■ 根枯れ花落ち種生らず


他者を気遣うような概念を、雲雀恭弥という人間は持ち得ない。
本能的な欲求によく言えば正直に、悪く言えば我儘に生きてきた彼には、世間一般にして優しさと呼ばれる感情や行動といったものが、根本的に欠落していた。

気紛れを起こすことが数年に一回、有るか無いかというところ。それでも着いてくる人間が絶えることはないのだから、ある種のカリスマ性を生まれながらにして持っていたのかもしれない。単純な力の強さ、聞こえよく言えば自由な生き様を好意的に評価する者は、一定数存在した。だから、今まで部下という存在が不足したこともない。
しかし、その中に属しても、小鳥遊くいなという人間は特殊だった。
戦う力、手段を一つも持たない小さく弱々しい女子が、雲雀の周りを彷徨き始めたのは十年も前のことになる。

屯していた群れから危害を加えられそうになったのを、助けてもらったのだとその女子は語った。雲雀の記憶には残っていない、些細で意味もない出来事の一つでしかなかったが。
そのお礼がしたいと言い募ったくいなの、あまりのしつこさに折れたのが始まりだった。受け入れた理由としては、当時の風紀委員会には書類整備等の雑務を得意とする人材が少なかったというところもかなり大きい。

幸いくいなは全くの無能というわけでもなく、雑務を任せれば大方真面目に取り組むような生徒だった。
失敗がないわけではなかったが、教えたことは次に活かせるだけの頭は持っている。

使えるものなら、置いておいても構わない。仕事が捗るなら尚更、手放す理由もない。
それくらいの考えで、今の今まで深く考えず傍に控えさせていた。
扱いに不満を唱えることもなく、従順に。くいなはよく働いたため、これといった問題は起きなかったのだ。
少し声を掛けただけで瞳を輝かせていたから、それで充分なのだろうと、雲雀の中では納得できる位置にいた。

だから、「優しくしてやれ」と口にした山本に素直に従うわけではない。
現状に不満はなかったのだ。雲雀にとってのくいなといえば、戦力外でも使える駒、といった印象でしかない。
ただ、飼い犬に手を噛まれたような気分とでも言うのだろうか。
自分に懐いた顔をしながら、他の男にも尻尾を振る図。それが存外気分の悪いものだったので、取り払えるのなら取り払ってしまいたかった。


「ねぇ」


男所帯に身を置いていると、華奢な背中がより一層頼りなく目に映る。
一心に書類の文面を追うことに集中しているくいなは、部屋に入ってきた上司の気配にも気が付かない。
呼び掛けられて初めて肩を揺らした彼女は、扉の横の壁に寄り掛かるようにして立つ雲雀の姿を振り返り、声を上げた。


「! ひ、雲雀さんっ…お疲れさまです! すみません、私気付かなくて…!」

「別に。遊んで気付かないとかなら問題だけどね」


そんなことはあり得ない。解っていて叩いた軽口に、くいなはもう一度小さな声ですみません、と頭を下げた。
立ち上がった彼女が意識を逸らしたデスクには、たんまりと白い紙の山が小分けにされて積まれてある。

そちらに視線をやった雲雀の眉が、密かに顰められる。
確かにこれは、無理を強いている内に入るかもしれない。


「君って昔から真剣に仕事するよね」

「任された責任分は…働かなくちゃいけませんから」

「だけど、さすがに量が多い」

「え……あっ…すみません。片付いていない分もすぐに処理して、他の部署に回るよう…」

「そうじゃなくて」


何を勘違いしているのか。申し訳なさげに肩を縮めてはいるが、くいなに処理能力が備わっていないわけではないことは分かりきっている。彼女に捌ききれない量というのが、相当なのだ。
任された仕事が終わる前に、次の仕事が舞い込んでくるのかもしれない。この方面に有能だからといって采配を誤ったかと、雲雀は苦虫を噛む。これでは、山本の発言に反論もできそうにない。

今では事務系列の代表のような立場であるくいなは、非常時に外に出ていく人材分の仕事も引き受けることも少なくはないのだ。
理解はしていたはずでも、目の当たりにしてしまうと気持ちの有り様がまた変わってくる。歯痒さにも似た感情がざりざりと、雲雀の内臓を撫で上げていった。

