「お前に一目惚れなんかしなければよかった」
ぽつりと呟かれた言葉に、思わず自分の耳を疑う。
木佐さんは、そのまま俺からふっと目を逸らして玄関を出た。
ばたん、と音をたてて扉が閉まる。
いつもと変わらない朝。いつもと変わらない出勤の様子。
いつもと変わらない――――そんなわけないだろう。
▽▲▽▲
はじめに触れたのも、俺からだった。
告白したのも、俺の方だった。
木佐さんには「先に惚れたほうが弱い」なんて言葉は通用しない。ふと目を離すと、不自然な理屈ばかりに捕らわれてすぐ逃げられそうになってしまう。
そんな人だから、守ってあげたくて。
いくらでも、大切にしてあげられる気がして。
それなのに、木佐さんが心から安心してくれる日はまだ来ない。
もやもやした気持ちを抱えながら、俺はバイト先の書店に向かった。土曜日だからたまたま早いシフトになっていたのだが、こんなことになるならいつも通りの時間帯がよかった、と後悔する。
何って、それはもちろん。
「おはようございまーす」
スタッフルームに入り、俺は先に来ていたバイトの人たちに挨拶をした。書店の朝は、店内の掃除と本の在庫整理から始まる。「ブックスまりも」と印刷されたエプロンに着替え、俺は届いていた追加注文の段ボールを開封した。
中に詰まっていたコミックスを見て、体が固まる。
森本カナの、新刊コミックス。注文したのは俺で、これは俺自身が一番贔屓している人が作った本だった。
「あ、追加注文の分ちゃんと届いたんだ。雪名くん、一緒に店内持っていこ」
「・・・・・・あ、はい」
一瞬遅れて、俺は段ボールを抱え上げる。
同じくアルバイトの女性と、まだ客の少ない店内で段ボールの中身を平積みにする。いつもなら気の利いた会話の一つや二つできるのだが、今日ばっかりは頭がいっぱいで無意識に手だけを動かしていた。
「雪名くーん!」
黙々と作業をしていると、少女漫画のコーナーにちらほらと顔なじみの女性客が集まってきた。俺は事務的に顔を上げて、
「あ、おはようございまーす。何かお探しですかー?」
「うーん、今日はぶらぶら見て回ってるだけなんだけどー」
「休みの日もバイト? 大変だねー」
二、三人の女性客に囲まれ、ニコニコと話しかけられる。
いつもの光景なのに、ふと俺は「懐かしい・・・・・・」と考えてしまった。
そうだ。あれは、まだ木佐さんと付き合う前で。
好きだと言った、もっと前で。
まだ触ってもいない段階。
――――こうしていると、いつも誰かの視線を感じたのだ。
自分目当てのお客さんかと思って振り向くと、こっちを見ている人は誰もいなかった。視線の方に顔を向けると、逸らされる。決して目は合わせられない。
そういうことを何度か繰り返していくうちに、視線の主はいつも通ってくれている男の子だということに気が付いた。新刊のコミックスや、雑誌、新書。男の子が現れるコーナーは、種類も趣味もバラバラだった。
ただ、一つの共通点があった。
それは、雪名の姿がしっかり見える位置だということ。
毎日毎日、決して声をかけることもなく、目すら逸らされて、それでも気付くと見つめられていて。
そんな、全てにおいて未満だったときの感覚。
「ねぇ、いっつも気になってるんだけど、雪名くんって付き合ってる人とかいるのー?」
唐突に尋ねられ、雪名は「はい?」と首を傾げる。
「だーかーらぁ。休日もバイト入ってるし、でもシフト終わったら外食行こうとか誘っても断られるしぃ。ホントのところ、どうなのかなーって思って」
あぁ、俺、そんな感じだったっけ。
確かにお客さんからの誘いは全て断っているけど、それは本を買ってもらっているのに出費させたら申し訳ないから、みたいな理由だったと思う。
休日にもバイトを入れていたのは、一緒に休日を過ごしたい人が仕事で土日も忙しいからだと思う。
でも――――
一目惚れ、しなければよかったって。
今朝、言われちゃったんですよね。口に出せるわけもないことを、ぐるぐると胸の中だけで吐き出していく。
その人のこと、こっちはちゃんと好きなのに。それでもまだ不安みたいで、心配みたいで、いつもくだらないことで勘違いされて。そのたびに、離れていきそうになって慌てて俺が手を掴むんです。
世間的に見れば面倒くさい恋ってやつかも、しれません。
でも、それでも好きなんです。
「いるっちゃ、いますけど」
気が付くと、曖昧な答えをしていた。
もちろん納得はされなくて、えーっと不満そうな声を上げられる。
「いるっちゃ、って何よ。いるっちゃ、って」
「さぁ。何でしょうね」
自分で言っておいて、首を傾げてしまった。
我ながら、かなり不思議な感じだ。
――――それでも。
あぁ、思い出した。自分の好きな人は、そういう人だった。
人一倍自信がなくて、いつも何かに怯えていて、俺がいくら好きだと言っても心のどこかでびくついているような、そんな人だ。
要するに、木佐さんが怖がっているのは俺のことだ。
木佐さんが不安になるとしたら、俺のことで――――
あの人を助けられるとしたら、俺だけなのだ。
あぁ、そうだった。
喉の奥でつっかえていた冷たい重石が、スゥッと消えていった。
▽▲▽▲
一日のシフトを終えてマンションに戻ると、部屋の鍵が開いていた。
一瞬、開けっ放しで出てきたのかとぞっとしたが、玄関に揃えてあった靴を見てホッと胸をなで下ろす。
「ただいま帰りましたー」
声をかけながら部屋に入ると、木佐さんは居間にいて「あ、お帰り」と返してくれた。
「早かったですね、今日は」
