■ 遥かな理想郷

「雲雀さんにお願いしたいのはこれです」

紙束がデスクの上を叩く。立派な黒革の椅子に腰かけたままの沢田を前にして雲雀は書類に手を伸ばした。

「……ふうん」

ぺらぺらと書類を捲る。鋭い瞳にこれと言った感情が浮かぶ事はない。

「つまらない相手だ。これを僕にやれって言うの? 君、何様のつもり?」

紙面には相手が貯め込んでいる武器の推定される量や各構成員について事細かに書かれていた。質よりも量。雲雀の趣向には合いそうにない相手だった。

「嫌だね。山本武や獄寺隼人にでもやらせなよ」

「確かに、相手は個々では大した力を持たない相手です。最初はあの二人に任せる事も考えました。……ただ、調査の結果このファミリーはいくつもの拠点を持っている事が分かったんです」

「へえ、そう。僕には関係のない話だ」

「それだけなら雲雀さんの言う通り、獄寺君と山本を向かわて順番に潰していけば済んだ。……ただそこにも書いてある通り、彼らは異常とも言える数の武器を貯め込んでいる。元々あまり良い噂も聞かない。更に、ボスが常駐していると思われる本拠地は市街地のすぐ傍です」

「つまり、君は一般人に危害が及ぶ可能性を危惧しているわけだ」

「そういう事です」

「甘いね、僕がそんな理由で動くとでも思ったの」

「まさか」

沢田はにっこりと笑った。雲雀の価値観が自分から遠く離れた場所にある事は十分に理解している。

「彼らの本拠地の傍に市街地があると言いましたね」

「ああ」

「その中には商店街もあって、彼女も休日はよく足を運んでいるみたいですよ」

雲雀の眉がぴくりと動いた。

「……彼女?」

「そう、彼女。小鳥遊さん。お気に入りの紅茶の店があるみたいですよ、以前俺もお裾分けをもらいました」

「……へえ。あの子、いい度胸してるじゃないか」

雲雀は眉間に皺を刻んだ。群れは嫌いだと豪語する自分の下にいながら、よくもそんな真似が出来たものだと思う。胸の中で濁った感情が渦を巻いた。

「まあ、それはともかくとして。雲雀さんが協力してくれなければきっとこの件は少し長引きますね。……困ったな、それじゃあ相手に反撃の準備の猶予を与える事になってしまう。……彼らはきっとボスの下に集結して貯め込んだ武器を取るでしょうね。そして一般人を巻き込む事に躊躇いは持たないんでしょう。例えばたまたま商店街の傍で小競り合いが起こってしまって、たまたま彼女の休日と重なってしまって、たまたまその場面に出くわしてしまって、たまたま彼らに武器を向けられてしまう可能性も出てくるわけだ」

「……馬鹿らしい」

雲雀は低い声を零した。

「脅しのつもりかい、沢田綱吉。僕が彼女の為に動くと? この僕が、弱いだけの草食動物の為に?」

「彼女が弱いだけの人間じゃないのは貴方が一番よく知っているでしょう。実際、彼女は武器一つ振るえない身でここまで付いて来た。昨日あった命が今日あっと言う間に消えてしまうようなこの世界まで。その覚悟を買っているからこそ、貴方は彼女にデスクワークを丸投げにしている」

言い返す事は出来なかった。くいながそれなりの覚悟をもって血生臭い世界に身を浸した事は雲雀も理解している。

他にいくらでもあった選択肢を捨てて今を選んだ。その行動は雲雀が口にする草食動物の定義には当て嵌まらなかった。

「……それでも、僕が彼女にそこまでしてやる義理はないよ」

「……そうですか」

沢田は人知れず溜息を吐いた。ここにはいない少女を素直に憐れむ。

自分が初めて会った時には、くいなは既に恋に溺れていた。あれから十年以上の時が過ぎてもなお、彼女の想いは報われる片鱗すら見せずにいる。

「……釣り合わないなあ」

彼女が捨てた多くのものと、それを代償に得たほんの少しのもの。天秤は傾いたままで、これからも更に犠牲を望むのだろう。彼女の苦悩はこの先も絶え間なく続いていくに違いない。米粒ばかりの褒美と引き換えに。

