あと一分。毎朝七時半きっかりに、あの人はここに顔を出す。上忍隊舎に入ってすぐの角で、私は一度深呼吸した。何回も練習した言葉を口の中で念仏のように唱えた。いける。今日こそは絶対いけるとしつこく自分に言い聞かせた。そして聞こえてきた脚絆の足音に反応して、目をギュッと閉じて角から飛び出した。
「おっ・・・おはよう!」
どんな反応が返ってくるかと思うと怖くて目が開けられなかった。だけどその人は、立ち止まっておかしそうに吹き出してから私の頭にポンッと手を置いた。あれ?なんだか違和感・・・
「ざーんねん、人違いでした」
「えっ」
弾かれたように顔を上げた。そこにいたのは、顔の大半を覆い隠した銀髪の男だった。
「カッカカシ先生!?」
「せっかく頑張ったのにゴメンなさいね。君の待人はさっき偶然会ったガイに暑苦しい挨拶をされて時間食ってたよ」
「別に私は待ってる人なんて・・・」
「ハイハイ、分かってるからね。ありったけの勇気を振り絞ったんでしょ?真っ赤になってるよ、可愛いなあ」
カカシ先生に頭を撫でられながら恥ずかしさで死にたくなった。どうしてよりにもよって今日なんだろう。知り合いに見られるなんて考えてもみなかった。
「――っと、」
戯れていたカカシ先生の眼差しがフッと斜め後ろに流れた。
「どうやらご到着だ」
「え・・・あ・・・」
高鳴る心臓を抑えて、カカシ先生の後ろからそっと玄関を窺った。
「っ・・・」
「やあ、ネジくんおはよう」
トン、トンと一定のリズムで歩いてきた彼は、声をかけられて目線をスッと上げた。その真珠色の瞳に捕らわれた瞬間、私は苦しいほどに息が詰まるのだ。
艶やかな長い黒髪が風に揺れ、白磁のような肌は朝の光を受け透き通っている。ゆったりした袖から伸びる細い指がピクリと動いた。日向ネジはカカシ先生に「おはようございます」と頭を下げたあと、眉を潜めて私を見た。とたんに私は17歳にもなって公共の場所で頭を撫でられている自分が、この人の目にどれだけ間抜けに映るのかということに思い至った。
「・・・なに、私には挨拶も無しなの?相変わらず陰気なもんだね天才サンは」
気付けば言葉が口からよどみなく流れ出ていた。カカシ先生は呆れの色が滲んだため息をついた。
ネジは眉根のシワを深くし、私から視線を外して「そっちは朝っぱらからお楽しみだな」と言い放った。まるで私の顔なんてもう一秒たりとも見ていたくないという仕草だった。自分の中の止められない導火線が火を吹くのを感じた。
「は?意味分かんないんだけど何勘ぐってるの?お堅いカチカチ頭が考えるだけ無駄だから」
「どうでもいいがお前のその調子にカカシ先生を巻き込むなよ、迷惑だ」
「何も知らないのに的外れなこと言う人っているよね」
「・・・・・・俺は暇じゃないんだ。戯れ言ならまた今度にしてもらおう」
そう言い残し、ネジは歩みを速めて私たちの横を通りすぎて行った。彼の姿が完全に見えなくなったあと、音もなく床に崩れ落ちた私を見てカカシ先生は苦笑した。
「俺は漫才ならもう少し和やかなヤツがいいな」
「・・・・・・はい?」
「言葉を選べってコト。あれじゃツンデレを超越してただのクレーマーというかかんしゃく持ちというか」
「・・・また・・・やっちゃった・・・」
「コラコラ、女の子が朝からそんな絶望にうちひしがれた顔しないの!」
「ほっといてください・・・」
私は床にうずくまったまま、目の端から湧き出る涙を先生に見られないように気をつけた。これが今の私の目下最大の悩みだ。
日向ネジを前にすると急に頭に血がのぼって、考えうる限りの酷い罵詈雑言が口をついで出てきてしまう。カカシ先生には強い照れ隠しだろうと言われた。でも問題は、こういうことを重ねていくたびに、当たり前だけどネジとの関係がますます険悪になっていくことだった。