「あー、うん。あとはネームできるの待つだけだから。これからどっか行く?」
たぶん、いつも仕事で忙しくて一緒にいる時間が少ないことを気にしての提案だったんだろうけど、
「いいです。俺、これから何か夕食作りますから」
あえて、提案は取り下げた。
「・・・・・・いいの?」
「はい。何か食材ありますよね」
冷蔵庫を開けながら、俺は適当に食材を見繕っていく。木佐さんは、リビングでやることを探して視線を泳がせた。
いいから座っててください、と言おうとして、
「あのさ、雪名」
おずおずと、窺うように尋ねられた。
「なんか、あったか?」
「・・・・・・はい?」
「あ、いや――――」
振り返ると、木佐さんは慌てて顔を背けて、
「なんか、いつもと違うなーって思っただけなんだけど。もし、俺でよかったら聞こうかなー、なんて」
聞こうかも何も、俺はさっきまで木佐さんの話を聞かないと、と考えていたところだったのに。
「――――じゃあ、俺のことも話しますから。木佐さんのことから、話してくれませんか?」
木佐さんは、大きな瞳を見開いた。
「俺? 何で?」
「何で、って」
ぺたん、と木佐さんの肩を押してソファに座らせ、言った。
「朝、木佐さん言いましたよね? 俺に一目惚れしなければよかった、って」
しばらく、お互いに口を開かなかった。
木佐さんは呆然と俺の顔を見つめて、俺は木佐さんの言葉を待っていて、
「・・・・・・・・・俺、そんなこと言ったっけ?」
ぽかんと首を傾げられた。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・あの、雪名?」
我に返るまで、しばらくかかった。
「え? だって、朝言いましたよね?」
「今日の朝? え、朝のいつ?」
「だから、会社に行く前。玄関で」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・言いましたよ?」
「そんなこと――――」
言ってない、と木佐さんの唇が動きかけ、途中でぴたっと制止した。
肩に置いていた手を、ゆっくりと解かれる。すくっとその場で立ち上がり、木佐さんはくるりと背を向けた。
あ、逃げられる。
「待ってください」
迷うことなく逃亡体勢に入った木佐さんを、今度は両手で捕獲した。とたん、
「離せ! もういい! もういいから!」
「もういいって何ですか!? ちゃんと話してください!」
「だから話すようなことでもないからいいって!」
「それは俺が判断します!」
かなり暴れられたが、初めて見たとき高校生と間違えたほど華奢な人に力業で負けるはずがない。あっさりソファに押し戻し、がっちり両腕を拘束した。
「逃げないでください」
「逃げて、ない・・・・・・っ。そして顔が近い!」
上目遣いにこちらを睨む木佐さんは、なぜか顔を真っ赤に火照らせていた。
「でも、思い出したんですよね?」
「ああ、思い出したよ。しっかり思い出したわ!」
なぜかすごく苛立っているようだった。焦っているようにも見える。
「じゃあ話してください。俺、なんか気に障るようなことしましたか?」
「・・・・・・気に障る、ってわけじゃないけど」
掴んでいた木佐さんの腕が、諦めたように力を失って、
「なんか、いきなりキスされたから」
・・・・・・あー、えっと。
確かに、行ってらっしゃいって言ったあとそんなことしたような気もするけど、
「嫌だったんですか?」
「い、や・・・・・・とかじゃなくて」
口ごもりながら、木佐さんは低く呻いた。
「なんか、不意打ちでびっくりしたっていうか・・・・・・」
「それで、何であんなこと言うに至ったんですか?」
「だーかーらぁ!」
木佐さんは突然キレて、やけっぱちのように叫んだ。
「そんなことされると朝っぱらから心臓に悪いの! そーゆーの、何かすごく年甲斐もないっていうかなんて言うか、とにかく! よく、先に惚れた方が弱いって言うだろ? だから、えっと、あんまり覚えてはないけど、そんな発言をするに至ったんだと思います・・・・・・」
途中まで威勢がよかった木佐さんは、だんだんと恥ずかしくなってきたのか言葉を尻すぼみにさせていった。最終的には、耳を澄まさないと聞こえないくらいに小さな声になってしまい、押さえつけた指先まで震えが伝わってくる。
「――――っ、ふ」
思わず吹き出しそうになってしまって、でも笑ったら木佐さんはもっと拗ねてしまうだろうから、俺は必死で唇を噛んで堪えた。
「肩、震えてる!」
「すみません・・・・・・っ」
ばれた。
不意に込み上げてきた笑いが、心の奥から溢れ出てきた微笑に変わる。
拘束していた手を解いて、俺はそのまま木佐さんを抱きしめた。ひくっ、と息を呑む音がして、折れてしまいそうなくらい細い体にしっかりと力を加える。
「なにが、先に惚れた方が弱い、ですか」
順番なんか関係なく、俺はこんなに木佐さんのことで頭がいっぱいだっていうのに。
「・・・・・・ゆき、な?」
「はい?」
「こ、こっちは話したんだけど・・・・・・次は、雪名の番」
「あぁ、やっぱ俺はいいです」
「はぁ!?」
素っ頓狂な声を上げると同時に、黒い瞳で睨まれた。
「何だよ、それ! せっかく俺も話したのに!」
「いいんです。――――だから、もう少しこのままで」
目が合わせられるようになっただけで、かなりの進歩。
触れ合っていられるようになっただけで、かなりの幸せ。
「・・・・・・変な雪名」
「ですかね」
戸惑って動きを止める木佐さんを抱きしめたまま、俺は静かに微笑んだ。