消えない狂気

 灰原と阿笠が見舞いに来たその日、ナマエは錯乱して灰原に傷を負わせた。

 すぐに取り押さえられ、鎮静剤を打たれたため、大事には至らなかったが、組織壊滅の際についたいかなる傷よりも大きな傷を灰原に負わせた彼女には、拘束具の着用が課せられた。
 しかし、目覚めた彼女は、何も覚えていなかった。記憶喪失の影響で錯乱したため、ナマエ自身が怪我をしないための処置だと説明されると、曖昧にうなずいただけだった。







「まるで親権を奪い合う夫婦だな」

 ハァ、とため息をつきながら漏らされた赤井秀一の一言は、多分に降谷零の忍耐のキャパシティを埋めた。
 怒鳴れば負けだと知っている。目覚めないナマエを共に二人で病室で眺めていたときのことなどまるでなかったかのような赤井秀一に、降谷は努めて冷静な視線を投げかけた。
 公安と、FBI。どちらがナマエの身柄を引き受けるか、双方の交渉官が話し合うこと数日。まだ決着はついていないが、裁判に持ち込める事案でもない。今は休憩時間だが、休憩中の双方の意見交換も立派な交渉の一部。

――――銃刀法違反のこの国で、未成年の彼女に銃創をつけた件なら、不問に付すと言っているでしょう」

「不問に付す?そりゃまたずいぶん寛大な言葉だな。君たちに許す権利があるとも、うちを責める権利があるとも思えんが。彼女は存在しない人間だ。……それに、今さらそんなことをこちらが気にすると思うか?別に日本国民というわけでもない罪人、あるいは危険人物を撃っただけの事を?気に入らないなら慰謝料として、彼女の今後一切の面倒を見る用意もある」

「……彼女が話す言語が何か分かっているんでしょうね?あなたやそこの二人がたまたま我が国の言語を多少扱えるから意思疎通ができている、という事実をお忘れなく。ああそれとも、折角取得したグリーンカードを捨ててこちらに属する用意もあります?それなら喜んで彼女ごと受け入れましょう」

 そこの二人、と示されたのは、ジョディとキャメルだ。うっ、と言葉に詰まった彼らが交渉相手ならもっと楽だったろうに。

「ホー。君に歓迎される日が来るとは思わなかった。それもいいかもな」

 くっ、と降谷は拳を握りしめて怒りを堪えた。
 いやもう堪えなくてもいいんじゃないのかこれは。なんだ今までの子どもみたいな屁理屈は。

「なんであなたそこまで彼女に入れ込んでるんです」

「責任を感じてな」

「そんな殊勝な人間かお前が!」

 思わず素で怒鳴ってしまった後、いや、そんな人間だった、と思い直した。
 スコッチの死に責任を感じて何年も自分をわざと責めさせていたような男だ。おかげでその間降谷がどれだけ愚かな男に成り下がらされていたかを思うと怒りで言葉も出ない。

「いいですか。彼女は―百歩譲って日本国民でないとしても」

「譲らなくとも法的に日本国民ではない。条件は正確に?」

「……………日本語を母国語とし日本の慣習に慣れ親しみながらも、日本の制度に守られるべき人間ではない、としても」

 赤井はひょい、と肩をすくめた。こんな時だけアメリカ人らしくて腹が立つ。

「彼女は人権あるひとりの未成年です。そして、記憶をなくし、心身を損耗し、庇護を必要としている。彼女にもっとも負担のない道を―彼女にとってもっともよい道を、周囲の大人が確保する必要があります。あと何度これを説明させる気ですか」

「そちらこそ何度も言わせるな、」

 ガラリ、と、病院の多目的室の扉が外から開かれた。
 現れたスタッフが、いくつもの視線が突き刺さることに困惑しながらも、口を開き。

「ナマエさんに、面会許可が下りました」

 その一言を口にした。
 見舞客が増えてから急に心身の調子を崩し、錯乱した彼女は、医師の判断でしばらく医師看護師以外との接触を断たれていた。いかなる国の警官であっても。

「何度も言うが、……彼女自身に選ばせるのがいちばん早い。そもそも、ナマエはただのか弱い子どもではない。覚えがないにしろ、いつ錯乱して周囲の人間を傷つけるか分からない危険な“狂犬”だ。いつか医師や看護師に牙を剥くことにならないとなぜ言える?」

 赤井秀一の言葉が、ひどく憎たらしかった。





 降谷はため息をつきたくなった。
 おどおどと、困惑したように、視線をさ迷わせている小さな少女。いや、体の大きさは、マッドドッグだった時のナマエと少しも変わらないのだが。肩をすくめ、背を丸めているだけで、三割減くらい小さく見えた。
 まったくの別人のようだった。この6年の記憶がないというだけでこんな、“普通の”少女になってしまえるのなら。彼女は少なくとも、6年前までは、あんな血にも罪にも手を染めない、ただの一般人だったはずなのだ。それにしては戸籍が出てこないのが訝しいところではあるので、もしかしたら組織に秘密裏にかくまわれ育てられていた子どもなのかもしれないが。少なくとも彼女の口から今までそのような発言はいっさい出ていない。
 一体なにが彼女をそうさせたのだろう。―いま考えても仕方がないことだが。

 彼女自身に選ばせるのがよい、という理屈は、降谷にだって分からないわけではない。
 だが彼女は、降谷を目にすると、降谷の声を耳にすると、酷く怯えた。
 なぜだかその時たまたまいちばん近くに居た赤井秀一の背にしがみつくほどに。

 くそ、赤井、お前だって嫌われていたくせに。顔が怖いから。
 俺の方が絶対に女性や子どもには好かれる容姿と性格をしているはずなのに―そういうキャラクターを何年もかけて作り上げてきたのに。なんでこんなにあっさり負けるんだ。

 降谷は努めて優しい声を出して、ナマエに呼びかけた。

「…………、ナマエさん、」

 びくり。声も出ない様子で、降谷の声にすらナマエはこんなに肩を震わせる。
 フー、と、誰かの息が聞こえた。というか赤井の。

「悪いが降谷零君?そっちの代表は誰か別の者にしてくれないか。医師にあまり興奮させるなとこの前も怒られたばかりでな」

 降谷は舌打ちをしそうになった。ナマエを怯えさせてはいけないので、当然本当にやったりはしないが。
 ちくしょう、保護者面をしやがって。

「……分かりました。いいでしょう。風見、お前が残れ。外で待機している。終わったら声をかけろ」

「ふ、降谷さん―!」

「任せたぞ。くれぐれも―プレッシャーに負けて変な条件をのむなよ」

「は、はい」

 降谷は相当ゆっくりとした動作でドアを開閉したのに、記憶をなくした少女はその動作にすら怯えて肩を小さく震えさせた。

――――さて?交渉と、いこうか」

 降谷零が外された時点で、FBIと――赤井秀一と対等にやりあうことができる者など、その場には一人も残されていなかった。風見は健闘したが、
 結果は、はじめから決まっていた。




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