■ 我等等しく地を這うが故に
ようやく仕事がひと段落ついたところで、くいなは小さく息を吐いた。
「ふぅ……」
大きく伸びをする。椅子の背凭れがぎしりと軋んだ。
財団の一室にくいな以外の姿はない。鈍い音が虚しく響いた。
「……よし、あとちょっと」
眉間を揉みながら気を引き締める。すっかり温くなったコーヒーには目もくれず、再び目の前の仕事に取り掛かろうとする。その瞬間だった。
「ああ、くいなちゃん。ここにいたんだ」
扉の方から声が届く。咄嗟に振り返り、くいなはあんぐりと口を開いた。
「ボス!?」
沢田が扉の隙間から顔を覗かせている。ここにいるはずのない人物だった。
「ど、どうしてここに……!? 雲雀さんに用事が!?」
慌てて立ち上がる。拍子に書類がぐしゃりと音を立てたが、気に掛けている余裕はなかった。目の前に立っているのはボンゴレファミリーを従えるボスその人である。優先度を考えるまでもない。
「ううん、雲雀さんに用事があったわけじゃないんだ。ちなみにアポなし訪問」
「なっ……! ひ、雲雀さんが知ったらとんでもない事になりますよ……!? 皆さんが財団の方にいらっしゃる事にはただでさえいい顔をしないのに……!」
「はは、アポ取ったって不機嫌になるんだからどうしようもないよね。でも……そうだなあ。何にも言わずに来た事がばれると流石に咬み殺されるよなあ……」
「ですから早くお戻りに……!」
「雲雀さん、今はいないの?」
「はい、今は外出していらっしゃいます。だから早く……」
「行き先は? 知らない?」
「ボス、私の話を聞いて下さい!」
「いいからいいから。……ね、教えて。雲雀さんの行き先、知らない?」
くいなは思わず頭を抱えた。昔の気弱な少年がどうしてこうなってしまったのかと、時の流れを少しだけ恨む。
「存じ上げません……。そういう事はほとんど草壁さんに伝えていくので……」
雲雀がくいなに行き先を告げる事は滅多にない。万が一の時に戦力になり得る草壁の方に言付けておくのは当然だった。
「……ふぅん」
沢田が低い声を零す。
「ボス……?」
知らず俯いてしまっていた事に気付き、くいなはふっと顔を上げた。
沢田は相変わらず扉の傍に立っている。奇妙な沈黙が二人の間に落ちた。
「……ねえ、くいなちゃん」
不意に沢田は口を開いた。
「俺とお茶しない?」
「……は?」
再びぽかんと呆ける。沢田は相変わらずにこにこと笑っていた。
「うちのアジトでさ。ね、いいよね?」
「ま、待って下さい! わたしにはまだ仕事が……。というか、なんでいきなり……!?」
「ええ? 久しぶりにくいなちゃんに会えたんだし、もっと話したいなって思ってさ。でもここじゃ駄目だろ? それこそ、いつ雲雀さんに見つかるか分かったもんじゃない」
「だから、早くボンゴレアジトの方にお戻りくださいと……!」
「まあまあ。仕事の方は後で俺から雲雀さんに言っておいてあげるから」
「ですが……!」
くいなはなおも食い下がる。ここで流されてしまうわけにはいかなかった。
「うーん……」
沢田は目を細める。弱々しい声を喉から絞り出した。
「そんなに嫌? 困ったなあ……」
「い、嫌というわけでは!」
困ったような仕草を見せると、くいなが慌てて声を上げる。
「……じゃあ」
我ながらわざとらしい演技だと思いつつ、沢田はそっと唇を吊り上げた。掛かったと、つい先日と同じ言葉を心の中で呟く。
「命令。俺に君の時間を頂戴」
「なっ……」
「いくら風紀財団所属でも、俺の命令を無下には出来ないよね。それこそ雲雀さんならまだしも。……大丈夫だよ、ほんの少しでいいんだ。久しぶりに君と話がしたいだけだから」
「そんな……」
くいなはがっくりと項垂れた。穏やかな物腰でこそあるが、傍若無人なところは雲雀となんら変わりがない。
「断らせるつもりなんて最初からなかったでしょう……」
「あれ、ばれちゃった」
