万物流転 | ナノ
8.穢れないその背中
その頃レイリは、雨降る庭先を縁側から眺めていた。祖母の雇っていた庭師に整えられていたと記憶する庭園も、今は木も草もぼうぼうに生い茂り、かつての整備された美しさは見る影もない。彼女は今の大きく形の崩れた植木を見て、時間の流れを肌で感じた。そして、それと同時に残念だと思った。

彼女はここからの眺めを気に入っていた。それは、ただ単に景色に魅入られただけでなく、孫の自分を好かぬ祖母が、唯一この縁側で庭を眺めている時だけは、自分をただの子供として見てくれていた気がしたから、レイリはここが好きだった。

彼女はゆらりと庭の端から端までをその黒い瞳で見渡した。中央の濁って藻の張った池、その周りの名も知らぬ雑草。向かって左側に生える衰えを感じさせる松の木。そのどれもが、自分の記憶の中の生き生きした風景とは違って味気ない。そして、地面を伝い、大小三つの敷石を伝い、自分の足、そして膝へと視線を流していく。黒い喪服の腿の上に置いた自分の細くなってしまった頼りない腕を見てから、思わず無念さをたっぷり含んだ溜息が出た。

サンダルを履き、重たい腰を上げて雨の下へと出る。そしてその片腕を持ち上げて、曇天の空へとかざした。冷たい雨が手の平を打ち付ける。彼女が拳を握れば、数滴の雨が掴めた。さらにその拳を勢いよく振り落とすと、手に掴まれていた雨粒が鋭く地面に叩き付けられた。

雨が彼女の体温を奪っていく。レイリは、唇を噛んだまま握った拳に力を込めた。足元では、彼女の膝下までに伸びた草が、雨粒に打たれて軽々しく揺れ動いている。このようにしているうちに、やはり後悔と悲しみに堪え切れず、彼女は濡れたまま縁側から部屋に上がった。彼女は、今、猿猴王との話を思い出していたのだ。

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禁忌の間の奥の奥。白い木製の大きな扉の部屋が、彼女の部屋であった。いつということもなく、目覚めた彼女の側にいたのは、老猿であり、それはただの老猿ではなく、三代目火影の口寄せ動物である猿猴王猿魔であった。

『私が目覚めたということは、もしや、三代目様は…』
『三代目火影猿飛ヒルゼンは逝去された。お主はここで眠っておったから知らぬであろうが、ちょうど二日前、中忍選抜試験に乗じて砂隠れと結託して木ノ葉を襲った大蛇丸から、里を守ろうと禁術を使ったのだ…』

レイリは、歴代火影の中でも最強と謳われたあの三代目がついに、と口には出さなかったが、心の中は恐怖と驚きでいっぱいになった。少しだけ怯えたように震えた声を出して返事をした彼女に、猿猴王はさらに続けた。

『猿飛の最後の命だ。お主が眠りについてから今日までのことを、』
『…いいえ、猿猴王様』

まさか自分の話を遮られるとは予想もしていなかった猿猴王は、じろっと彼女に目を向けた。そして、後に続いた彼女の言葉に、彼はさらに驚嘆して寝台の上で足を伸ばして座っている人物をまじまじと見詰めることになる。『私は確かに今日まで眠らされておりましたが、何も知らない訳ではございません』と、彼女は確かにそう言ったのだ。

『なに?それはどういうことだ。貴様は猿飛に術を掛けられていたではないか!』
『はい。三代目様の術は完璧でした』
『それならば、なぜ貴様は知っている?』

探るような目を、猿猴王は寝台の上の少女に向けた。数年前、彼女を特別な術で眠らせたあの日の、忘れ難く心残りのある様子の相棒の背中を思い出すと、彼は言葉に言い表し尽くすことの出来ない気持ちが胸の中に溢れかえる。その一部を含んだ視線を受けて、彼女は悲壮さを表情に、声に滲ませながら告げる。

『三代目様は、我が一族の終焉をとても悔いておられました』
『…? それとこれが、一体どういう関係があると言うのだ』

憤りすら感じさせる猿猴王の声に、少しだけ気圧されながらも、その声は凛としていた。もう先ほどまでの震える怯えた声ではない。そして彼女は、老猿を宥めるように言葉を紡いだ。

