万物流転 | ナノ
40.うらぎり7
目を覚ますと蜘蛛の巣の張る天蓋が見えた。私は自分が目覚める今の今まで埃っぽいベッドに横たえられていたらしい。気分が悪い。きっと、私が気を失ったように眠る前に男にかけられた呪文のせいだと思われる。ぐっと腹に重みが加わって、オレンジ色の毛の塊が見えた。

クーが私のお腹の上に座ったのだ。「にゃあ」と鳴いたクーは、ぴょんと私の上、そしてベッドから飛び降りて部屋の隅に項垂れしゃがみ込む男の方へとてとて歩いていった。ちょんと男のぼろぼろのローブを引っ張り、ようやくその人は私がいる方へと顔を挙げたのだった。「気分は、どうだ?」と男は掠れた声を出す。

「すまない、手荒な真似をするつもりは、なかったんだ」
「…あなたは、アニメーガスなのですね?」

目の前の男は、そのぎらついた目を落っことしそうなほど開いて、震える声で「あぁ、わたしは動物もどきで、黒犬に変身できる、のだ…だからこうして、今、アズカバンの外に、また、出られた」そう言った。「わたしは、シリウス・ブラックだ」彼は目玉ではなく、自ら爆弾を落とした。しかし、私は何も動じはしなかった。

「どうして…どうして…何故なんだ?何故きみは、驚かない?」
「…驚いた方が良かったですか?ブラックさん」

目の前の彼は「い、いや。わたしは、そういうことを、言っているのでは、ない。今や、わたしのこの名は、魔法界では――憎きヴォルデモート卿の次に、人々を、震え上がらせる名だ。それなのに、きみは――学生である君は…」とうわ言のように呟く。

シリウス・ブラックは、何か恐ろしいものを見るような目で、しかし、何処かに希望を探しているような目で私を見つめた。私はのっそりとベッドから這い出て、彼と1メートルの位置まで近寄った。そして、彼がハッと息を呑むのが聞こえたが、私は構わずにその場に座り込んで視線の高さを合わせた。

「あなたがあのアニメーガスの大型犬に変身している時、私の喉を咬み切って私をころすのは容易いことでした。けれど、あなたは私をころさず眠らせてここへ連れてきた。…それらが意味することは、あなたは、魔法省が報じるようなただの気の狂った殺人者ではない、と言うことです」

目の前の男は、私が微笑してそれを言うのを信じられないとでも言いたげな表情で聞いていた。全てを聞き終わってから、ぽろぽろとそのすっかり落窪んでしまった両目から涙を零して「わたしはこれまで、こんなにも賢い猫に出会ったことがないよ」と胡座をかいた足の間に座るオレンジ色の猫を撫でながら言った。

「君の杖を、返そう。
 その代わりに、わたしの質問に答えてくれるか?」

私の理論はかなり強引なものであったが、無理やりなりにも、彼の信用を得られる程には、私個人の独断と偏見に塗れた思いが伝わったらしい。人間と話すのは久し振りだという彼の声は、弱々しく掠れていた。私は微笑みを保ちながら、なるべくゆっくりと優しく耳に届く声色で話しかけた。

「…わかりました。どうぞ、何でも聞いて下さい。
 けれど、その前に私もひとつ質問しても宜しいですか?ブラックさん」

私の言葉を受けて「是非、シリウスと呼んでくれるか?」と、無理に笑おうとしたシリウスは、へんてこな表情を浮かべていた。私がどうしてここに連れて来られたのかと問うと、シリウスはクーを指差して「この寒さに行き倒れていたわたしを、何とかして救おうとしてくれたに違いない」と何処か誇らしげに語る。

「だからこれは、君をわたしの元へ案内したのだろう」

ハリー・ポッターを知っているか?ロンというウィーズリー家の男の子のことを知っているか?彼の飼うペットの鼠については知っているか?怒濤の質問攻撃だった。他にも色々聞かれたが、正直何を聞かれどういう風に答えていったのかは、いちいち記憶しているのも馬鹿らしくなるくらい忙しなく口を動かした。

私はシリウスが質問を終え口を閉じるのを待ってから言った。「シリウスさん。明日からは城は生徒で溢れることになるでしょう。下手にこの猫を使って私と連絡を取ろうとすれば、今度は私がディメンターに疑われるかもしれません。なので、用件がある時はこれをお使い下さい」私は常に持ち歩いている巻物から人の形をしたお札を取り出した。

軽い破裂音と白い煙とともに、巻物から出てきたそのお札を食い入るように見つめ、そして私を見て、シリウスさんは驚いていて困惑していることが手に取るようにわかった。

「これは、私の故郷の魔法道具のようなものです。これは、離れたところにいる相手と連絡を取る時に用います。使い方は、この羽ペンを差し上げましょう。それで用件をこの人形(ヒトガタ)へとお書き下さい。そうすれば、自動的に私の元へこの紙が飛んでいきます」

「どうして、このような身の私に、君がそんなことまで?」
「それは…」

「この猫が…クルックシャンクスがそれを望んだからです」彼の両腕がワナワナと震え、足の間にいたクーが他へ飛び出したのを切っ掛けに、シリウスさんはがばっと私に抱き着いた。耳元でわんわんと泣く声が響く。やっと落ち着きを取り戻していた涙腺が緩み、本日二度目の男泣きをしたのだった。

20130817
20160219 加筆
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