にんまりと笑った沢田が踵を返す。ドアノブに手を掛けてくいなの方を振り向いた。
「じゃあ、行こうか」
エスコートするように扉を開く。ひどく優しい声で沢田はくいなを外の世界へ誘った。
◇
「ふぅん。じゃあ相変わらず仕事ばっかりなんだ」
「ばっかりというか、私にはそれしか出来ませんから……」
「ああ、敬語なんていいよ。ここには俺達しかいないんだし」
「ですが、ボス……」
「そのボスっていうのもなし。前みたいにしてくれればいいよ。俺とくいなちゃんの仲なんだから」
どんな仲だよと、自分で言っておきながら沢田は心の中で乾いた笑い声をあげる。
戦いと苦悩に満ちていた学生時代。けっしてくいなと深い交流があったわけではなかった。初めて出会ったのは復讐者との戦いが終わった後だ。
「……それでも放っておけないよなあ」
「……沢田くん、何か言った?」
「ううん、何も。……いや、うん。でも、いいなあ。くいなちゃんにそう呼んでもらえるのは随分久しぶりな気がするよ」
「それはまあ……沢田くんはボスだし……」
「はは、そうだね。でも、獄寺くん達や雲雀さんしかいない時はそんな風に話してくれると嬉しいな」
「はあ……善処します」
「うん。全力で善処してね」
くいながぎょっと目を見開くのを感じながらティーカップを傾ける。琥珀色の熱い液体はまだたっぷりと残っていた。
「……沢田くんは変わったね……」
くいなは胃がきりきりと痛むのを感じた。眉間を揉みたくなるのを必死で堪える。かつての少年の面影などどこにも見当たらなかった。
「はは、そうかもね。まあ、就職先がこんなのだし。変わらずにはいられないよね」
「それもそうかな……」
「一、 二を争う巨大なマフィアのボスがへっぴり腰の弱虫だったら、流石に困るでしょ?」
「……うん。そうだね……」
そのままが良かったのにとは、とても言えなかった。赤ん坊に尻を蹴られてばかりのボスではさすがに心許ない。
沢田に無理矢理連れてこられたのは、ボンゴレアジトの中にある小さな庭だった。木々が風に揺られる音が時折響くばかりで、周囲に人の姿はない。
沢田は遠い目をするくいなをちらりと見た。ゆっくりとカップを戻す。
「……くいなちゃんは変わらないね」
上等なテーブルと陶器の触れ合う音が虚しく響いた。
「獄寺くんも、山本も、お兄さんも、ランボも。骸やクローム、それから京子ちゃん達も。皆、多少なりとも変わった。良い意味でも悪い意味でもね。雲雀さんだってそうだ」
大人になって、この世界に飛び込んで、様々な事を知った。
綺麗事だけではどうにもならない時がある。守りたいとどれだけ願っても、どれだけの力を手にしても、全てに手を伸ばす事は出来ない。
大事なものを失ったのは、一度や二度ではない。誰かにとっての大事なものを奪った事もある。
「綺麗なままではいられない。それでも下を向くわけにはいかない。昔の俺達に胸を張れるように生きていかなきゃいけない。……俺は今でも必死だよ。汚れて、血と泥に塗れて、硝煙の臭いが身体に染み付いても。それでも前だけを向いて生きてる。皆だって同じだ。変わっていくばかりの場所でほんの少しの変わらないものを守ろうと、毎日毎日死に物狂いさ」
奪い奪われ生きている。とうの昔にこの身体は血に塗れたが、それでも心だけは染まるまいと足掻き続けている。それが一連の戦いを通して固めた自分の決意だった。
皆を守ると、その為にこの世界に踏み込むのだと決めたあの日の自分を、沢田綱吉は決して裏切らない。その為にこれからも変わり続けていく。
「そんな中で、君だけが変わらない。草壁さんも言っていたよ、君が中学時代の姿のままに見える事があるって。俺も同感だね。いっそ違和感すら覚えるほどに君は変わってない」
沢田は伏せていた瞼をそっと持ち上げる。目の前には困惑しているくいながいた。その姿は中学時代のそれと悲しいほどに変わらない。
「……いや、違うな」
沢田は鋭い瞳でくいなを見つめた。
「変われないんだろう。君は」
