■ 死人の献身
音が聞こえる。時計の針が進む音に似ていた。
規則的な音は寝ても覚めても脳裏で響き続け、一分一秒ごとにくいなの心を削っていく。錆びたナイフで肉をがりがりと削られていくような感覚だった。
針が進む毎に終わりが近付く。タイムリミットはもうすぐそこまで迫っていた。
雲雀の行動は結果として負の方向へ働いた。沢田の言葉によってふらついていたくいなを更に不安定にさせる事しか出来なかった。二人の間に横たわっている溝は広がる一方だった。
「はあ……」
くいなは小さく息を吐いた。
思考に掛かった靄を払うように首を振る。しかし、頭は重くなるばかりで視界も霞む一方だった。書類の文字が二重三重にぶれて、正確に読み取る事さえままならない。身体中に鉛をぶら下げている気分だった。
こくりと唾を呑む。口の中はひどく粘ついていた。微かな不快感を覚えるが、何かを口にする気にはなれなかった。
ここ数日の間は必要最低限の食事しか摂っていなかった。倒れて迷惑を掛けてはいけないと、義務感だけで食事を喉に押し込んでいた。えづいた事も一度や二度ではない。心と体が互いにそっぽを向いてしまっていた。
「……もう嫌だ……」
小さく呟く。
何を食べても、何を飲んでも駄目だった。あの日雲雀に振る舞われた和菓子の味が、雲雀の淹れた茶の味が、喉に貼り付いて剥がれない。必死で押し込んだ味は今でも舌の上に留まり続けている。
何もかもが心を蝕む。雲雀の行動を最後の優しさだと疑わないくいなは、着実に追い詰められていた。
「水……どこに置いたっけ……」
何もかもを洗い流してしまいたかった。それでなくとも、今日は朝から水の一滴すら口にしていない。身体の方はとっくに限界を訴えていた。
「あ、れ……?」
立ち上がろうとするが上手くいかない。仕方がなく両手を机の上についた。反動を利用して立ち上がる。
「……っ」
視界がぐるぐると回る。
不意に、何かが喉奥からせり上がった。反射的に手を口元に当てる。酸っぱいものが僅かに口内に広がったが、なんとか寸前で堪えた。
睡眠も食事も、何もかもが足りていなかった。沢田の言葉が、雲雀の行動が、くいなを崖の淵へと追いやる。谷底はぱっくりと口を開けて、底のない暗闇へくいなが落ちてくるのを今か今かと待っていた。
「う……」
がんがんと頭を殴られているようだった。寝不足のままずっと書類と向き合っていたからか、足取りも覚束ない。
備え付けの冷蔵庫に手を伸ばす。ペットボトルのひんやりとした感触に安堵の息を吐いた。力の入らない手でキャップに手を掛けようとする。
不意に執務室の扉が開いた。
「……君、まだやってるの」
中に入って来た雲雀が顔を顰める。
「ひ、雲雀さん……!?」
くいなは慌てて背筋を伸ばした。事務処理をこなす為だけに作られたこの部屋に雲雀が立ち入った事は殆どない。突然の事にボトルが滑り落ちたが、気にしている余裕はなかった。
「今日は休めって言った筈だけど。聞いてなかったの?」
「いえ、そんな事は……」
「じゃあ何なの。僕の命令には従えないって?」
「と、とんでもありません!」
くいなは顔を真っ青にした。そんなつもりは微塵もなかった。
「た、ただ……仕事も溜まってますし、疲れているわけでもないので……。これ位しか出来る事もありませんから、せめてちゃんとやっておきたいと……!」
「疲れてないだって?」
雲雀は眉間の皺を深くした。かつかつとくいなに近寄り、そのまま顔を覗き込む。
「そんな顔色して言える言葉じゃないだろ。君、自分が今どんな顔してるか分かってる? 流石に僕でも気付くよ」
沢田とくいなが向かい合っている姿を見た日から、雲雀は幾度となくくいなに言い続けた。いいからたまには休めと。
しかし、くいなが頷く事はなかった。いつだって慌てたような様子を見せ、やんわりと自分の言葉を拒絶する。それが雲雀はひどく気に食わなかった。
今まで従順に自分に従ってきた癖に、自分が少々心を砕いてやれば今度は首を振ってみせる。くいなにその気はなくとも、雲雀にとっては飼い犬に手を噛まれた気分だった。
「ここ最近ずっと顔色が悪かったけど、今日はさらに酷い。ゾンビでももっとマシな顔色してるよ。君、熱でもあるんじゃないの」
