現実、事実、夢、虚構

 その日、推理小説を借りに工藤邸を訪れたコナンは、違和感を抱いた。その正体を探り続けて、ようやく、妹の目元が赤く腫れていることに気が付く。

(どんな泣き方をしたらここまでなるんだ?)

 悔しいような、歯がゆいような、嬉しいような、やっぱり悔しいような思い。妹は、新一の前で大泣きしたことなど一度もない。妹が感情を表に出せるようになったのだとしたらそれは嬉しいが、そうさせたのが自分でも家族でもないのが悔しくて歯がゆい。

「なあ、ナマエ」

 声をかけても、首を傾げるだけで、返事をしない。…声も掠れるほど泣いたのか。

 “コナン”は泣かないと決めた。守るものがあるから。
 だけど泣く行為そのものを否定したりはしない。ストレス物質を洗い流してくれる行為だし、もう逃げ場もないほど追いつめられている人間にとっては必要な行為だ。

「オレじゃだめだったのか?」

 そう問うと、妹は困ったような顔で首を横に振った。

「…いや、まあ、オメーが…頼れる相手ができたのは嬉しいよ。最初はあんなに毛嫌いしてたのにな、あの人のこと」

「………お兄ちゃん、」

 声はやっぱり掠れていた。そんな顔をさせたかったわけではないから、コナンは、ははっと笑って見せた。

「ひでぇ声」

 そう言ったコナンに、妹は、眉を下げたまま、指で両頬を持ち上げて笑った。





 自分のためにそんな顔をしてくれる兄が愛しくて悲しくて、ナマエは胸が痛むのを感じた。自分が泣いたことなどすぐに気づいてしまう、聡い兄。いつか全てに気が付いてしまうかもしれない、賢すぎる名探偵。
 彼を兄と呼べるのは、ナマエにとって本当に奇跡のような偶然で。望んで得たものでは無かったけど、与えられた偶然はそのうち宝物のように大切なものになった。

「私は、一体、」

 兄は書斎に。沖矢はリビングに居る。部屋に籠って、ナマエはティディベアを抱きしめていた。兄が居る時、沖矢はこのレディ・グレイから何も聴きはしない。

「一体何のために、何と、戦ってるんだろうね?」

 ぎゅう、と、壊れるほど強く抱きしめる。

「この世界は………私が作り出しただけの妄想の世界?私だけが狂ってる?…私だけが、この世界の構成を知っているなんて妄想を抱いてる?…それならどうして私の知っている通りのことが本当に起きるの?…本当に起きてしまったの?」

 ねえ、と、誰にともなく語り掛ける。

「私だけが狂ってるならそれでいいのに、……」

 嘘だ。嘘だ。自分だけが狂っているなんて認めたらそれこそ本当に気が狂う。

 ――――優しくされるのがいちばん怖い。
 自分に都合のいいように、自分に優しい世界を、自分で作っているんじゃないかと思ってしまうから。それは最大の恐怖だ。この世界には実は“ナマエ”しか存在しないのではないかと。他の全ての人物は実はナマエの脳が作り出した、酷くリアルな妄想なのではないかと。疑えばきりがない。
 突き放してほしい。酷いことを言ってほしい。現実は残酷だ。都合よくナマエに優しくしてくれる存在なんかそういるはずがない。理想的な家族、理想的な兄、理想的な協力者。そんなものは要らない。残酷さが欲しい。それが現実だと信じられるくらいの。

「私は、何のために、何と、戦ってるのかなぁ?」

 戦う必要のないものと戦っているのではないかという恐怖がいつも頭の片隅のどこかにちらつく。もしかして私は長い夢を見ているだけで、そのうち目が覚めたら、全く別の家族や友人や全く別の世界が存在しているのではないかと。
 東都タワーではなく東京タワーがある世界。ベルツリータワーではなくスカイツリーがある世界。米花駅など存在しない世界。黒の組織など存在しない世界。

 この世界では、ナマエは、兄や、両親や、知り合ってしまった少年探偵団の子どもたちや、阿笠博士、灰原、蘭、小五郎を守るために動いているつもりだった。兄が、宮野明美や浅井成美を失ってひどく傷つくことを知っているから、そうならないよう、兄が傷つかないよう、…兄を守るために。
 けれど。もしこれが全て虚構なら、一体、私は、何のために何と戦っているのだろう。
 答えが存在しない問いだ。考えるだけ無駄だとも知っている。そんなことを悩んでも非建設的な時間を過ごすだけ。そんなことよりはもっと具体的で現実的なことを考えた方がいい。組織を倒す方法とか。既に救った人物たちを世界に戻す方法だとか。そんなことを。
 それら全てを承知の上で、それでもナマエは考えずにはいられなかった。

「赤井さんには、知覚できない…そりゃそうだ、そりゃそうだよ」

 ナマエが恐れていたのは、本当に恐れていたのは、
 物語の登場人物が、自分が物語の登場人物であるという事実を知ってしまうことではない、
 その事実の方が間違っているのではないかと、…そんな事実は存在しないと突き付けられることの方が怖かった。

 本当は期待していた。真実を知った赤井が狂ってしまうのを。自分の今まで生きて来た過去が、これから歩む未来が、既に定められているものだと知って、狂ってしまうのを。そしたらきっとナマエは救われた。やっぱり自分ではなく世界が狂っていたのだと、認識できた。あるいは、狂うにしろ、一人ではなく赤井と共に狂ってしまえた。みんなで狂うなら怖くない、みんな狂ってるなら誰も狂ってないのと同じだから。

「どこまで私は傲慢なんだろうね?」

 ティディベアの首をぎゅう、と絞めた。“耳”を塞ぐように。

「救えるのなら救ってよ、」

 赤井が真実を知ってなお正常である以上、死か、忘却以外、ナマエが救われる道はないと、ナマエは知っていた。誰もナマエを殺してくれるはずがないことも。

 ――――狂っているのは、世界か、それとも私一人の頭の中か?



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