ドレスを脱がさないで
いろいろあって、鈴木家主催のパーティーに呼ばれた。行くつもりなどなかったのに、うっかりコナンがそれを両親に漏らしたせいで、父優作から大量にドレスが送られてきた。
「しかし…流石に趣味はいいな、父さん」
阿笠の家にドレスを保管するわけにもいかず、試着ついでにナマエは工藤邸の自室にやってきたのだが。
姿見に映る姿に、ふぅん、と息を漏らした。最低限の食事しか摂らないせいで肉付きの悪い体でも優雅に見えるようなシルエットのシンプルなワンピース。露出が少なめなのは父が余計な気を回したからだろうが、そこに気を遣うならもっと別のことに気を遣ってほしかった
――――
「……これは、当日は隣で着替えないとだなぁ」
ドレスの背面を見ながら、はぁ、とナマエは溜め息を吐いた。
*
ジー、と滑らかに上がるファスナーを最後まで引き上げて、ナマエは灰原のドレスのしわを直した。
「ありがと」
「どういたしまして」
今度はナマエがくるりと灰原に背を向け、同じようにファスナーをあげてもらう。露出が少ない分、美しいシルエットを作るために、二人のドレスワンピースには肩甲骨の下まで達するファスナーがついていた。
「ねえ、」
ふと気になって、姿見の前に向かった灰原にナマエは声をかけた。
「普段はどうしてるの?」
「? ああ、……博士にあげてもらってるけど?」
「…。へぇー」
事もなげにいった灰原に、ナマエは表情を変えないまま一瞬だけ沈黙した。そういえば灰原と阿笠はベッドも隣だったような気がする。そこまで全幅の信頼を置かれるのもすごいな、とナマエは感心した。阿笠博士に。
「うーん…」
「何変な顔してるのよ?」
「いや……ちょっとね。」
ナマエは、幼い頃から、輝かんばかりの美貌を持つ大女優の母と、それをスマートにエスコートする父を見慣れ過ぎていたので。
(…父さんが母さんのファスナー上げてるところって…なんかすごい色っぽかったもんなぁ。)
その光景は、二人の子どもがいるとも思えぬ絵に描いた恋人同士のような姿としてナマエの脳にインプットされている。だから、その行為はナマエにとっては男女を意味するものだった。信頼し合う男女を。
(…まぁ、中学に上がった辺りからお兄ちゃんも上げさせられてたけど。)
面白がる有希子の姿も、何やかんや言いながらちゃんとファスナーを上げてやる新一の姿も、…嬉しそうに微笑む有希子と、それを見て結局しょうがねーな、というように笑う新一の姿も、全部、頭の中に鮮明に刻まれている。ナマエはまだドレスのファスナーを男性に上げてもらったことはない。
(だからかな。わざわざ博士んちまで来ちゃったのも。)
生理用品を買われるのにも、出したゴミを処理されるのにも、何ならもう抱え上げて運ばれることすら何とも思わなくなってしまったのに、工藤邸で着替えをするのが躊躇われたのは。
「帰りもちゃんとこっちに寄りなさいよ」
「え?」
考え事をしていたせいで、間抜けな声が漏れた。灰原は髪をセットしていて、ナマエの方に背を向けている。
「あの人にさせるのが嫌だったからこっちに来たんでしょう?…ま、当然よね」
「べ、別に嫌とかでは…」
(何だ、これ、変に意識してるみたいじゃないか)
「………でもまあ、髪留め借りたし、…返しに来るね」
「そうしなさい」
灰原が後ろを向いていてくれてよかった、とナマエは思った。動かないはずの表情筋がどんな顔を作っているのか分からなかったので。
*
予定調和というか、お約束というか、もはや自明の理どころか自然の摂理のように。パーティー会場で事件が起こり、そしてコナンが解決した。ヒールを履いていた灰原が逃げ遅れて多少危険な目に遭ったものの、もちろんコナンが華麗に救って見せた。