『あいつ、いつ見ても働いてるもんな』

自分よりも先に事実に目を向けていた男の台詞が、嫌味ったらしく頭に響く。


「休まないの」

「え…?」

「これ見ても思ったけど、最近働き詰めでしょ。君の好きな時に、休みたい時は言ってくれればいいのに」


自分の感情に重きを置いたが、それ以外の事情を慮ってもくいなには適度な休息が必要だろう。現状を確認すれば、今更であっても考え直す気になる。
使い道のある道具に不備が出るのは避けたいところだ。たとえ大きなものではなくとも組織的な損害に繋がる。
くいなは全く使えない人間ではない。戦力に数えられることはまずないが、内部できちんと役目を負って存在を確立する、数少ない人材でもある。

欠ければ痛手になる。だから、これは正当な接し方だ。

誰に対する言い訳なのか、よく判らないものを思考の隅に追いやりながら雲雀は口にする。
優しい言葉というものに、できる限り近付けて。自分の願いを口に出しやすいよう、間違っても威嚇しないように。
彼の普段を考えれば、態度も言葉も、その声すらも、破格と言い表していい配慮がなされていた。


「え……」


しかし、くいなが返した反応は著しくなかった。

仕事に直接関わる話でもないのに、常より長く交わされるやり取りに戸惑いを露にして。瞬きを増やしたくいなの瞳には、明るい光は宿らなかった。


「え、と…あの……お気遣いはありがたいです。本当に、ありがとうございます」


うろうろとさ迷わされる視線は、何時しか雲雀から逸れきっている。
それは、雲雀にとってみれば予想だにしない反応だった。

無茶を強いるような命令には逆らわず、尻尾を振りながら着いてきていたはずのくいな。それが、気遣いとも受け取れる内容の言葉には、あからさまに表情に影を落とす。
そんな顔をさせるつもりが更々ない、今に限って。

小さくはない衝撃に返す言葉が遅れるも、雲雀も元々口数が多い方ではない。くいなは雲雀の動揺には気付かない様子で、重ねて否定を紡いだ。


「でも、大丈夫です。自分に与えられた分の仕事は、きちんとこなすべきですし」

「きちんと…最低限はこなしてるから言ってるんだけど」

「いいえ。雲雀さんや他の方のように、私は外で功績をあげられませんから。これくらいは出来て当たり前じゃないと」

「それにしたって」


再び目をやった書類の山が、室内の空気を吸収してしまうような錯覚がする。
見れば見るほど、人一人で片付けられる域を越えている。眉間に皺が寄るのが、段々と堪えきれなくなっていく。

一歩、壁から離れた雲雀が踏み出した分、近付いた距離。そこから、何故かくいなは同じだけ後ろに身を引いた。
それはまるで、関わりを拒むかのような態度で。


「やっぱり、充分な休暇は取れてないんでしょ」

「そんなこと…」

「君がどう思っていても人間には限界がある」


特に、女子供は無茶に走ればすぐにキャパシティーを使いきり、壊れてしまう。その程度の一般的な概念は雲雀の中にもありはした。
か弱いものは守るべきだという考え方も、自分に置き換えないだけで、そういう風に生きる人間がいることも知っている。例えるならば、長いこと関わりの途切れない、未だ若きマフィアの首領が代表としてその括りに入れられる。
つい思い浮かべてしまった男の影に、知らず雲雀は眦を細めていた。それこそ、あの男の甘さを優しいと称する人間は多いのだろう。

だったらあの時、沢田はくいなを気に掛けていたとでもいうのだろうか。
機嫌を損ねた雲雀に、山本が指摘してきたように、くいなを哀れむ人間は他にも存在するのかもしれない。そう考えると、気に喰わない気分が割を増すようだった。
扱き使っているという風に受け取られるのも癪であり、それ以上に、彼女が他者に心を砕かれているという事実が不快で仕方がない。
くいなが他者に哀れまれるところを、見聞きする。そうした展開を想像するだけでも、筆舌に尽くし難い不快感に襲われた。


