思い出の中に綺麗な魔法を望み続けた。 Kyrie eleison. Chiriste eleison. Kyrie eleison. 繰り返される言葉は、私の母国語ではない。 だが、それはひどく耳になじんでいた。すう、と心の中に入り込んできて、私を平穏へと誘ってくれる。 主よ、憐れみたまえ、と繰り返されるそれは、私にとって、まるで子守歌のようだった。 現実と夢の中間のような状態で、ぼんやりと考え込む。 ああ、こういうのは何と言うんだっけ。 「…………ス、……ジョウ。ミス・空条。終わりましたよ」 男の声で、意識は急速に覚醒していく。自宅のものでもないのに見慣れてしまった天井は、一点の汚れもない純白だった。 「……ありがとうございます、ドクター。いつもすみません」 ゆっくりと体を起こしながら、ドクターにお礼を述べた。彼はにっこりと笑って、足早に部屋を出ていく。忙しいのだろう。なんたってここは、SPW財団なのだから。 定型のように体調を問うナースに短く受け答えをしつつ、いそいそと服を着込む。寒いわけではないけど、病院服というのはどうも落ち着かない。 一礼して退室。一人で出口に向かう。 その途中でふと目に付いたのは、銅像だった。胸部から上しかない、穏やかな顔をした男性の姿。頬に、一本の傷跡があるのが伺える。 ロバート・E・O・スピードワゴン。この財団の設立者。 なんでも、私のひいひいおじいちゃんやおじいちゃんと交流があるらしい。おかげで、といったらおかしいが、私の家族は何かとお世話になっていた。 少しの間、銅像を眺めていたが、小さく息を吐いてまた歩き出す。ああ、なんだか妙な気分だ。 早いところ行かなくては、そう思って足を早めた、その瞬間。 『ふふ、当たり前だけどスピードワゴンにそっくりだ』 半分透けたような、男の声が響いた。 ハッとして振り向くと、さっき眺めていた銅像の前に、ガタイの良い男がたたずんでいた。 彼は私の視線に気づいたのだろう、銅像を眺めるのをやめて、こちらに視線を寄越す。 『お疲れさま、トキワ。ずっと待ってたんだ。長かったよ……本当に、長かった』 「ありがとう、ジョジョ……いいえ、ジョナサン。でも貴方なら、好きに動くことだってできたでしょう?」 そう問えば、体調の悪い人をおいてはいかないさ、という、紳士的な回答が返ってきた。本当に、よくできた人だ。肉体のない彼を、果たして"人"と形容していいのかは、知らないけれど。 行かなきゃ、と小さくこぼすと、ジョジョは自然な動作で私の横に並んだ。 『日本に帰るのかい?』 「勿論。……随分心配をかけてしまったはずだし、ね。向こうに情報はいってないだろうし、私の片割れは、ああ見えて結構過保護なのよ?」 『少なくとも、お前の祖父は心配してるだろうな。お疲れ、シニョリーナ?』 「…………いい加減、その呼び方止めてくれる?虫酸が走るわ、シーザー」 『それは失礼』 私とジョジョの会話に乱入してきた彼は、わざとらしく肩をすくめてみせた。本当に相変わらずだ。別にもう慣れてしまったけれど、聞いてて気分がいいわけではない。 シーザーを軽くあしらいながら、財団の手配してくれた飛行機に乗り込む。彼らも、私に続いて。財団の人間が止めることはない。私にしか見えていないし、そもそも、見えていたからといって追い出すことはできないだろう。もう好きにしてくれ。 シートに座ってベルトを締める。そして小さく、私のスタンドを呼ぶ。 「…………《ぐるりよざ》」 手元に現れる、A4サイズほどの分厚い本。まるで聖書のような、クラシカルの装いをしたその本を、ぱらり、片手でめくる。 書かれている文字をひとつひとつ読みながら、指で文字をなぞっていく。美しい鮮紅色のインクは、全く色褪せていなかった。厳密には、それを"インク"と呼べないが、まあいいだろう。 何頁はめくった先、ある名前で指を止めた。 「《 とん、と文字を軽く叩く。その瞬間、私の目の前に現れたのは、ありとあらゆる"緑"を含んだ、"彼"のスタンド。そういえば、何故か最初はグリーンではなくエメラルドと呼んでいたっけ。 「久しぶりね。……貴方の主を、ここに呼べるかしら?」 ハイエロファントにそう問いかければ、小さく頷いて、空気に溶けるように消えていった。ゆっくり待つとしよう。 少しして、ハイエロファントは戻ってきた。"彼"の姿は見えない。だが、ハイエロファントはゆっくりと頷いている。