「……っ」
くいなははっと息を飲んだ。沢田の静かな視線が、心臓ごと抉っていくようだった。
「雲雀恭弥の傍にいる為には留まっていなければならない。今以上に無力になってはならないし、今以上に役に立てる事はないと分かっている。死んでも後ろには下がれないし、どう足掻いても前には進めない。俺達が死に物狂いで変わっていく中、君は死に物狂いで現状を維持する事を選んだ。なぜなら雲雀恭弥が好きだから」
くいなは震える唇を開く。半ば反射的な行動だった。
「……それは」
かつての同級生がひどく恐ろしく思えた。意志の強い瞳に自分の何もかもを見透かされているような錯覚を覚える。そしておそらく、それは錯覚などではなかった。
「……それは、いけない事なの?」
くいなの世界は雲雀への恋心を中心にして回っている。その恋情を裏切る事は出来ない。何年もの時を経ても、くいなの想いはいまだに灼熱と同じ色を帯びている。
「好きだから、せめて傍にいたい。傍においてもらう為にはそれだけの価値がなくちゃいけない。その為に変わらずにいようと必死になることは……いけない事?」
「……さあ。それが良いのか悪いかなんて俺には分からない。ただ、少なくとも俺はね、人は変わっていくものだと考えてるよ。あの時に比べれば皆大分変わったし、これからも変わっていくんだろう。……でも、俺が言いたいのはそういう事じゃないんだ」
くいなはそっと息を呑む。
予感があった。次に放たれる言葉は、きっと自分を大きく揺るがせてしまうと。しかし、沢田の静かな威圧感が耳を塞ぐ事を許さない。
「必死でしがみ付こうとする君は、ちっとも幸せそうに見えない」
「し、あわせ……?」
「そう。いつだって目を伏せて、眉間に皺を寄せて、苦しそうな顔をして。恋に生きる事を望んだ君にとっては本望な生き方の筈だろう。それでも、俺には君が幸せそうにはこれっぽっちも見えない。ほんの少しのご褒美に喜ぶ姿を見た事はあっても、君が本当に幸せそうに笑う姿は一度だって見た事がないよ」
「それは……そんなはずは、ないです。私は望んでここに来て……ここを選んで……。っ、雲雀さんの傍にいたいから……!」
「……ねえ、くいなちゃん」
温かな日差しが降り注ぐ。紅茶の表面に写る青空を沢田はじっと見つめた。
――彼女にはこの小さな空しか見えていないのだろう。小鳥遊くいなの世界はあまりにも小さくて閉鎖的だった。
「雲雀さんが好きなのも分かる。君が必死に努力してきたのも知ってる。……でも、そうする事でしか幸せが得られないって思ってるのなら、それは間違いだ。幸せは一つじゃない」
「え……?」
「普通の人と普通に付き合って、普通に幸せになる。それも一つの幸せの形なんじゃないかな。無理に雲雀さんに拘る必要はないんじゃない?」
「……それは」
くいなは無理矢理声を絞り出した。身体がかたかたと震え出す。
「出て行けと、いうことですか。何の役にも立てないから、ここから去れという事ですか」
「違う。違うんだ。そうじゃない」
沢田が首を振る。
「雲雀さんにとっては、君は替えの利く存在なのかもしれない。それは雲雀さんにしか分からない事だ。……ただね、俺にとってはそうじゃないんだよ。沢田綱吉にとって、小鳥遊くいなは替えの利かない存在だ。君の代わりはいない」
「え……」
「幸せになって欲しいんだ。例えば君がここを出て、普通の世界に戻ったとしても。それでも君は俺にとって大事なファミリーだ。ファミリーの幸せを願うのは当然だろう」
「ファミリー……」
「そう」
頭を強く殴られたような気分だった。沢田の思いよらない言葉は、くいなの脳味噌を激しく揺さぶる。
ずっと一人だと思っていた。価値のない自分が彼らと本当の意味で交わる事はないのだと思っていた。雲雀にとってそうであるように、沢田達にとっても自分は替えの利く存在であると。
それなのに今、目の前に立つ男が言う。お前の代わりなどいるものかと。
