愛すべき【関係】。 ―――ずっと昔の、遠い記憶。俺は疎か、兄上さえ、まだ字が無かった頃の話。 魏軍の軍師だった父上は忙しくて、一緒に居た記憶はあんまりない。 それでも、寂しいとか、そういうのも無かった。一緒にいて、勉学とか武芸とか、教えてくれる人が居たから。 けど、その人は何時の間にか、俺達の前に現れなくなった。理由はよく分からない。 どうしてだか気になったが、口に出すことは憚られた。だから、俺も兄上も、父上さえも、その人の話題を出すことは無かった。 もし生きてるなら、何をしてるんだろう。 「昭」 「何ですか、兄上。進軍ならちゃんとしますって」 兄上の不機嫌な声で、思考の海から引きずり出された。 今することじゃないし、してる場合でも無いのは良く分かってる。あー、めんどくせ。 別に負けそうな訳でも、敗走しそうな訳でも無い。けど、押されているのは事実だった。 「で、伝令!伝令ーッ!」 「どうした?何かあったのか?」 焦ったような伝令に問い掛けた。相当息が上がってる所をみると、火急の知らせだと考えるのが妥当だろう。 それが、と、空気混じりの声で兵は紡ぐ。 「敵拠点が、次々と落ちています!」 「へえ、良いことだな。ねえ、兄上?」 にんまり笑顔で問い掛けてみた。勿論、"良いこと"だけじゃないことくらい、理解してるけど。 兄上は俺を一瞥しただけで、無言。本気だと取ったのか、伝令は困惑したように俺を見据える。 「し、しかし……何処の将かも分からず、目的も…」 「構わん。敵が動揺しているうちに決める」 さらりと言い放った兄上の言に苦笑い。まあ、これを使わない手はないけどさ。 剣を担いで、足を進めた。その時、背後から俺を呼ぶ声。微かに振り返る。 「昭、凡愚共に引導を渡してやれ」 「兄上の仰せのままに」 「―――随分と変わって……いや、成長ととるべきか」 第三者の声に、その方向を振り返った。何時、ここに来た?周りに兵は配備していたはずなのに。 警戒する俺達に、その人はふわり、と笑う。 「お久しぶりです、師君、昭君。……いえ、今のお二人には失礼でしたね。司馬師殿、司馬昭殿」 見たことがある、なんてもんじゃない。ずっと探してた優しい笑顔。なのに、凜とした冷静さは失われていない。 絶句する俺と兄上に、彼女は自然に拱手をした。 「仲達様の命により、援軍として参りました。統羽、と申します」 その笑顔は、記憶の中と寸分の違いもなく、俺と兄上に向けられた。 * 「…統羽、さん?本当に統羽さん?」 司馬昭殿の言に、はい、と強く肯定。その後ろで、司馬師殿は目を見開いて固まっていた。 無理も無い。突如消え失せた人間が、こうやって現れたのだから。 「……今の今まで、何処で何をしていたのです」 低く問われる言葉には、困惑と怒りが。ふふ、仲達様にそっくり。 でもきっと、それを言うと腑に落ちぬ顔をするだろうから黙っておく。 「積もる話は後に致しましょう。敵の重要拠点は来るまでに落としておきましたので……司馬師殿、全軍に進軍命令を」 「無論。全軍、敵本陣に突撃せよ!凡愚共を根絶やしにせん!」 司馬師殿の声に呼応するように上がる雄叫び。それから、馬の蹄や人の足音で辺りは騒然とした。 しん、とした本陣。風が頬を撫でて、それに運ばれるように声がする。 「それで、統羽さん。今まで何処に?」 「少し家が揉めてしまいまして。仲達様に許可をいただき、戻っていたんです」 隠すことは無く、だが、核心には触れない曖昧な言い方。 お二人はきっと気付いている。けど触れはしないその姿勢が有り難かった。 そのまま、続ける。 「既にそちらは大丈夫ですので、また仲達様のお傍に居させていただくことになりました」 さあ、とにかく勝鬨を上げにいきましょう―――そう言えば、お二人は強く頷いた。 その背についていこうと足を進めると、不意に名前を呼ばれる。 「はい、何か」 「今更かしこまらずとも良いのでは?」 「兄上の言う通りですよ。もう家族も同然なんですから」 きょとり、とする。まさかそんなことを言ってもらえるなんて。 それから笑って、止まっていた足を進めた。 「ありがとうございます。子元殿、子上殿」 愛すべき【関係】。 (出会いを拒むことなど赦さない) 120101 |