雨と弱虫



雨がザアザアと降り注ぐ夜、俺と彼女は出会ったから。



「早苗……さん」
小さい声で彼女の名前を呼ぶ。携帯の中で光る彼女の写真。
相手の笑顔、思い出す。
茶色くてフワフワした髪。
大きくて明るい黒い瞳。
ご飯を食べるときの幸せそうな仕種。
全てが愛おしかった。
携帯電話の画面が暗くなり、やがてふわりと光が灯る。Eメール受信中の文字。
「Eメール 536件」
気持ち悪いメールの件数に頭を抱えながら壁に身を寄せる。
多分5日以上部屋から出ていない。時間の流れすらあやふやで携帯電話を持っていなければ多分なにもわからない。
水音がする。きっと天気は雨だ。窓は雨戸まで閉めきっているから本当のところはわからないけれど。
凍る指先で携帯のボタンを操作する。受信ボックスを全部空にする。見たくなかった。今はまだ幻想の中でもいいから、一人悦に浸る、ただそれでいいから。
この少し前から死に直面している気がした。死に沈んでいく、ただそれだけ。正直もうそれでもよかった。
「……ただし、忠志」
外から声が聞こえた。多分、わからないけれど。でも、俺の名前を呼んでいた気がした。
「……なに?」
「ずっといっしょにいてね」
彼女の声が頭の中で反響する。
「うん」
俺は微笑みながら言う。大きな物が壊れた音がした。続いて人の声。
「忠志!!」
飛び込んでくる一人の人影を見て、言葉にならない声で叫んだ俺は倒れた。



次に起きた時、俺は白い部屋の中に寝かされていた。腕に感じる点滴の感触、清潔そうな匂い……何より自分の服装が病院着に変わっていて病室にいることがわかった。
自分の腕を電気に翳す……何で俺は生きているんだろう。あそこで、確かに死ねるはずだった。生に執着しているつもりはなかった。
翳した手を暖かい温もりが包んだ。涙が俺の肌の上にぽたぽたと流れる。
「忠志……なんであんた」
「……」
声の方向を見ると三咲がいた。
いつも綺麗に流していた艶やかな黒髪は何日梳いてないのかわからないくらいぐちゃぐちゃで、メイクもしていない腫れた顔は涙と鼻水で濡れていた。それでも綺麗な顔をみてやっぱり三咲は美人なんだなと再認識した。
「どうして、なんで」
よくわからない。口がまわらなかった。
だから三咲の紡ぐ言葉に耳を傾けた。
「なんで、返事、くれなかったの……?返事くらいくれてもいいじゃ……ない」
三咲は俺の降ろした腕を強い力で掴んだ。何故か抵抗する気もおきなかった。何か薬を飲まされているのか頭が朦朧とする。
早苗さんは……?
俺はなんとか口を動かして三咲に問い掛けた。
「さな……え……さん……は?」
その言葉に彼女は目を見開いて固まった。俺の手を握る力が弱まる。
「……早苗さんは 死んだのよ」
……嘘だ。早苗さんは死んでいない。
俺は多分かなり酷い表情をしたと思う。三咲は何故かそんな俺を睨みつけて大粒の涙を落とした。
「早苗さんは死んだの!!歩道に突っ込んできたトラックにひかれたの!!いい加減にして!!」
質問の、意味が、わからなかった。
そうだ、早苗さんは、死んだんだ。
トラックに、ひかれて死んだんだ。
俺の頬を生温い液体が伝った。目から溢れる涙は、止まらない。
俺は、早苗さんを守れなかった。
「……ねぇ、忠志は私と早苗さんのどちらが大切なの」
ぼやけた視界の先には苦しそうな表情の三咲が立っている。
「……」
「ねぇ……私もう限界……私を何回裏切ったと思ってるのあなたは……。たかが猫のために!」
悲痛な三咲の声。流れ落ちる大粒の涙。
「……早苗さんは、俺の、唯一の家族なんだ……」
たどたどしい口調で俺は彼女に言った。
母さんが俺をすてた。16歳の時、俺は自動的に一人になった。父さんは既に亡くなっていた。母さんは、夜逃げ同然で男と一緒にいなくなった。
早苗さんとはそんなときに出会った。すんでいたアパートを追い出されて誰も信じられなくなっていた。公園の土管の中で雨を凌いでいた俺に早苗さんはボロボロの体で甘えた声で擦り寄ってきた。……それだけで十分だった。
あの日から俺は早苗さんとの二人暮らしを始めた。早苗さんは俺の唯一の家族のようなものだった。
「……私は、カウントされないの?」
俺は彼女の問いに目を細めた。
「三咲のことは、恋人としては、思えても、家族とは、思えない」
ゆっくり慎重に言葉を紡ぐて三咲は少し寂しそうな顔をしてそれから笑いながら言った。
「……これから、思ってくれないの?」
三咲は俺を包み込むように抱きしめた。汗と涙の匂い、それと優しい花の薫り。
「……」
俺は無言で三咲を抱きしめ返した。

まだわからない。だけど、空は、はれていた。













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