――面影がなくなっただんてとんでもない。使い物にならない思考の片隅で、無意識に呟いた。
多くが変わり、しかし何一つ変わらない沢田綱吉がそこにはいた。初めて会った瞬間、真っ先に自分の事を心配してくれた優しい少年が。
「出て行けと言っているわけじゃない。君にそんな事を言う奴がいるなら俺がぶっ飛ばしてやる。……ただ、よく考えてみて欲しいんだ。君が本当に幸せになれる……いや、違うな」
沢田は真っ直ぐにくいなを見つめた。どうかこの少女が救われるようにと、心の底から願った。
「本当に望む、後悔しない道を」
呆然とするくいなを前にしてそっと目を伏せる。紅茶はとっくの昔に冷めてしまっていた。後は貴方次第だと、誰に言うでもなく呟いた。
◇
「……何あれ」
雲雀は低い声で呟いた。視線の先には沢田とくいなの姿がある。
「……なんであの子がここにいるわけ」
回廊に立ったまま、雲雀は二人をぎっと睨んだ。正体の分からない靄がとぐろを巻く。
「よっ、雲雀。なーに怖い顔してんだ?」
「……山本武」
たまたま通りかかった山本が雲雀へと近寄る。雲雀の鋭い視線に睨まれても怯む様子すら見せなかった。
「お前がこっちにいるなんて珍しいな。ツナに用事か?」
「……そうだよ。呼び出したのは沢田綱吉のくせに、執務室に行ったらいなかった。庭にいるって書き置きがあったからわざわざここまで来てやったんだ。そしたら……なんであの子があそこにいるわけ」
「あそこ……? おっ、小鳥遊じゃねーか! 久しぶりに見るなー。ツナも一緒じゃねえか、雲雀が連れて来たのか?」
「君、人の話を聞いてたかい。僕が聞いてるんだよ。なんであれがここに……しかも沢田綱吉と一緒にいるんだい。呑気に茶なんか飲んで。仕事はちゃんと任せてきたはずだけど」
自分に尻尾を振るのはいい。その上で他の男にも尻尾を振っているのがひどく気に喰わなかった。くいな本人にそんなつもりは微塵もなかったとしても、雲雀にはそう見えてしまった。
「あー……。まあ、小鳥遊も息抜きをしたい時くらいあるだろ? あいつ、いつ見ても働いてるもんな」
山本はぽりぽりと頬を掻いた。記憶の中のくいなはいつだって何かしらの仕事を抱えていて、張り詰めたような顔をしている。
「……そんな怖い顔して睨んでやるなって。前から思ってたけどよ、お前、もうちょっとあいつに優しくしてやってもいいんじゃねーか?」
「……優しく?」
「そう、優しく。あんまりいつも働かせてると、小鳥遊もそのうちぶっ倒れちまうだろうし」
「……休みくらい、言ってくればいつでも与えるけど」
「じゃあ言われたことあるのか? 休ませてくださいって」
雲雀は記憶を思いっきりひっくり返した。どれだけ探してみても、そんなくいなの姿は一つも出てこない。
「……ないな」
「ほらな。お前がいつも怖い顔してるから言えねえんだって」
――本当にそうなのだろうか。雲雀は心の中で問い掛けた。
あれは日頃から言いたい事を我慢しているのだろうか。
思えば、くいなが自分の願いを口にした事はなかったような気がする。もう随分と長い付き合いになるが、くいなが何かを求めてきた事はない。いつだって聞き分けがよくて、いつだって従順で、ただ黙って自分の後ろを着いて回っていた。
「……ふん。……まあ、それぐらいならしてやってもいいけど」
不快感しか覚えない山本のへらへらとした笑顔から視線を逸らす。視界に再びくいなと沢田の姿が映った。
――そうすれば、あれも他の人間に軽率に尻尾を振らなくなるだろう。
その為なら、多少気を回してやる事くらいどうという事はない。訳の分からないこの不快感を振り払う事が最優先だった。
「……気に喰わないな」
背中を向けて座っているくいなの表情を伺い知る事は出来ない。それがまたひどく不愉快だった。
20141223.
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