忙しくて目が回るというのはあながち嘘じゃないな、とぼんやり思った。

信号が赤になるたびに軽い自己嫌悪に襲われて、何度も時計を見る。

外は真っ暗で、少しだけ開けた窓から冷たい風が入ってきた。いくら秋とはいえ気温も低くなる。


そんな中、俺は彼女を待たせている。


「…9時、か」


今まで普通にこなしていた仕事まで疎かになってしまうことはなかったのに。理事長になってからというものの、仕事の量が驚くほど増えて、どうも体が着いていかない。

机に積まれた仕事の山をひとつずつ片付けて、アイツとの待ち合わせ場所に向かえたのは、約束していた時間より2時間経った頃だった。


待ち合わせ場所まできた俺はとりあえず連絡しようと携帯を取り出した。その瞬間に視界に入った小さい影。

急いで車を降りると、その音に気付いたのか、アイツは俺の姿を確認していつもの笑顔で手を振って来た。


拍子抜けしたと同時に、その笑顔に張り裂けそうなくらい胸が締め付けられた。

ろくに連絡もできなかったからどんなに寂しい思いをさせたんだろう。

なんと言って謝ればいい。


「お誕生日おめでとうございます!」


俺が声を出す前に、彼女の明るくて優しい声が響いた。

予想もしてなかった言葉に今までになかったほど動揺してしまって鼓動が早くなるのがわかる。


「え…?」

「あれ、もしかして忘れてましたか?今日は先生のお誕生日ですよ?ふふふ」

「そういえば、」


毎日がめまぐるしく過ぎていくせいでここ最近感覚が鈍ってたのかもしれない。

今まで誕生日を忘れた事なんかなかったのに。これが彼女の誕生日じゃなくて良かったと心底思った。


「先生も人のこと言えませんね、」

「…お前、怒ってないのか?俺連絡もせずにお前のこと放って仕事してたんだぞ」

「どうしてですか?お仕事ならしょうがないじゃないですか。疲れてるのにここに来てくれてることが嬉しいです、わたしは。」


いつでも俺のことを優先してくれる彼女の優しさには、いつも驚かされる。普通なら怒って当然のことなのに。どうしてこんなにも。

俺よりいくつも年下で普段は子供っぽいはずなのに、ふとした瞬間に大人と同じような顔をするから、俺はその度に抱きしめてしまいたい衝動を抑えなければいけない。


「でも、その反面すごく悔しいです。わたしの好きの方が大きいのがわかるから」

「え?」

「なんでもないです!それで、あの…誕生日プレゼントなんですけど、わたしなりにいろいろ考えて…いっ今からわたしの家に来てもらえますか!?」


…何を言ってるんだこいつは。

一瞬にして凍りつく空気。俺は今誰かに豆鉄砲を食らった鳩みたいな顔をしてるよと言われたら自分でも納得する。

彼女の言葉をどういう意味で捉えたらいいのかわからず、俺は思わず動揺して頭を掻いてしまった。

そんな俺を見て我に返ったのか、彼女は顔を赤くして弁解するかのように首を何度も横に振った。


「そっそういう意味じゃないんです!その、晩御飯を今日わたしが作ったので良かったら食べに来てほしいなぁって思って、その…っ」

「お前…他の男にもそんなこと言ってるんじゃないだろうな」

「っ!言ってるわけないじゃないですか!」

「はは、だよな…えーっと、じゃあ今日はお前に任せるよ」


そう言うと彼女はいつもようにふわりと笑う。

愛しい。俺が感じたのはその感情だけだった。愛しい。誰よりも、何よりも、俺のことを支えてくれるこいつが。


「じゃあ、今から行っ…」


俺の腕を引っ張って歩こうとする彼女を後ろから抱き竦めると、疲れていたはずの身体も心もなんだか軽くなったような気がした。

髪をゆっくりと撫でると、彼女の肩が揺れる。

この小さい身体も、綺麗な髪も、柔らかい肌も、この温もりも。

今、俺の腕の中にある。



「…俺は、お前よりかなり年上だ」

「?はい」

「お前が生まれてから今までずっと、お前が生きる世界に俺がいなかった日はないんだ。それがどんなに幸せなことかわかるか?」

「…えっと、」

「いや、わからなくてもいいよ」



もしこのまま時が過ぎて、俺がこの世界からいなくなる日が来たとしたら。

そのときも俺はこの幸せを腕の中で抱きしめられているのだろうか。



こんなに抱えきれないくらいの愛を捧げてくれる人がいて、自分がいて。





「――…幸せだなって思っただけだ。」


















(少しの愛と、沢山の泪と。)

琥太郎先生誕生日おめでとうございます。危うく遅れるところだったぜ…ふぅ…(すでに遅れてる)

友達に先に読んでもらったらあっさり「あたしなら帰るけどね」って言われました。そんな小説です。

琥太郎先生はプレゼントを渡しても断られそうっていうあくまで個人的な勝手なイメージがあるので、試行錯誤していたらこんなぬるっとした感じになりました。

幸せになってもらいたいですね。