万物流転 | ナノ
10.穢れないその背中3
カーテンの隙間から白い陽の光が差し込んでいた。溢れんばかりのそれに昨日までの雨に濡れた木々の露がキラキラと光を反射している。綺麗に整頓された和室の一角に、一式の布団が敷いてあり、そこには誰かが寝ていた形跡がある。しかし、今この部屋には誰も居なかった。

一階の台所には、透明のコップに水が半分ほど注がれたものが残っている。玄関には黒色の下駄が一足無くなっていた。壊された玄関の引き戸は、元のようにぴたりと閉めることができずに、数センチの隙間が開いていた。その隙間からは小鳥のさえずりが聞こえてくる。この部屋の主は、すでに寝間着から普段用の着物に着替えて一族の敷地内を足任せに歩いていたのである。

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レイリは、三代目の葬儀の後人知れず帰宅した。そして、その帰り際に少しの食糧を買いお粥をこしらえて一人で食した。湯を沸かし、皿を洗い、喪服を畳んで、風呂につかり、少し早めの寝支度を整えてから、机に向かい筆を取った。なぜ筆を取ったのかと言えば、例の先輩に今日のお礼と自身のことを綴るためであった。

カカシへ一通の文を書き上げた後、それを自身の愛鳥である烏に託して、日時と場所を教えてから共に床に就いた。烏に文を持たせ飛ばせるのも翌朝で十分だろうと彼女が判断したからだ。さらに、もう一枚便箋を切り取って言葉を綴る。そちらの方は、小さく折り畳んで机の引き出しにしまった。

そして、翌朝、彼女はまだ薄暗いうちに目が覚めて支度をした。少し貧血気味なのは、まだ目覚めてから日が浅いからからであろう。朝食を摂る前に、机に向かった彼女は赤色の液体の入った小瓶と、青色の液体の入った小瓶を用意し、秤を使ってそれぞれ一滴ずつ小皿に垂らし比較的新しい柔らかな筆の先で混ぜ合わせた。

程良く混ざったその液体は、美しい紫色になった。次に彼女は、一枚の硫酸紙を一辺が四センチになる正方形になるよう鋏で切り取り、予め作っておいた紫色のインクでとある呪文を書き付けた。仕上げに、右手で紙を持ち自分の息をふぅーと吹掛けると、紙の上に綴られた文字達がまるで干上がるのを嫌がるようにくねり、美しかった紫が、瞬きほどの短い間に、漆黒のそれへと姿を変えた。

一仕事終えた後、昨日の夕食として作ったお粥の残りを温め直してから、それを早めの朝食とした。久方振りに袖を通された濃紺の着物も今の彼女にぴったりだった。首の真後ろの襟の部分には彼女の一族の家紋である団扇の刺繍が丁寧に施されている。この着物は、彼女の母親が生前愛用していたものだと記憶している。レイリは、鏡に映る自分を見て、朧げな母の面影を手繰り寄せていた。

艶やかに伸びた緑の黒髪を、ゆるく肩の位置で結ぶ。彼女は、鏡の中の無表情な自分に向かって、にっと口角を上げた。すると、やはり鏡の中の自分も同じようににっと笑う。その形だけの何の意味も込められていない笑みに、レイリはただただ虚しさを覚えるだけで、その場からそっと立ち上がって、櫛を引き出しに仕舞った。

下駄箱の中でずっと放置されていた黒い下駄を一足取り出した。素足でそれを履くと、ひんやりと冷たい感触が足の裏から伝わった。からん。一歩踏み出せば、そんな軽い音が玄関の石畳に響く。ころん。足元を見て、遠い夏の日のことが甦ってきた気がした。

正面には、昨日、自分の家に入る時に先輩に頼んで壊してもらった玄関の扉が、そのままの状態で口を開いて佇んでいた。彼女はその隙間に身体を滑り込ませて、後ろ手でなるべくその引き戸を閉じた。すると、小さな破裂音がして彼女の双肩には白煙を纏う黒い艶やかな羽をした二羽の烏が現れた。レイリが指先で頭を撫でてやると嬉しそうに両方から頬ずりが返ってきた。

外の空気は、冷たくとても新鮮だった。しかし、遠くから風に乗って流れてくる空気の埃っぽさと微かな焦げ臭さにレイリは素直に眉をしかめる。右の烏にはカカシへの手紙を持たせ、左の烏には返信用の筒を首から提げさせた。角に出て合図を送ると、双肩から飛び立った愛鳥二羽に彼女はやさしい笑みを浮かべる。

元は一族の者が暮らしていた家々を眺めながら、ゆっくりと歩いていると、外の物事に関して心を移さないようにしてきたレイリでも、時折ふと懐かしい記憶が思い出されたりする。ここでは誰と何をした、ここでは誰と何があったかと。不意に緩みそうになる涙腺に、彼女はギリッと唇を噛むことで耐えた。




懐かしい気配を探って彼女が辿り着いた先には、うちは一族唯一の生き残りと公表されているうちはサスケの姿があった。どうしてこんな森の中にある演習場でひとりで修行なんてしているのだろう。

時刻は正午を優に過ぎていた。レイリは、カカシからの返信に『今日の午後からは、山際の第三演習場でサスケと修行するよ』と書いてあったのを思い返し、今のサスケの姿とを見比べて疑問に思った。

カカシの気配を探っても、この付近には彼らしきものの気配を見つけることはできない。これでも、レイリは暗部の中でも有数の探知能力を備えている方だと自負していたし、この能力には何度も助けられてきた。しかし、そんな自分の能力を以てしてもカカシの気配を探し当てることができなかったのだから、カカシは今、サスケと共にいないということが、彼女の中で確定した。

そしたならば、一体、カカシは何処にいるのだろうか。いつもの遅刻癖の延長だとしても、これは異様だとレイリは直感した。彼女の勘はよく当たる。胸がざわざわとして不安に駆られた。レイリはサスケのいる演習場から離れた森の開けた場所にしゃがんで分身を四体作った。久し振りの忍術に少しだけ緊張したが、上手くできたようだ。

「みんな、上手くやってくれるね?」

『何言ってんのぉ?』
『ここにいるのは、全員自分の分身なんだから』
『上手いも下手もないでしょ?』
『もう。しっかりして下さいな、本体様?』

「…うん。ありがとう――それじゃあ散=v

四体の分身が四方へ飛び去った今、この場に留まっているのは本体の彼女だけであった。そして、彼女が念じればどこからともなく一羽の烏が彼女の側の木の枝に飛来した。ちょこちょこと枝を移動して、彼女の様子を伺っている烏は今朝の烏と同じもので、指示を待っているようだ。

レイリはそっとその烏の止まる枝の先に腕を延ばす。「今朝はありがとう。おいで、」軽い足使いでその腕へと飛び移った烏はひとつ鳴いて彼女の顔を覗き込んだ。片目だけを閉じ、右手の人差し指と中指を立て、他の指を軽く握り立てた指のその爪を唇に寄せて何事かを呟く彼女。次に彼女が眼を開いた時、その片目は赤色に染まっていた。

「急いで―――探して」

彼女は烏の止まっていた方の腕を大きく振り上げた。その勢いに乗り、烏は空高く飛翔する。一度彼女の頭の上を円を描くようにぐるりと回ると、カアカアと仲間の烏を呼び集めるように三度鳴き、散り散りになって飛び去った。

20140220
20150703 加筆修正
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