『猿猴王様。三代目様は、我が一族に最後の望みを…情けを掛けて下さいました。それ故に、私は断片的にですが、うちはが滅んでから以後のことを少しだけ知っているのです』

猿猴王が、驚きに満ち満ちた目を彼女に向けると、彼女のその瞳が赤く揺らめいたのではないかと錯覚した。しかし、考えてみれば、病み上がりらしい彼女にそんな力はないことを思うと、猿猴王は己の見間違いなのだろうとその件に決着を付ける。頭の中でどう伝えようか、レイリが話を組み立てている間、猿猴王がそのように自分を見ていたことなど、彼女は知る由もない。

『三代目様は――彼にあの任務を…うちは一族の殲滅をさせてしまったことに深い負い目を感じなさっていました。眠る私の室に来るたび、幾筋もの涙を流しながらお謝りになったことを、昨日のことのように覚えております。…三代目様は、私に術を施してからも、たびたび私の室へ足をお運びになりました。その時に、外の話を、眠っている私に聞かせて下さったのです』

そう言って、彼女が一旦言葉を区切ると、猿猴王は自分の知らなかった相棒の姿を思い浮かべて口を真一文字にぎゅっと結んだ。そして彼女が次の言葉を言い出す前に、ふらりと彼女を己の視界の外に追いやって、視線を板の間の方へ向ける。

『私の精神は、今こうして術が解けるまでは、確かに眠っていました。…けれど、身体の方はその時の三代目様のお声を覚えているのです。…信じられませんか?』

『…いや、――だが…』と猿猴王は答えつつも、にわかには信じられ難い内容の話に瞠目し、口を閉じるしか出来なかった。レイリは、起き上がった上半身をベッドの背に預けながら、しばらくの黙考の後、ゆっくりと口を開く。

『猿魔様が、お信じになれないのも無理はありませんね。…私にも、どうしてこのようなことが起きたのか、皆目見当がつきませんもの!……しかし、ただ一つだけ言えることがあるとすれば、三代目様は、私に…意志≠託したのです。――木ノ葉隠れの里の、うちはレイリというひとりの家族に…』

『主は……一体―――?』

猿猴王のその問いには答えず、彼女はうっすらと儚い笑みを浮かべて流した。その顔に、猿猴王もこれ以上何を聞いても彼女は真実を口に出さないだろうと思い、老猿はそれ以上何も言わなかった。レイリは、猿猴王の気遣いを有難く思いながら、何処か遠い目をしながらこう告げた。

『大切な者を守りたい。――そう心から思っています。私のこの強い思いが、三代目様にも通じたのでしょう』
『そうか…。猿飛は…いつも口癖のように言っておったな。大切な者を守る時、真の忍の力は表れる≠フだと」

『ありがとうございました…猿猴王 猿魔様』
『礼など必要ない。……のう、貴様はレイリと言ったな』
『はい、』

『ワシは―――猿飛を救えなんだ』
『!』

老猿の深い琥珀色の瞳に映っているのは、深い後悔の色だった。そして、その自責の言葉に頭を殴られたような衝撃を受けた彼女は、何も言葉に出来ずにただただ猿猴王を見ていた。どちらとも閉口し、重たい空気が流れる暗い部屋。しかし、この沈黙を破ったのは、猿猴王であった。

猿猴王は、深く皺の刻まれた顔の正面をレイリに向けた。驚いたことに、もうその瞳には、別の光を宿しているのだ。そしてその光もろとも目の前の彼女に、鋭く視線が注がれた。レイリは、本能的に何かを感じ取り、じっと老猿の瞳を見詰め返す。

『レイリ。お前は、その大切な者≠ニやらを救ってやれ…必ずだ』

『…はい!――必ず、』と、レイリは頷くと、満足げに口角を上げにやりと笑んだ老猿は、白煙と共にこの部屋からいなくなった。レイリは、その白煙がゆっくりと消えてなくなるまで、じっと先ほどまで猿猴王のいた空間を眺めていたのである。

20140107
title by 207β
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