その大きい背中を追い越すまではいかなくても、並んで横顔と笑い合う。それが目標だった。 いつのまにか遠くなった背中は手を伸ばしても届かない、小さくなっていずれは私の知らないきらきらの世界へ旅立ってしまうのだ。ずいぶん前からわかってたことなのに、私の制服を濡らす雨はいつまでたっても止まない。
「…何してんですか、慎吾さん」 「よお」
ベンキョーだよ、笑った慎吾さんの手には見慣れない英単語の並ぶ参考書。それは屋上ですることじゃないでしょうと溜め息を吐くとひらひらと手だけで答えられる、それに見えないように少しだけ眉を寄せて隣に座った。
「寒くないんですか」 「冬だからな、さみーよ」 「風邪ひいたらどうするんですか、」
受験生なのに。静かな屋上に響いた私の声は震えてなかっただろうか、自分じゃわからなかった。試験がもうすぐだってことぐらいわかってるのに言いたくなかった。だって受験が終われば、慎吾さんは。 吹く風が冷たいのは1月だから当たり前なんだろう。だけどここに入学したあの時から毎日のように屋上に入り浸って彼と風を浴びてたはずなのに、どうしてだろう。今までにもらったことのない冷たさだった。 少し震えた自分の体を膝を抱えて誤魔化した、教室に戻れと言わないのは言っても無駄なことを慎吾さんはわかっているから、それほどまでに一緒にいたから。
「受験生には気分転換も必要なんだよ」 「それで風邪ひくつもりですか」 「お前もさ、来年になったらわかるよ」
ポン、と優しい音を立てて頭を撫でるのは彼の癖。 今の彼の気持ちは来年にならなきゃわからないのか、今わかることができないのが悲しいよ。所詮お前はただの野球部のマネージャー、かわいい後輩程度なんだって言われてるようで鼻がツンとする。 私にはただ笑って見送ることしかできない、頑張ってくださいねって仮面を被って笑うだけ、たとえ彼の努力が私の世界から慎吾さんを失うことにつながっているとしてもだ。
「受験終わったら、卒業ですね」 「あー…」 「ちゃんと大学受かってくださいよ」 「卒業、か…」
ぼんやりとその単語を口にする慎吾さんに心臓が痛くなる。自分で言ったことにじんわり熱くなる目をギュッと閉じると頭を撫でてた手が止まる、呼ばれた名前に顔が上げられなかった。
「卒業しても俺らのこと忘れんなよ」
いつもと変わらない優しい声色に目を見開く。同時にぽたり、と。落ちた涙を見せない強さがなくって思わず声が出てしまった。
「それはっ、こっちの台詞でしょう!」 「は、」
寒くってスカートの下にジャージを履いたら「色気がねぇ」って笑ってくれたことやテストやばいんですと言った私にここで勉強を教えてくれたこと、白球しか見てなかったあの夏のことも、春が来たら全部なくなっちゃうんだろうか。 過去になって思い出になって制服と一緒にタンスの奥深くに仕舞い込まれちゃうの、それで新しい世界に幸せを覚えて、いつか大掃除するときに見つけた制服に大人になった笑顔で笑うのかな。
「大学行って、新しい友達ができて、」 「ちょ、」 「野球なんか趣味程度になって彼女だってできて、私の知らないところで楽しく暮らして、」 「……」 「忘れちゃうのは慎吾さんの方でしょ、…」
なんてことを言ってるんだなんて、自分が一番わかってる。だけどもう止めることなんてできないのだ。 私だって白球を追ってた彼らを瞼の裏でしか見れなくなってしまうの、瞼の成長しない彼はそのうちぼやけて、ただの懐かしいねって笑うための思い出になってしまうの、そんなのいやよ。 瞳の裏でとっくに溢れてた涙はもう我慢できませんって零れだした、一旦流れたら止めることなんてできっこなかった。
「…忘れないで、ください」
「慎吾さん、」と。数えきれないほどに呼んだ名前を噛み締めるように呼ぶ。 ぽたぽた零れた雨は止まない、いつか止むとしたらそれは思い出に変わったときだろうか、それならずっと止まなくたっていい。 ぽたりとまた落ちた雫が彼の手を濡らす、いつの間にか重なった私たちの手はあったかくてひっくともう一度嗚咽がこぼれた。
「忘れねーよ」 「…うそ、です」 「嘘じゃねー」
ギュ、と絡まった指に体が跳ねる。顔を上げるとまた一筋零れて、代わりに少しだけ晴れた視界に映った慎吾さんがくしゃりと笑った。
「忘れるわけねーだろ」
震える手でゆっくり慎吾さんのシャツを掴む、あんなに届かなかった背中が今はこんなに近い。同じように私の背中に触れた手はあったかくて、響いた声と繋がれた手の温かさはきっと世界の何よりも愛しいのだと思った。
――― 企画「relay」様へ提出。 ありがとうございました!
慎吾さんは後輩に好かれる先輩だと思う。
11/1/14
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