……大方、出るのが気まずいとか、そんな理由だろう。 ありがとう、と小さく礼を言うと、ハイエロファントは消えた。気を使ったのだろうか。"彼"からしたら、きっと薄情者に見えるだろうけど。 「呼んでごめん。でも、貴方と話がしたかったの。姿を見せてほしい」 『…………君はずるいよ。そう言われたら、僕に拒否権なんてないじゃないか』 空気をふるわせる、懐かしい声。そりゃあそうだ、あれから十年近くたっている。なにより、"彼"は、私の目の前でその生を終えているのだから。 特徴的なホーステールと、チェリーを模したであろうアクセサリー。首もとまでぴっちりと止められた学ランのボタンは、彼の性格を表していた。 「強制はしてないんだけどね。……久しぶり、花京院」 『うん、久しぶり、トキワ。まさか君のスタンドで、呼ばれる日が来るとは思ってなかった』 「私だって、呼ぶと思ってなかったよ。……あそこで間に合わなかった、私が悪いのだけど、ね」 『そんなことはない。僕はね、トキワ。あの旅についていったことも、ああいう結果になったことも、何一つ後悔なんかしてないさ。トキワや、承太郎や、ジョースターさん達に出会えたことが嬉しいんだ。だから気に病まないでほしい』 しおらしいなんて、君らしくないじゃあないか。 そう言いながら、花京院は苦笑いを浮かべた。その表情に、つい頬がゆるむ。 「励ますのか貶すのか、どっちかにしたら?」 『貶したつもりはなかったんだけど』 今度は苦笑いじゃない、見慣れた穏やかな笑みを、花京院は浮かべた。なるほど、多少なりと、彼もテンションが上がっているらしい。 不意に、花京院が私の手の中のぐるりよざを指さした。 『…………それで、僕は"ここ"にいられるのかい?』 「花京院が望むなら。決定権は私にない。貴方にしか、決定権は存在しない」 私のスタンド能力は知っているはずなのに、わざわざ聞いてくるなんて。この優男は、見かけによらず食えないのだ。 ぐるりよざの白紙の頁を開き、ベルト部分に刺さっているガラスペンを取り出す。準備はできた、後は、やるだけ。 花京院をまっすぐに見据えて、小さく息を吐いた。 「花京院典明。貴方の力を、私に貸してくれる?」 『―――もちろん。僕はトキワの力になろう』 "許可"の言葉を聞き届けてから、ガラスペンを掌に突き刺した。鋭い痛みとともに、透明だったガラスペンの中央が赤く染まっていく。 掌からペン先を引き抜いて、その勢いのまま、本にペンを走らせた。《花京院典明》、と。 『痛くないのか?』 「痛いよ。傷はすぐに塞がるから、気にはならないけど。……花京院、これで貴方は、私のスタンドの影響を受ける。イヤになったら、何時でも"契約を破棄"できる。さっきも言ったとおり、決定権は私にない。貴方にしか、決定権は存在しない。私は私。貴方は貴方。同一にはなり得ない」 花京院はゆっくりと頷いた。わかりきっていることだろうに、しっかりと聞いていてくれる。それはきっと彼の気遣いであり、彼の覚悟なのだろう。 「――― この言葉に、大した意味はない。ただ、私がやりたいだけ。私の勝手で彼らを縛り付けてしまうことへの贖罪か、否か。 案の定、花京院は意味が分からなかったのか、きょとんとした表情で私を見据えていた。特に何かを信仰しているわけではないのだ、聖書の一節など、わかったら逆に怖い。 ぱたん、とぐるりよざを閉じるころには、掌の傷も治り、花京院もいつもの表情に戻っていた。 『終わったのかい、トキワ』 「ええ。花京院、貴方はこの二人を知ってるよね?基本的にこの二人と、貴方は自由に動ける。射程範囲はだいたい一キロってところかな。それ以上になると、自動的に"霊"に戻るわ。私が呼べばいいから、これといって弊害はないけど……ま、覚えておいて」 『俺はシーザー・A・ツェペリ。改めてよろしくな、カキョーイン』 『僕はジョナサン・ジョースター。よろしくね』 『花京院典明、です。よろしくお願いします』 何度も顔を合わせているというのに、なんて律儀な集団だ。喧嘩されるよりはずっといいけれど。 なにやら盛り上がっている三人を横目に、シートをリクライニングして、ブランケットを被った。 目を閉じた、その瞼の裏に映るのは、たったひとりの、私の片割れの姿。 「…………承太郎、」 ああ、早く会いたい。 唯一無二の、私の半身に。 思い出の中に綺麗な魔法を望み続けた。 (それが救いだとは言わないけれど) 130523 |