「そうか?いらんお節介やったかな」
「・・・・・・部長、」
「ん?」
「卒業おめでとうございます」
「・・・おん」
これからはもう少し大事にできるだろうか。