バッハの旋律をひとり聴いたせいで
月なんか見慣れてるはずなのに、今日はなぜか見とれた。
闇の中、すべてを真っ赤に染め上げたオレを照らす月。
寒いから隊服のジャケットに手を突っ込んで、歩き出そうとしていたオレに、待ってくれって服を掴んできたような気がした。
振り返って、もう一度月を仰ぎ見たら、あの夜のアイツを思い出す。
見慣れていたはずの月を見ていて“月が綺麗ですね”なんて言ったのはなんでだったんだろう。
「なぁ、なんであんな事言ったんだよ。」
アイツはもう居ないから、聞いたって答えなんか返ってくるはずないのに、バカみたいに月に問いかけた。
『今日も“月が綺麗ですね”。』
オレの左に立ち、微笑むアイツが見えた気がした。
壊れた窓から冷たい気まぐれな風がオレの頬をなでていく。
部屋を吹き抜けた風で壁に立て掛けてあったチェロが少し揺れた。
なんとなく弦を指で弾けば、人の声にも似た音が響く。
鳴り痺れたその音はすぐに忘れてしまうだろう。
「ししし…オレ、王子なのに。だっせぇ。」
アイツの事なんて忘れかけてたはずなのに…。
いや、結局、忘れられていない自分に苦笑いが漏れた。
『…私の事、忘れていいよ。』
アイツの最期の言葉が頭に響く。
「忘れてねぇよ。つうか、忘れらんねーっての。」
最期まで笑ってたアイツみたいな月に背を向けて歩き始めた。
こんな心になったのは、任務前にバッハの旋律をひとりで聴いたせいだ。
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