いつか笑顔になるために
「…何をしているんですか?」
「筋肉をほぐしているんです」
「…ホー」
化粧台の前で、顔をむにむにとつまんだり引き延ばしたり、変な顔になるのも構わず指を動かすナマエの傍に、沖矢はかたりとコーヒーを置いた。
「あ、ありがとうございます」
「どういたしまして。…やはりほぐさないと固まってしまうものですか?」
「まあ、今は喋るのでそこまで酷くはないんですが。緘黙症の頃の習慣で」
「…なるほど。それは、毎日?」
「一応は。動かなくなっても困りますし」
ナマエは顔面体操に気を取られていて、上の空で返事をしていたが。不意に鏡の中の沖矢の顔を見て、少し首を傾げた。
「何ですその顔」
ナマエは沖矢に背を向けている。だが、沖矢がナマエのすぐ後ろに立っているので、鏡の中で目があった。
「いえ、…少し、意外で」
「?だって、元に戻った時、筋肉痛ですぐ表情筋が引きつっちゃこまるでしょう?」
その言葉に、今度こそ沖矢は言葉を失った。鏡の中の沖矢の顔を見ていたナマエが、怪訝そうに振り向いて、鏡越しでない本当の沖矢の顔を見た。…といってもその表情はまだマスク越しだが。
「……君は。元に戻るつもりがあるんだな」
「……はい?」
「しかも、表情筋が攣るくらい笑うつもりもあるんだな」
「…………あの?」
中途半端に口調が戻っている。ナマエは自分の指で両頬を引っ張り上げたまま、沖矢を見詰めた。一体何を言っているんだこの人。
「いや、…初めて、張り合いが出ました。君は自分自身の未来の幸せには興味がないかと思っていたので」
「………な、」
「しっかりほぐしておかないと、ですね。」
不意に沖矢の手が伸びてきて、ナマエの指ごとナマエの頬を包んだ。暖かく、ごつごつしていて、そのくせ滑らかな手のひらの感触。と、思う間もなく、その整った指先がナマエの頬をみょいん、と引っ張った。普段は絶妙な力加減で銃の引き金を引くのだろう整った指先を存分に動かして、結構な力で。
「い”…っ…何するんですか!」
「やっぱり柔らかいですね、子どもの頬は」
「いひゃいです、はなひてくだはい」
「まぁ、そう言わずに」
しばらくナマエの頬をほぐし続け、最後にむにり、とその感触を堪能するように指が動いて、そして離れていった。痛いじゃないですか、と憤慨するナマエの抗議など聞いちゃいない。
「…あなたの頬もつねって差し上げましょうか、思い切り」
「おや、それは恐ろしい。…遠慮しておきますよ。ほぐしてもらうなら
――――こっちの時に頼もうか」
最後の一息だけ赤井の声に戻った沖矢昴に、ナマエは何だかいろいろ言いたかったのだが、溜め息をついて脱力するしかなかった。そりゃあ沖矢の顔などつねったらマスクが剥がれて大変なことになるが。だからといって赤井の頬をほぐす必要性などないように思う。鉄面皮のように見えて意外とこの人は。
――――本当に、この人は、訳が分からない。
じんじんと痛みを訴えつつも、なぜだか凝り固まった筋肉がほぐれて気持ちよくなっているような気がする頬をさすりながら、ナマエはもう一度溜め息を吐いた。