初めて出会ったのは新米上忍対象の演習の時だ。まだ一年と経っていない。新米だったことを言い訳にはしないけれど、私は油断してトラップで負傷してしまった。高い木からまっ逆さまに落ちて受け身を取る余裕も無かった。真下に迫る地面を見て死、ないし大怪我を覚悟した。
「おい!」
「・・・・・・え?」
「しっかりしろ!お前は無事だ。失神しているだけだ」
固い地面の代わりに力強い腕に抱きとめられたのを感じた。おそるおそる目を開けると、ごくごく近い距離で色素の薄い綺麗な目が私の顔を覗きこんでいた。日向一族だということは一目瞭然だった。お互いの目線がかち合い、そのあまりの近さに私は頭が沸騰した。10センチと離れていなかった。彼の瞳に私の困惑した恥ずかしげな表情が映っていた。顔が熱くなって咄嗟に目をそむけた。
「・・・ありがとう」
彼の顔を見れないまま呟くと、ほどなく彼が話し出した。
「さっきのはトラップ式の幻術だ。お前の脳は自分が負傷する錯覚に陥っただけ。しかし中枢が錯乱されたら身体も従ってしまう。だからお前は動けなかった。おそらくまだ筋肉は硬直している」
「そんな、私・・・」
恥ずかしいやら情けないやらで、もう絶対に彼の顔を見れないと思った。
「私、幻術は得意だったのに」
「よくあることだ。自分の得意分野は得てして最も不注意になりうる。他に気になるものがあった時は特にな」
「・・・接近戦の体術に自信がないの。スタミナが無くて。さっき、そういう敵がいないかビクビクしてた・・・」
「それだ。大丈夫、次にこういう過ちを犯さないための演習だ。反省して実践で生かせばいい。それに」
顔は見ていないけど、そのとき彼が優しく笑ったような気がした。
「俺は接近戦の体術には心得がある。時間のある時は修行相手になってやれる」
「・・・!」
その慈しむような声を聞いた瞬間、恋をしていた。
「なのに・・・うう・・・」
私のバカ!バカ!今ここに金づちがあったら自分の頭に一発やりたいと思った。結局あのあと恥ずかしくてネジとまともに話せなくなり、それを悟られまいと言葉が荒くなり、そして・・・現在の目も当てられない状況になっている。もはや自分がネジの中で最高に不愉快な存在であることは疑いようもなかった。いっそ会わなければ印象が悪くなることもないだろうが、それでも会いたくなる自分が憐れで仕方なかった。
ただ、「おはよう」と言いたいだけなのに。
「名前が、そのしおらしさの半分でもネジ君に見せてあげられたらいいのになあ」
カカシ先生がクスッと笑った。
「無理です・・・もともと無縁だったんです・・・もう会わない方がいいんです」
「んー?でもそれは君の都合でしょ?」
「・・・だって絶対ネジは私のことが大嫌いです。軽蔑してるし、顔も見たくないと思われてます」
「そうかな?」
カカシ先生は真顔になった。
「でもネジくんは、一度も君自身を貶すような言葉は言わないじゃない」
「・・・・・・」
分かってる。ネジは私の言葉を痛烈に一蹴しても、私自身に対して酷いことは一切言わないのだ。そんなところも好きだった。それだけネジは大人なんだ。人間が出来ているんだ。バカみたいに「陰気」なんて言うのは私だけなんだ・・・
「おい」
私は固まった。先ほど私の横を無表情で通り過ぎていった大好きな人が戻ってきていた。ネジはうずくまる私を見、その横に立っているカカシ先生をサッと見た。カカシ先生はゆるく笑って、私に一度頷いてみせてからそっとその場を去った。
残された私ははりつめた心臓でネジを見上げていた。ネジは明らかに怪訝そうに私を一瞥したあと、薄い唇を開いた。
「一緒に来い。五代目からの召集だ」