「何か言ったかい」

「いえ、なんでも。……分かりました、じゃあこうしましょう」

沢田は身を乗り出した。机の上で手を組む。甲の上に顎を乗せ、鋭い視線で雲雀を見つめた。

「雲雀さんには本拠地の殲滅をお任せします」

「興味ない」

「向こうも向こうでこれからどこかに仕掛けるつもりだったんでしょう、最近やけに用心棒を集めている。中には名の知れたフリーのヒットマンの名前もいくつかあります」

「……へえ?」

雲雀の声のトーンが僅かに上がる。

――掛かった。沢田は心の中で呟いた。

「ボス自身も昔は随分と名を馳せた実力者だったようで。つまり、ここを逃せばこの先中々巡り会えないだろう猛者達と戦えるまたとない機会というわけです」

例のファミリーをこのまま野放しにしてしまうわけにはいかなかった。何としてもここで一気に叩く必要がある。それは、この場にはいない元家庭教師も同じ意見だった。

「その他の場所は当初の予定通り獄寺くんと山本に任せます。雲雀さんには本拠地及び貯蔵されている武器を一気に破壊してほしい。逃がす隙は与えたくないので遠慮も何も必要ない。その上で強者達と戦える。何も考えずに打ち倒してきてくれればそれでいい。……雲雀さんに打ってつけで、損のない内容だとは思いませんか」

雲雀はじっと沢田を見つめた。自分を見上げてくる瞳は穏やかように見えて苛烈な色を孕んでいる。提案するような口ぶりだが断らせる気がないのは明らかだった。

「……ふん」

憮然とした態度で鼻を鳴らす。震えてばかりだった草食動物が随分と変わったものだと思わなくもなかった。

「相変わらず君は気に喰わないな」

草食動物でなくなってもなお、あの時と変わらずに自分を苛立たせる。六道骸と相対する時とはまた違った苛立ちだった。

「……そいつらの名前は」

それが答えだった。

沢田はにんまりと口元を吊り上げた。瞳だけを鋭利に煌めかせながらゆっくりと口を開く。

「ペルデンテ」

低い声が静かに溶ける。音が消えるより早く雲雀は踵を返した。







「雲雀さん? 急にどこに……」

「沢田綱吉から仕事。少し出る」

「えっ!?」

「君はいつも通りあそこの書類片付けておいて。終わったら草壁に渡して」

「あ、あの、ちょっと待って下さい、そんないきなり……! せめて草壁さんには連絡を入れてから……!」

「必要ない」

「そんな……!」

「……ふん。全く、沢田綱吉もやってくれるじゃないか」

呟く雲雀の瞳はすでにくいなの事を映してはいなかった。不本意であるような口ぶりだったが、目は爛々と輝いている。薄い唇は不敵に吊り上がっていた。

「……っ」

その様子を見て、それでも言葉を重ねようと思えるほどくいなは馬鹿ではなかった。こうなってしまってはどんな言葉も意味をなさない事は分かっている。脳裏に浮かんでいるのだろう相手を打ち倒すまで雲雀が止まる事はない。

何度も突き付けられる。自分に出来る事は何もないのだと。愛した人の為に尽くす事すら叶わない。これほど滑稽で無様な事があるだろうか。

あの雲雀恭弥が負ける筈はないという事は分かり切っている。それでも、せめて雲雀の小指一本程度の働きが出来る存在になりたかった。

嬉々として出撃する雲雀を見送りながら唇を噛む。すっかり癖になってしまったそれは皮膚に何度目かの傷を作った。傷口はいつまでも膿んだまま、新しい痛みを嬉々として待っている。