雲雀はおもむろに手を伸ばす。前髪を掻き上げて、くいなの額に自分の額を押し当てた。
「っ!?」
くいなは音にならない悲鳴を上げた。
目の前に雲雀の整った顔がある。僅かでも身じろぎすれば唇が触れてしまいそうな距離だった。
心臓が急速に鼓動を早める。このままはちきれてしまうのではないかとすら思った。温かい体温が額からじんわりと広がる。
目を見開いたまま固まるくいなを、雲雀もまた目を閉じる事なく見つめる。
「……やっぱり。熱がある。君、今日はもう……」
最後まで紡ぐ事は出来なかった。
「……っ!」
くいなが唐突に駆け出す。さっきまでのふらつきはどこにも見られなかった。
「ちょっと、君……!」
くいなは止まらなかった。雲雀の静止を振り切って扉へ飛びつく。
ドアノブを乱暴に開いて部屋を飛び出す。くいなが躊躇う事はなかった。雲雀を振り返る事もしなかった。
「……意味が分からない……!」
一方の雲雀は苛立たし気に吐き捨てた。視界の隅にはついに手の付けられる事のなかったボトルが寂しげに転がっていた。
◇
「っ、はぁ……!」
くいなは荒い息を吐いた。
自室の扉に凭れかかり、そのままずるずると崩れ落ちる。スーツ越しに伝わる扉の冷えた感触が、思考を僅かに冷やしてくれた。
「どうしよう……」
震える声で呟く。
「どうしよう……!」
あの雲雀恭弥に気を遣わせてしまった。その事実がくいなの心を引き裂いた。
ただ雲雀の役に立ちたかった。その為だけにここまでやって来た。自分には明らかに向いていない世界に足を踏み入れ、決して明るくはない世界の地面を踏み締めて進んできた。
楽な道のりではなかった。自分が思っていたよりもその道は過酷だった。足場はいつ崩れるとも知れず、今にも切れそうな細い糸の上を必死で歩いてきた。
そして、とうとう糸は切れた。今やくいなの身体は谷底の下にあった。
努力を惜しんだ事はなかった。雲雀の為に、そして自分の為にも役に立とうとし続けた。与えられた仕事は全力でこなした。十を求められれば百の結果を残そうとしてきた。
それでも、ついに雲雀の役に立てる事はなかった。百どころか一を返す事すら叶わなかった。その上、雲雀に気を遣わせる始末。くいなにとっては絶望に等しかった。
最近やたらと気を遣われているのには気付いていた。そして、それは最後の優しさなのだと思っていた。役に立たないまでも長い間傍に居続けた自分に、雲雀が最後に情けを与えてくれたのだと。
遠くない未来に、雲雀の傍にいる事すら許されない未来が訪れる。ついに自分は捨てられて終わるのだろうと思っていた。
「あ、あ……」
震える手で肩を抱く。目を逸らす事も出来ないほどに、現実は眼前に轟然と立ち塞がっていた。
ここで終わりだった。ここがくいなの行き止まりで終着点だった。
ついに何も出来なかった。無力な身で足掻き、結局無力のままで終わった。十数年間にわたる想いは、努力は、無価値なまま破れていった。
本当に役に立てる事はなかったのだろうか。最後まで彼の足手纏いになって終わっていくのだろうか。
「……違う」
否、一つだけある。最初で最後、雲雀の役に立てる事がたった一つだけ。
「私、は……」
震える足で立ち上がった。クローゼットに押し込んでいたキャリーバッグを引っ張り出す。体調の悪さなんてどこかに吹っ飛んでしまっていた。
「一つだけ、ある」
これ以上迷惑を掛けない事。わざわざ捨てる手間を取せないように、その前に雲雀の前から消える事。
「最後に、一つだけ……」
日本からイタリアへ渡る時に使ったバッグだった。長い事放っていた思い出の品に、最低限の荷物だけを詰め込む。
先の事など何一つ考えていなかった。ただ、一刻も早くここから立ち去らなければならなかった。
当面の間必要になりそうな物を手当たり次第に手に取る。額に残った雲雀の温もりごと、すべてを振り切るようにバッグの中へ押し込んだ。誰にも知られる事なくくいなの世界は終息した。
20150107.
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