「確かに…私は出来ることの限界点が低いです」

「自分で解ってるなら無茶なことはやめたら」

「いえ。だからこそ、役に立てる内は出し惜しみなんて出来ないんです」


だから大丈夫です、と微笑むくいなの頬がぎこちなく強張る様子に、直ぐ様返す言葉が浮かばなかった雲雀は無意識に下唇を噛む。
出会ってすぐの頃ならば、瞳を輝かせて喜んでいたはずだった。気紛れの一言や一動作、全てに尻尾を振って。正に、忠実な犬のように。

しかし、くいなの瞳に浮かんだのは、困惑の色一つきり。想定していた反応からは完璧に外れた返事を受け取って、存外に堅かった意思を覆せるだけの切り札がその場には存在しない。
何を言い付けても喜んで従うはずの小鳥遊くいなという人間。その目は今は雲雀の影を捉えながら、何か違うものを追い掛けているようだった。




 *




時も人も流転し、変化していく。珍しいことに強引に仕事場から引き摺り出してくれた沢田によって、それを思い知らされたくいなは酷く動揺していた。
目の前だけを見つめ続けていた所為で見えていなかったものが、瞬く間に視界に溢れ出すようだった。自分が気付いていなかっただけで、途切れていなかった繋がりがある。沢田の助言は、くいなの根底を強く揺らがすものだった。

『雲雀さんにとっては、君は替えの利く存在なのかもしれない。それは雲雀さんにしか分からない事だ。……ただね、俺にとってはそうじゃないんだよ』

自分も周りも、誰も彼もが変わっていっていると口にした彼は、変わらないくいなのことを責めるようとしたわけではない。寧ろ、心を砕いてくれているからこそ、異なる道を指し示そうとしてくれた。
決して深い関わりを結んできたわけでもないくいなを、それでも替えが利かない存在だと口にして。一切の嘘を含まない、澄んだ瞳でくいなを射貫いた。脆弱だった頃の面影、優しさや誠実さを捨てきらず、重い荷を背負いながらも自分の足で歩み進んできた彼は、確かにくいなの辿る道を憂えていたのだろう。
それがはっきりと解るからこそ、くいなはあれから落ち着かない気分で日々を過ごしていた。変わってしまったと言いながら、心に優しさを大切に飼い続けている沢田の言葉は、声は、瞳は、全てが言葉通りにくいなの幸せを願ったものだったから。

けれど、幸せとは何だろう。鈍くなった思考でくいなは呟く。
出逢ってからここまで、胸が焦げ付くほど想い続けている人の近くで過ごせている。自分の精一杯の力を振り絞って、縋り付いて。少しでも買われるよう、必要とされるように必死になって居場所も確保してきた。
しかし、これも言われてしまった通り。進む道は疾うに行き止まり、後ろに戻ろうとすれば現状の足場すら崩れるような状況だ。身動きのとれない状態は変わらないのに、あと幾つの年月、くいなは狭い世界に留まり続けるのだろうか。

親切心からの指摘は、容易には振り払えない。今までにも犇々と感じることのあった不安は、明確な形を成していく。
果てがない、と思う。彼らに並んで進むことが叶わないからこそ、止まることを選んだ自分だけ、生涯僅かも報われることがないのだと思い知らされてしまった。
変わることが強さの証だとするなら、くいなはどうしたって弱い存在でしかない。弱い存在を振り返って気にするほど、雲雀という男は甘くはなかった。


「……はぁ」


幸せそうに見えない。くいなに視線を据えたまま、沢田が口にした言葉は脳内を占領して引っ掻き回す。
傍にいられるだけで幸せだと、思いこんでいた。それも、必死だった。けれど、本当は気付いている。
それだけの状況で満足だと思うには、くいなの恋は枯渇し過ぎていた。
一滴の水では潤せない。今が充分に幸せだと言えるほど、純粋に、従順に慕い続けられるような強靭な心は、くいなには備わっていなかった。


「普通の人と、普通に付き合って、普通に幸せになる……か」


同僚は出払って自分以外の影のない室内、ぽつりと呟いた声がやけに寂しく空気に消える。
そんなこと、考えたこともなかった。と言うよりは、意図的に考えることを拒んでいたのだ。
沢田の言葉がなければ、見えない場所に置いて忘れ去ってしまえたもの。穏やかな幸福の形をした夢は、どう転んでもくいなの最愛とする人には結び付くはずもなかったから。そんな残酷な答えで、今以上に頭を悩めたくはなかった。

