クリストファー・ストリート

 マンハッタンを一周してから西へ。適度に静かで薄暗いバーへ入る時はドキドキしたが、思ったより周りはこちらを気にしていないみたいだった。一時間もするとバーの空気にも慣れた。
 もう出ようかな、どうしようかな。残りの少ない、氷の解けたグラスを手遊びにくるくる弄っていた時のこと。

 Are you alone?

 声をかけてきたのは、金髪に褐色のアジア人だった。英語は流暢で、訛りもなく、どこの国かまでは分からなかったけれど。
 バーとはいえ見知らぬ男に声を掛けられたことに一瞬だけ緊張して、ナマエは少し戸惑いながら返事をした。

 Yeah, but I'm not here for boys hunt.

 露骨な言い方だったろうか。ナマエの返答に彼は苦笑した。

 Japanese?

 Yes. You, too?

「やっぱり。」

 日本語でそう言って彼は笑った。

「別にナンパじゃないよ。こんな時間に女の子一人でこんなところにいるから」
「危険だ、って?」
「君みたいなかわいい子はね。」
「………今日初めて声をかけられましたけど」
「ここはクリストファー・ストリートだよ」

 知っている。だからいいんじゃないか。そう思ったけれど、不貞腐れた声を隠せそうになかったからナマエは返事をすることを諦めた。

「いくつ?」
「…あと30分でティーンにさよなら」
「Wow, それはお祝いしなくちゃ」
「……あなたは一人?」
「いや、人を待ってる。」

 そう言って彼はマスターにスコッチを頼んだ。ロックで。
 ナマエが飲んでいるノンアルコールのカクテルはもうなくなりかけていた。

「学生?」
「ええ。…カリフォルニア州立大学。そちらのご職業は?」
「……」
「…?まさか学生じゃないですよね?」
「そっか、君も日本人だもんね。いや、ここではいつも学生と間違えられるから。…職業は、そうだな、実はもうすぐカリフォルニアで喫茶店を始めるんだ。」
「本当に?」
「本当に」
「すごい偶然」

 もし本当なら運命的なほどの偶然だ。アメリカの東端のニューヨークで出会ったのに、実はふたりとも西端のカリフォルニアの人間だったなんて。ナマエは少し警戒してそっと彼を見詰めたが、彼は気負わずに笑っていた。

「そうだね。すごい偶然だ。ニューヨークへはどうやって?」
「……バイクとヒッチハイクで、一ヶ月かけて」
「はは、学生らしい。また一ヶ月かけて戻るわけか」
「ええ。明日までに出ないと学期明けに間に合わないけど、…どうしても二十歳にここに来たくて。」
「………カリフォルニアにもゲイ・ネイバフッズはあるけど。むしろ向こうの方が」
「分かってます。…でも、…学校の近くだと怖くて。」
「…ホモフォーグ?」
「そこまでじゃ…でも日本じゃずっとクローゼットだったから」

 彼はまるでいいカウンセラーのように優しい目をして、静かに辛抱強くナマエの言葉を待ってくれた。だからかもしれない。警戒も解け、ナマエの口も軽くなった。

「僕はレイ。君は?」
「…ナマエ。」

 相手がファーストネームしか名乗らなかったので、ナマエもそうした。
 ここは、喫茶店の名前を聞いて、いつか訪れる約束でもした方がいいのだろうか。

 と、近くでかたりと音がした。

「レイ、探したぞ。窓際の席にいるっていうテキストは嘘か」
「ああ、すみません、ちょっと気になる子を見つけて」

 駆け寄ってきたのはアジアンとヨーロピアン、どちらの血も感じさせる肌の白い男だった。レイの肩をぱしんと軽く叩いてから、初めてこちらを認識したように鋭い眼光を向けてきた。値踏みするように上から下までナマエを見た後、彼はまたレイに視線を戻した。

「……俺と待ち合わせをしておきながら浮気か?」
「何言ってんですか」

 ゲイ・カップルかもしれないし、そうじゃないかもしれない。レイが男を見る目は気安かったけれど慈愛に満ちてはないし、男がレイを見る目も、親密だったけれど熱烈ではなかった。

「…で?車は用意してあるが」
「ああ、そうだ、ナマエ。よければカリフォルニアまで一緒にドライブでもしませんか?」

 さっきまで砕けた口調だったのが、少し丁寧になる。日本語で喋る時はこういう喋り方をする人なのだろう。ナマエも英語と日本語が入り混じると時々混乱するから気持ちはよくわかる。

「ええと…どうして?」
「どうしてって…目的地が一緒だからですよ」
「……そうですけど、あの、…おふたりは、」

 さて、さて。何と聞いたものか。流石にアメリカに単身でいると否が応でも危機管理意識は高くなる。男二人とアメリカ横断なんてろくなことにはならなそうだ。

「…おふたりはゲイですか?」

 二人は顔を見合わせ、一瞬アイコンタクトをすると、「ああ、そうだ」と頷いた。
 本当は、返事が何であれ最初は断るつもりだったのだが。

「…じゃあ、お願いします」

 気づけばナマエはそう言っていた。たまには冒険もいいだろう。

「ああ、と、その前に、クリストファー・ストリートで僕のおすすめの店にでも行きましょうか」

 ぱちんとウィンクをしたレイは、日本人とも思えないほど気障だった。




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