満月は夜空に高く上がり、その輝きを失うことなく天上から我々を見下ろしている。
「卿は、死というものを考えたことはあるかね」
頼まれた白湯を枕元に運ぶ女中は、ぼんやりと障子ごしに月を眺めつつ問いを発した松永を見た。
「生きている身の上ですので思案した経験はございます」
松永久秀に半端な嘘は通じない。それが我が主なら尚更で、女中はありのままの心情を唱える。
「そうか、ならば卿の考えを聞かせてもらおう」
枕に肘を付き、答えを聞こうとする松永は白湯に手をつけるつもりはないらしい。やり方が面倒臭い方だと、内心毒づいて女中は再び枕元に座り込む。
「死は、誰にもわかりません。死んだ者は戻って来ないのですから。冥界の様子を知りたいのなら死した方がよろしいのでは…と」
「それは私に死ねと言っているようにしか聞こえないのだが」
「ぼろ雑巾同然の私を拾って下さった方にそのような無礼を働くつもりはございません」
死というものは知る概念そのものがない。死した先に待つのは極楽かはたまた地獄かもしくはそれ以外の何かか。結局は死なないとわからないのだ。
「だが、卿の論理には些か疑問を持たざるを得ないな」
「そうですか、っ」
口達者な松永に勝つつもりは全くないので、潔く己の負けを認めて去ってしまおうと女中が思った最中。不意に伸びた松永の腕はいとも簡単に女中の手首を掴んで布団の中へ引っ張りこむ。あっという間に背中は敷布団、正面は松永久秀。
馬鹿でもこの状態が何なのかは理解できる。だん、と両側に手が付かれて逃げ場がないのだと諭されれてしまう。
見上げる立場から一転、女中を見下ろす立場となった松永は満足そうにくつりと笑みを零す。
「卿は死んだらこの世に戻ることができない、と言ったな。だが、死はわからないものだとも言った」
「………っ」
いつになく低い声が耳元のすぐ傍で囁かれる。今までに経験したことのない感覚に背筋が粟立つのがわかった。
その恐怖する瞳さえ欲しているのだろうか。松永は潤みはじめた右目の端を乱暴に撫ぜる。
「矛盾しているだろう?」
「そうですね」
今度は動揺せずに相槌をうてた女中に松永は感心する筈もなく、未だ至近距離のなかで呆れた息を出す。
「全く、つまらない女だ。否定されたのならまた別の説でも考えるといい」
器用に顎に手を当てつつ考えるふりをする松永。あくまでふりなのだが。
「死者は卿の知らぬ所でそのまま蘇っているのかもしれぬ。親しかった者の前には現れないだけで全く別の場所で再び生まれ、再び人生を送る。卿の周りにも冥界から帰ってきた者の一人くらいいる可能性はあるかもしれないな」
「転生…ですか?」
「記憶や身体が変わることなく蘇ることだからそれは違う」
「お言葉ですが、松永様の考えは死となんら変わりないと思われます」
「…………ほう」
ぎらりと目を輝かせた松永に女中は心からそれを後悔し、もう逃れられない事を悟ってか口を開く。
「例え死から逃れ、再びこの世に蘇ったとしても、親しき友や大切にすべき者達に会えなくて何が生でしょうか。事象だけでなく精神面でも一種の死とも受け取れるのではないかと」
「…いやはや、卿は誠に遊び甲斐のある女よ」
「承知の上です。久秀様っ!?」
上擦った声が漏れるのは、他でもない久秀の顔が女中の肩口に落ちたからだ。顔の傍にあった筈の両手がいつの間にか背中に回り、帯を解かれる。
松永のゆっくりとした呼吸が肩に感じ、逆に自分の呼吸が早くなるのも感じた。
「確かに、な」
「何が…ですか」
肩に響く声が骨に甘美に伝わって、すぐに反応が出来ない。途切れ途切れの女中の返答に松永は小さく笑う。
「卿が死んで、私の目の届かない地で蘇られてもそれは死となんら変わらない。まぁ地獄まで追うことはないが」
言った口元を僅かに歪ませ、白い首元へそれが触れる。びくん、と跳ねる肌によく映える赤い舌がゆっくり動いた。
「…………ぅあ」
しばらくして首には舌の色によく似た鬱血痕がひっそりと咲く。
熱くなった首に思わず手を当てる女中の瞳にさっきまでの怯えた色はない。
「全く、久秀様は…」
にっこり。眩しい位の笑みで女中の手は松永の背中を包みこむ。
「私は何処にも行きませんよ」
「はて、なんの事やら」
「甘えん坊ですね」
満月は夜空に高く上がり、その輝きを失うことなく天上から我々を見下ろしている。
誰の為にもならないような風は吹かない
(私は地獄の果てまで追う所存です)
後書き:なんか腹の探り合いみたいなものがしたかったけど……頭パーンてなりました。誰得って、そりゃあ俺得。