ナマエは別室にいたので事件にはあまり関わっておらず、灰原やコナンは事情聴取が長引きそうだから、と、ナマエ一人だけ先に帰ることになった。
「おかえりなさい、ナマエさん」
「……ただいま、戻りました。…沖矢さん」
部屋に戻って一人になって、はたと気が付いた。そういえばこのファスナーは誰が下ろすんだ。糸かなんかがあればいいのだが。
しかし、十数分もの間ためつすがめつしてみても、糸を探しても、打開策は見当たらなかった。階下へ戻るのが妥当な気もするが、あんな明るくて広い場所で、たとえなんとも思っていないとはいえ異性に服を半分脱がされるのは、どうしても許容できなかった。
ナマエはため息をついた。こんなことで呼び出すなんてばかばかしいと思いながらも、ティディベアに向かって、
「………沖矢さん、」
そう呟くと、十数秒後には階段を上ってくる足音がした。誰かなんて明白なわけだが。
そして数秒後にはノックの音。
「…どうぞ」
入ってきた沖矢は、エプロン姿のままだたった。その手にはかわいらしい鍋つかみがはめられている。…この人は本当に、どこまで。
「嗚呼、なるほど」
まだ着替えていないナマエの姿に沖矢は納得したように肯き、するりと鍋掴みを抜き取って、エプロンのポケットに半ば無理やり押し込んだ。反対側のポケットからイヤホンがぶら下がっているのは見なかったことにしよう、とナマエは決めた。
「あんな声を出すから、一体何事かと」
「…あんな声って、どんな声です」
「そうですね、……雨に打たれてか細く鳴いている子猫のような。とても切ない声で」
(キッ…ザだなぁ……!)
す、と、流れるようにごく自然な動作でナマエは肩と腰を抱かれて後ろを向かされた。手慣れてるなぁ、と思わされて、溜め息が漏れた。
針の落ちる音すら聞こえそうな静寂の中。ズィー、と、ファスナーが下へ引かれていく音だけが薄暗い部屋の中に響いた。妙な緊張感にナマエが露わになった背と肩を強張らせ、それを見た沖矢が眼鏡の奥の瞳を少し鋭くきらめかせたその瞬間。
『赤井さんっ、大変だ!聞いてるでしょ!?』
ほんの微かな音だったが、互いの吐息すら聞こえそうだった静かな部屋で、それは確かに二人の耳に届いた。
沖矢はナマエの背に手を当てたままもう片方の手でエプロンのポケットからイヤホンを取り出し、コードの途中に着いている小さなマイクに呼びかけた。
「聞いている。どうした、ボウヤ」
(つまり
――片方で私の、片方で志保さんの盗聴してるってこと?化け物かこの人)
聖徳太子も真っ青だ、とナマエが遠い目をしている中、彼らは何やら緊迫したやり取りを始めた。
『大変なんだ、灰原が
――っ』
その後もコナンと沖矢は何かやり取りをかわしていたが、正直ナマエの耳には入ってきていなかった。
先ほどの余韻のせいか、心臓がばくばくと脈打っている。
(……沖矢さんはだめだ、本当にだめだ)
脈絡のないことを考えていると、背中に冷たい感触が走った。
「っひゃ…!」
「ああ、すみません」
またズィー、と音がして、全開になっていたファスナーがあっさりと引き上げられた。何だ、こんな、あっさり。…両親の姿を見て正直ほんのちょっと、いや結構、夢見ていたシチュエーションが。
「そのままで待っていてください。着替えてきます」
「え…?」
「もう一度パーティー会場へ行かなければならないようなので」
「私も、ですか?」
「君がいないと入れません。沖矢昴は招待されていませんから」
「あ、そう…ですね」
拍子抜けするやら、呆気にとられるやらで、流されるままナマエは頷いてしまった。
数分して出て来た正装の沖矢に、もし表情筋が動くなら自分はどんな顔をしていたのか、ナマエは知りたいような知りたくないような気がした。