■ 写った傷を抉られたいの



その瞬間というのは、至極馬鹿げたものだった。

つい数分前まで下卑た笑みを浮かべながら自分を囲っていた他校生の男子らを、ものの見事に蹴散らし、汗粒一つ浮かべず涼しい顔をして佇む人。母校である並盛中学にて恐怖の対象として君臨する、それまではその視界に入ることがないよう避けて通っていたはずの彼。
そう、彼。雲雀恭弥という一人の人間に、その時くいなは目も声も、心まで全て奪われてしまったのだった。

危機的状況に手を差し伸べられたという、特に意外性も何もない話だ。思春期の少女にはありがちなことだが、単純なときめきに見舞われるまま、恋という名の穴の中に落ちてしまった。
物語に夢を見るような心地で。急な坂の上から石ころが転がり落ちるように。
落日、強い光の中ではためく学ランと、風紀の腕章。細身なのにどうしてか大きく目に写る背中に、小鳥遊くいなは一目惚れというものを経験した。

どくり、どくりと耳の傍で激しく巡る血流の音を聞いた。
これが恋愛に重きを置く物語なら、そこから一つのラブロマンスが展開してもおかしくはない状況だったのだろう。
一目見つめ合った瞬間に恋が生まれるなんて、戯曲やお伽噺なんかではざらにあるシナリオだ。

しかし、現実は物語ほどうまく進みはしない。進むはずがないのだ。この、主演で。


「逃げようとしてたから一応は見逃すけど、次はないよ」


群れ嫌いの最凶の風紀委員長は、半分死にかけたような無惨な姿で積み上がった他校生を踏み潰し、返り血を拭いもせずに冷え冷えとした声で口にした。
もし、その集団に迫られたくいなが録な抵抗もできずにその場に留まっていたならば、同じような目に遇わされていたのだろうと想像させる。足蹴にした彼らとくいなに何の差も見出ださない、冷たい瞳を彼はしていた。

その目に射られて、言葉に刺されて、背中に氷を放り込まれたような感覚にくいなの正直な身体は震え上がった。
けれど、残念なことに、一度胸の内に灯ってしまった炎が消えることはなかった。




それからは、努力の連続だ。
そこそこにこなしていた学業には更に力を入れ、校則を掠りもしないほど制服の着こなしにも気を使った。予習復習は欠かさず、規則正しい生活を心掛ける。
夜更かし寝坊なんて論外だ。一つでも失敗を犯せば、一般生徒として不真面目と見られる。彼には取り分けマイナスイメージになってしまうだろうことは容易に察することができたから、くいなは必死に体面を整えた。
そうして短期間で充分な自信を身に付け、彼の暴君が鎮座する応接室へと足を運んだのだ。

その場に足を踏み入れることに、決して緊張していなかったわけではない。寧ろ、恐怖と好意のごちゃ混ぜになった頭を抱えながら、今にも震え上がりそうになるのを堪えながら、くいなはもう一度彼の前に立った。
そして、頭を下げて申し入れたのだ。危ないところを助けてもらったお礼がしたいのだと、必死に訴えた。

最初から受け入れられたわけでもない。不必要だとにべも無く振られた回数は、両手では収まらないほどだ。
諦めきれずに通う内に本気で鬱陶しがられ、その武器を振るわれかけたことすらある。
けれど、冷たい言葉や態度に怯え、傷付くことがあっても、くいなの中の炎が消えてくれることはなかった。
彼の姿を一目でも見掛けてしまえば、胸が高鳴った。心臓が熱に満たされて、焼き消えてしまいそうな感覚にも襲われた。


「何でもいいんです。少しでも委員長のお役に立ちたいんです」


何度も何度も、飽きるほど繰り返した要求に、最終的にはトンファーではなく許可が下ろされた。
ただし、役に立たなければ即切り捨てる、という条件付きのことだったが。

最初からしてそのような様子だったから、押し付けがましい女だと思われていても仕方がない。
せめて許された分は挽回しようと、くいなは精力的に委員の活動を補助し始めた。少しでも印象をよくして彼に好かれたいという、下心の方が強かったかもしれないが。
それでも、尽くせる実力は尽くして、書類作成や整理、言い渡される雑用に走り回った。

はっきりと口に出して告白さえしないものの、行動や態度に制限を設ける余裕もなかったもので、本人を初めとした周囲…風紀委員多数にはくいなの想いは筒抜けだったのだろう。くいなにも別段隠す気はなかったので、当然の成り行きとも言える。
その内に、委員の複数名から気遣わしげに肩を叩かれたり、溜息を吐かれることも増え出した。だからといって、想い人がそれで様子を変えるようなことはないが。
いつだって興味がないという風な出で立ちで、小さな不備でも起こさなければ、雲雀という男はくいなを振り返ることすらしなかった。

それでも、パーソナルスペースに出入りできるだけ幸せではあったのだ。
気軽に応接室に近付ける女子は、くいな以外には存在しない。くいな自身も決して気軽に通えているわけではないが、半強制的な義務になりつつある状況に、舞い上がり過ぎずに慣れも出始める。
少しは余裕を持って接することができるようになった、そんな頃のことだった。


「君、暫く近付かないで」

「……え?」


ああそうだ、と。思い出したように告げられた言葉が、知り合った当初と近い鋭さを持って、くいなの胸を貫いた。
思わず手先に力が入ったせいで、今正に提出しようとしていた書類にしわが寄る。

何かしてしまったのだろうか。彼の気に障るような失敗を、私は。

どくどくと速まり始めた鼓動が、身体の外にまで響くようだ。ぐしゃりと音を立てる書類は意識に入り込んではきても、注意を引いてはくれなかった。
つい、戸惑いに支配されたくいなの口から疑問がそのまま飛び出してしまう。


「ど、どうして…ですか…?」


私は、あなたの気に入らない失敗をしてしまったんですか。

普段と変わらない、冷え冷えとした瞳がくいなに向けられることはない。
一方的に凝視する、くいなの視線を遮るように目蓋を下ろした雲雀は、別に、と素気無い態度で漏らした。
仕事に対して思うところがあるというわけではない、と。


「君はどんくさいから」


短く語る、その声にも温度は宿らない。


「役にも立たない君がいても足手纏いなだけだ。最低でも、僕が良いって言うまでは近付かないで」


杜撰な説明だったが、それだけの台詞から真意を悟れないわけでもなかった。
何かと暴力沙汰に巻き込まれ、自分からも飛び込んで行くような人だと認識している。伊達に想いを寄せて傍に居続けてもいないのだ。自分の出る幕というものを、判断できるくらいにはくいなも頭が回った。
判断できたところで、刺し貫かれた胸から流れ出る血の止め方までは、分からなかったが。

最低、良いと言うまで近付くな。
その命令は、結局いてもいなくても変わらない…そのまま帰ってこなくても構わないのだと、口にされたのと何が違うのだろう。

悲しみか悔しさに歪みそうになる表情を、奥歯を噛み締めて耐えながら、最早聞き慣れた心臓の悲鳴が殊更大きく響くのを、くいなは聞いた。


20141027.

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