大都会よりもずっとずっとはずれにある片田舎、鶴亀町に引っ越してきたのは、まだまだ若い一人の女性。名前は名前。
平凡な彼女は明るく前向きで、世話焼きという名のおせっかい。そんな彼女には小さなころからの夢がありました。それは父が生まれ育ったこの鶴亀町で小さな小さなカフェを経営する夢です。
持ってきた最小限の荷物を家の中に運び終えた後、大家さんでもあり鶴亀町の町長さんでもある大川さんに、こう伝えられました。



この町でお店を開くためには、この町に住んでいる人と仲良くなり「ケイケン」を積まなければならない。ケイケンを積むことができたら、再びわしから訪ねよう。



「ケイケン」とは何かを大川さんは教えてくれることなく不敵な笑みを浮かべながら去ってしまい、残された名前は少しの間だけ固まって、それから我に返ると、とりあえず部屋を片付けてしまおうとダンボール箱に手を伸ばしました。



さて、どうしたものか。
一通り部屋を片付け終えた名前は夕暮れ時の鶴亀町を探索します。高層ビルに塞がれていない空はひどく美しく、遠くに聞こえる車が走る音のほかは、カラスの鳴き声しか聞こえてきません。

ケイケンとは何なのでしょうか。町の人と仲良くなれ、ということは町の人に認められろということなのでしょうか。でも、それがケイケンに繋がるのでしょうか。…考えても考えても答えは出てきません。そのまましばらく歩くと小さな広場が見えました。その広場の前で、綺麗な顔立ちの男の人が三毛猫と遊んでいます。



「こんにちは」
「あ、こんにちは。私、今日引っ越してきた名前っていいます」
「はじめまして、僕は綾部喜八郎。鶴亀町の住人だよ」


綾部さんが立ち上がると、三毛猫がすっとどこかへ行ってしまいました。その様子を目で追った後、綾部さんは広場の中に入っていき土管の上に腰掛けます。名前が首を傾げていると、綾部さんがちょいちょいと手招きをします。名前はそろりと綾部さんの隣に腰掛けました。


綾部さんは、思っていたよりもずっと話しやすい人でした。そろそろ夜が近いです。夕焼けの中に一番星がぼんやりと光っています。

「ねえ、名前はこの町でケイケンを積まなければいけないと言っていたけど、方法は分かってるの?」
「ううん、どうしたらいいか分からなくて。とりあえず外に出てみようと思って歩いていたの」
「…ふぅん、」



それは、一瞬のことでした。あまりにも一瞬過ぎて、名前は今起きたことが暫く理解できませんでした。ゆっくりと綾部さんの綺麗なお顔が離れていきます。唇には、柔らかい感触が未だにまとわりついています。



「え、」


やっと絞り出せた言葉が、それでした。名前は次第に熱くなっていく頬を押さえながら信じられないといった様子で隣に座る綾部さんを見ます。
そんな視線を向けられている綾部さんは先ほどとなにも変わらない様子で、ゆっくりと話し始めました。



「その様子だと、本当に知らなかったんだね。越してきたばかりだから、仕方ないとは思うけど」
「……え、あ、あの…、」
「この町では誰にでもチュウできるんだよ。チュウすればするほど、ケイケンが溜まるんだ」
「えっ」
「でもやたらにチュウしてもダメなんだ。大抵は怒られちゃうからね。だって仲良くもない人とチュウなんて嫌でしょう」
「……」
「町長さんが君に言ったのは、そういうことだよ。わかった?」
「…なるほど、」
「かしこいね、名前。今の僕の分は特別点。この町は小さいけどなかなか人は多いからね。引っ越し祝いだと思って受け取っておくといいよ」
「……なるほど、」



あっけらかんと手を振る綾部さんと分かれた名前は家に着くと玄関に倒れこみます。たった今起こったことに頭が追いつきません。きっと、追いつく方がおかしいのだと思います。
大川さんのおっしゃっていたケイケンとは、チュウのことだったなんて。綾部さんの唇の感触を思い出してしまい、さらに顔が真っ赤になってしまいます。これから先、この町の人たちとケイケンを積まなくてはならないなんて…顔から火が出そうです。

それでも、父の生まれ育ったこの町で、どうしてもお店が開きたかったのです。どうしても、どうしても開きたかったのです。
名前は決意しました。必ずケイケンを積んでみせると、決意しました。力なく握り拳を低い天井へ持ち上げます。何故かこれだけで、むくむくとやる気が湧きあがってくるのですから、お安いものです。

かくして少女は長年の夢だったカフェを開くため、奇妙でユニークな鶴亀の人々とチュウする毎日に身を投じたのでありました。






20140715


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