相手が雲雀でなければ望むこともできる、手に入れられるかもしれない未来があるということ。
未だ胸の深くで消える気配のない炎に、思いきって氷水をひっくり返してしまえば、今より息のできる場所で休めるかもしれないこと。
生涯消えることはないと思う気持ちが、本当に消えないものなのかをくいなは知らない。
消えたことがないから確かめようがない。けれど、もしかしたら消せないこともないのかもしれない。
そんな疑いまで浮かび上がり、抱える頭痛が増した気がした。


(迷うな)


それでも私は、あの人の傍にいたい。広く自由な背中を見つめていたい。この気持ちに嘘はない。
手に入るものが何もなくても?……語りかけてくる理性の声の前に壁を立てて、遮った。

最初から、その覚悟で着いていくと決めた。
本人から不要だと、存在ごと切り捨てられたわけではない。少なくとも財団内には、くいなが腰を下ろせる椅子の一つくらいはあるのだ。
だったら、まるで役に立たないと思われているわけではない筈で。今まで通りにこなすべき仕事をこなし、役目を果たしていれば、胸に燃える想いを無理に消し去らなくても許される。胸を満たすほどの幸せな未来は手に入らなくとも、拾い集めてきた思い出を捨てきってしまわなくてもいい。
そんなくいなの考えは、甘過ぎたのだろうか。


「何処に行くの」

「っ、え…」


必要書類を手に一室を抜け出そうとしたくいなの足を、鋭く低い声が止めさせる。
見れば、向かう側の廊下からこちらに進んでくる男がいた。声一つ聞き間違うはずもないが、姿を確認して背筋を伸ばしたくいなは焦り気味に頭を下げる。


「雲雀さんっ……お疲れ様です。珍しいですね、二日もこちらに顔を出すなんて」

「質問に答えなよ。僕は何処に行くのかって訊いたんだけど」

「え、と……先日の件で、ボンゴレ側にも報告書を届けなくてはならないので。今から少し、出ようかと思っていたところです」


どこか機嫌のよくない態度をちらつかせる雲雀は、くいなの手元に目を落として納得はしたらしい。ふうん、と頷くと軽く振った指先で出てきたばかりの事務室を指した。


「それ、後にして」

「え?」

「別に急ぎでもないし、後回しでも困らないでしょ。それに君、昨日僕が言ったことを全く聞き入れていないね」


部屋に戻れ、とでも言いたげな動作にくいながぎこちなく首を傾げれば、切れ長な目元が更に細められた。


「戻って。休憩する」

「……ええと、はい。私は書類を届けてくるので…雲雀さんは好きに休まれて……」

「何言ってるの。君だよ」

「君って」

「君が休むんだ。……ちょうどよく、老舗の菓子も届いたからね」


呆然としながらも雲雀の手に確かに見覚えのある箱を見つけたくいなは、全身が氷に包まれたような錯覚を覚え、動けなくなった。


(どうして)


どうして今、そんな気遣いらしきものを向けられるのか。くいなには意味が解らなかった。
仕事で成果を上げたわけでも、特別彼の役に立ったタイミングでもない。わざわざ気に掛けられるには、理由が一つも見つからない。
もしかしたら、と過ぎった懸念は津波のように、不安に震えるくいなの心を飲み込んでいく。


「突っ立ってないで、早く入って」

「あ、あの、でも…私は……」

「何。まさか、僕の淹れるお茶が飲めないとでも言うの」

「! そんなっ…滅相もないです……!」


これ以上無能と認識されたくない。少しでも役に立っていると思いたい。それだけの心が、普通なら喜ぶべき誘いに暗い影を見出してしまう。
促され引き下がるくいなの胸に、恋を追う歓びは芽生えない。理由のはっきりしない雲雀の優しさが、その不安に拍車を掛けていった。

もしかしたらこれは、自分に与えられる最後の優しさなのでは、と。
否定してくれる存在は、残念ながら何処にも見当たらなかった。

20141227.

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