――そんな風に無力感に打ちひしがれたのが、半日ほど前の話だった。

「こんな……怪我を……!」

包帯を手にしながらくいなは顔を青褪めさせた。雲雀の私室にはくいなと部屋の主の姿しかない。

腕からはだらだらと血が溢れていた。いつもよりやり応えのある相手だったらしく、傷も相応に多い。中には思わず目を伏せてしまいたくなるようなものもあったが、くいなはそうしなかった。震える手で肉の覗いている傷口に触れる。

「……いいから早く」

皮張りの椅子に腰かけた雲雀が不機嫌そうに呟く。沢田が使う物と遜色がないほどに立派な高級品だったが、血が滴っても気にする様子はない。オーダーメイドで作られた黒革の椅子は持ち主に良く馴染んでいた。

「こんな怪我をして、草壁さんが気付かなかったらどうするつもりだったんですか……!」

「どうもしないよ。そのまま寝てたんじゃない」

「そんな!」

「大体、大した怪我じゃないだろ。腕が飛んだわけでもない。足が千切られたわけでもないし目が抉られたわけでもない。骨も折れてないし内臓を持っていかれたわけでもない。切り傷の一つや二つ、どうってことないね」

「それは……」

「……君は相変わらず甘いね。ちゃんと理解してるかい? 僕は喧嘩を仕掛けに行ったわけじゃない、殺し合いをしに行ったんだ。殴ってそれで終わりなわけないだろ。僕も相手も互いに命を狙うんだ、傷の一つや二つで騒いでたらそれこそこっちの首が飛ぶ。……第一、この僕が草食動物なんかに負けるわけがない」

くいなは再び唇を噛んだ。鉄の味がじわりと広がる。

「それは、分かってます……。けど……!」

そんな事は分かっている。雲雀恭弥は誰よりも強い。それを世界で一番信じているのは他ならぬくいなだった。

「それでも私は……ふざけた考えだって分かってるけど……!」

雲雀が血を流している姿を見るだけで心臓が竦み上がる。比喩ではなく、その度にくいなの身体は縮み上がる。

束の間の平穏や、かつての同級生の変わらない笑顔に忘れてしまいそうになる。それでも、この世界はいつだって死と隣り合わせだ。昨日まであった命が今日不意に消えてしまっても何も不思議ではない。

擦れ違うたびに挨拶を交わしていた同僚がいた。そしてある日、同僚は忽然と姿を消した。

「大事にしていても、すぐになくなってしまうんです。……あっと言う間に、本当に一瞬で。そうしたらもう、二度と戻って来なくて。……ずっと待ちぼうけで」

――おはようございます。いつもと同じように同僚に向けるはずだった言葉は、いまだに心の中で宙ぶらりんで浮いている。

「雲雀さんに出来る限り怪我をしてほしくないって思うのは、いけない事でしょうか……!」

彼の傍で戦う事も、盾になる事すら叶わない。小鳥遊くいなは足手纏いにしかなり得ない。

願う事しか出来なかった。一人安全な場所から、今も戦っているだろう雲雀の無事を祈る事しか。いるかどうかも分からない神にひたすら頼み込むのだ。どうか無事であるようにと。

「……いらないよ、そんなもの」

ぽつりと雲雀が呟いた。

「そんなものがなくたって僕は強い」

くいなは項垂れた。鉄の味が一層濃くなるのを感じながら静かに口を開く。

「……すみません。勝手な事を言いました。……今のは、聞かなかった事にして下さい」

生々しい傷跡をぼうっと眺める。自分に力があればこれを一つでも減らす事が出来たのだろうかと思った。

「……左腕も出してもらえますか? 早く終わらせてしまいましょう」

所詮自分にはこれしか出来ない。何もかもが終わった後で、ただ馬鹿の一つ覚えのように包帯を巻く事しか。

私は一体何の役に立てているのだろう。ここに居る意味はあるのだろうか。

心の中の疑問に答えは帰ってこなかった。雲雀は沈黙を貫いたままだったし、くいなももう口を開かなかった。


20141214.

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