俺は恋をした。
30歳にもなって初めての、恋。
それが恋なのだと、すぐにはわからなかった。
だって俺はそれまで恋というものを知らなかったから。

ブックスまりもで一目雪名を見つけたときから、俺の中には特別な気持ちが沸き起こっていた。
だけど、それには気づかないフリをしていた。
俺が歩んできたこれまでの人生を覆しかねないその気持ちの存在を認めるのは怖かったから。
でも、認めざるをえなかった。
雪名の声を聞いて、言葉を交わして、触れ合って…雪名を知れば知るほど膨らんでいく気持ちを、俺は誤魔化すことも忘れることもできないと悟ったのだ。

「なぁ、雪名」
「なんですか?」
雪名は壁際から顔だけをひょっこりと出して俺の様子を窺う。
「こっちこいよ」
「はい、すぐ行くのでもうちょっと待ってくださいね」
そんな返事じゃなくて、俺がほしいのは雪名そのものなのに。
「そんなんあとでいいだろ?早く、今すぐこいっ」
悠長な雪名を急き立てるように呼び寄せる。
「どうしたんですか?」
台所仕事をしていた雪名がふんわりした表情で俺のそばにやってきた。
「どうもしねーよ。どうかしないとお前を呼んじゃいけないわけ?」
「いえ…」
つっかかるような俺の言葉に一瞬怯んだかに見えた雪名だったが、ニコッと表情を装い直すあたりからまだ余裕たっぷりなのだと感じられる。
「俺の好きな雪名の『顔が』見たくなったの!うん、やっぱお前かっこいい」
雪名の余裕を奪ってやりたくて、その顎をつかんでキワドイ一言をずばり雪名に突きつける。
平然と言ってのけた俺だが、内心では心臓が破裂しそうだった。
「顔見るだけでいいんスか?」
まだまだ雪名は余裕たっぷりでニヤリと不敵な笑みを浮かべる。
「……けじゃだめ」
「え?木佐さん、何?」
俯いた俺の声では、雪名にその意味を伝えられなかった。
俺は破裂寸前の心臓で、自滅するのを覚悟する。
「それだけじゃだめ。ぎゅっとして」
雪名の目を見てそう言えば、その目がふっと細められた。
「はい」
背中に腕がまわされて、お互いの体がぐっと近づく。
これでもかと密着し、広くて優しい胸に顔を埋める。
感じるのは少しだけ速い鼓動。
なんだ、コイツもドキドキしてんだな。
「雪名、好き…」
雪名に包まれて囁く言葉。
「俺だって、木佐さんが大好きですよ」
その空間には2種類の忙しない鼓動が響くだけだった。

俺の理想にドンピシャな雪名を見ているだけでドキドキする。
雪名のことを考えるだけで恋しくて苦しくなる。
雪名に触れられたら身体中が熱くなる。
雪名と出会ってから、余裕なんて髪の毛一本分もない。
これは間違いなく初恋なのだ。
雪名のことを『好き』なのだと認めてから、いろいろなことが変化した。
本当にごくたまにだけど、さっきみたく雪名に甘えることもできるようになった。
いっしょにいて楽しいと思うし、もっといっしょにいたいという気持ちは、体だけのお付き合いにはなかった。
雪名を好きになって初めて感じるようになったのだ。
だけどそんな喜ばしいことばかりでもない。
好きだからこそ、失うことが怖いと思う。
俺は元々の後ろ向きな性格もあってか、些細なことでよからぬ方向に思考を働かせてしまうことが多々ある。
俺ってこんなに弱かったっけ?と何度思ったことか。
それでもその度に雪名が俺を引き戻してくれたから、俺たちは今日も『好き』という気持ちで繋がっていられる。



そんなこんなで雪名といくつもの季節を過ごしてきた。
移りゆく時間の中で、ゆっくりだけど確実にいろいろなことが変わっていく。
それは俺の雪名に対する気持ちも例外ではない。
もちろん変わらない部分もある。
雪名のことをかっこいいと思うし、たくさん雪名に触れられたいと思うし、会えないときは会いたくてたまらない。
要するに、『好き』という気持ちは相変わらずだ。
変わった部分はというとシンプルに言葉で説明するのは難しいのだが、俺はその変化を確かに自覚している。
雪名を失うかもしれないという恐怖はなくなったわけではないのだが、随分薄らいだように思う。
事実、ちょっとやそっとのことなら流せるし揺れなくなった。
まぁ、それでも心の中では嫉妬したり落胆したりしてはいるけど、ベースに雪名への信頼があるからか生活が乱れるようなことはなくなった。
俺が雪名のそばにいることは、雪名より9歳も年上でなんの取り柄もない俺が雪名の将来を奪うようで後ろめたさがあった。
それも全くなくなったわけではないのだが、今は俺が雪名を幸せにしてやるんだという気持ちのほうが強かったりする。
これ、雪名にはナイショだけど。
激しくて息つく暇もないような『好き』がゆったりと落ち着いた『好き』に変わったという感じだろうか。

「きーささんっ」
突然後ろからぎゅっと逞しい両腕に捕らわれた。
「おい、急になんだよ」
さらに力を増すその両腕。
「なんでもないですよ」
背後の斜め上から聞こえる、俺の好きな声。
「放せってば」
やっぱりこうやって体をくっつけると照れくさいものだ。
「でもここは家の中だから誰も見てないし…いいでしょ?」
雪名は俺を解放することなく、むしろ腰を屈めてその顔を近づけてきた。
そして、ちゅっとこめかみあたりの髪に口づけが落とされる。
雪名の口唇が離れても、まだじわじわと熱が消えない。
俺は隙をついて雪名の腕から逃れた。
「あっ…」と雪名が残念そうに漏らす。
そんな雪名を、俺は振り向いて短い腕で抱き締めた。
「髪だけじゃイヤ」
顔をあげて不満げにそう言えば、雪名は目を見開き驚いてからくしゃっと笑う。
目を閉じれば口唇にやわらかな感触。
それはやっぱり甘くって、クラクラするほど濃厚だ。
口唇が離れてから目を開けてお互いに何も喋ることなく見つめあえば、思わずぷっと噴き出してしまった。雪名はそんな俺を不思議そうに見ている。
俺はなんとかして、ふう、と呼吸を整えた。
「雪名、好き」
俺は雪名への気持ちを言葉にして改めて伝える。
かつては恥ずかしくてなかなか言えなかったことなのだが、今はこうしてはっきりと言えるようになった。
だけどなんだろうか、今の俺はこの言葉に物足りなさのようなものを感じる。
「木佐さん、いっしょに幸せになりましょうね」
雪名にとびっきりの笑顔でそう言われて、俺の心は大きく跳ねた。
そして、俺はまた気づいてしまったのだ。
この気持ちの正体に。
そう、愛する準備はできてるんだ。
あとは形に表すだけ…。
「雪名、愛してる」
俺は初めて愛の言葉を雪名に呟いた。