◎橋の上であなたと
ヨツバキラをもう少しで追い詰めそうだという時に、急遽仕事が舞い込んでしまい、泣く泣く捜査本部を後にする。早く帰りたかったのだが、サイン会やら、新作の話やらで長引いてしまい、家に帰る頃には、もうすぐ日付が変わろうとしていた。
その帰り道の事だった。ドスンと背中に衝撃を感じたと同時にじくじくとした痛みを感じる。とても懐かしい感覚だった。どうやら私は刺されたらしい。口の中が鉄臭い。
「…全く。最後の最後で手を滑らせたのか。これでは死ぬのに時間がかかってしまうよ」
「な…なんで、そんな…」
ゆっくりと振り返ると、見知った声がした。そう、杏樹と声をかけてきた、あの疫病神だった。
「ど、どうしてそんなに落ち着いているの。わ、私はあなたを刺したのよ。い、今だってあなたに止めを刺そうと、しているのに」
「随分と変なことを聞くんだな。慣れに決まっているだろう。人っていう生き物は慣れれば基本的に何事にも動じなくなるんだから」
手で傷口を抑えるものの、やはり血はそう簡単に止まらない。あーあ。この服はエルと月が選んでくれたものなのに。じんわりとお気に入りの服が赤に染まっていくのをぼんやりと眺める。彼女は刺そうとした場所は外したが、それでも傷口は決して浅くはなかったようだ。全く運がいい奴だ。
「どうして、だなんて野暮なことは聞くつもりはないよ。大方、想像だってつくし」
「…。」
「そうか。でも慣れてはいてもやはり堪えるものだな。私以外、あの人の存在を覚えている人間なんていないと思っていたから。」
「…!だったら、どうして…ッ」
思い切り突き飛ばされ、受け身を取る暇もなく地面へと転がる。ああ、痛い。熱い。全身が痛覚で支配されているように何もできなくなってしまう。女はその隙を見逃さずに私に馬乗りになった。傷口が痛んだ。
「どうして、そんなことを言うの。そう、思っていてくれていたんなら、一度くらい…」
「どうもこうもない。お前が父親のことを大切に思っていたように、私も私を産み直した両親が大切だった。家族が愛おしかった。私はこれ以上、私を大切だと思ってくれている人を傷つけたくはなかった。…人のことは言えないな。結局、私はお前と同じで私が可愛かったんだよ」
見上げるような形でここにきてようやく女の顔を見た。ああ、こんな時に気づきたくはなかった。本当に。泣いている顔を見ると、あの人の顔がちらついて仕方がない。
「全く、お前も馬鹿な奴だ。このご時世に自ら手を汚すなんて。お前、自殺願望でもあったのか」
「…うるさい。元から、アンタを殺したら私だって死ぬつもりだったんだから。死に方が変わるだけよ」
「…ああ、そう。じゃあ、さっさとそのナイフを心臓にでも振り下ろしてお前も死ねばいいんじゃない。そしたら、運が良ければお前の大好きな父親にも会えるかもしれない」
あいの告げた日付より少し早いけれど。まあ、こんな最期も悪くはないと思う。エルは私の幸せのハードルが低いと言ったけれど、私には確かに幸せの連続だったのだから。家族は私の名前を呼び、抱きしめ、私が私としてそこにあることを許してくれた。学校に行かせてくれたし、満足に食べさせてくれた。今だって好き勝手やって生きている。…もう一度逢えたらいいと思って彼にも出会えた。…これのどこが不幸せなのだろう。
私はまさしく幸せの絶頂で、大切な人より先に死ぬことができるのだ。もう十分だ。最期に見るのがこの女なのは少しだけ腹立たしいが、私らしいとさえ思う。だが、いざもうじき死ぬとなると、一つだけ気がかりなことがあった。私は未だにナイフを振り下ろさずに涙をこぼしている女に声をかける。
「ねえ。お前、やっぱり死ぬのはやめておけ。」
「わ、私はあんたを殺そうとしているのよ。殺人を犯したの。そもそも、こんなどうしようもない薄汚い未来を生きて、何になるっていうの」
女の涙が頬に落ちた。生暖かい。確かにそれは生きている証だった。
「そもそも、あんた、頭おかしいのよ。あんたはもうすぐ死ぬって言うのに。慣れているからって、死に慣れていいわけないじゃない。どうして私を恨まないの。憎まないの。罵らないの。…どうして今更、死にたくない、じゃなくて、あんたの幸せを奪った私に生きろって言うの」
女は立ち上がって、私の体を抱きかかえた。ナイフはカランと音を立てて地面に転がっている。
「…お前が生きていないと誰が父親を思い出すんだ。それに、あの人のことを覚えているのは、きっと私とお前だけだ。私達が死んだら、二人を誰が、思い出すって、言うんだ。」
指先が冷たくなっていく。言葉を言うのもつらくなってきた。
「…頼むよ、姉さん」
「…!」
我ながら、この言葉はずるいなと思いながら、ゆっくりと目を閉じる。何か彼女が私に向かって叫んでいた気がしたが、上手く聞き取れなかった。
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