罪の残響、恋の始まり



 シャワーから出た部屋に義勇君はいなかった。テーブルに置かれていたコンビニのビニール袋の中には、ペットボトルのミネラルウォーターと酔い止めのドリンク剤が入っていた。義勇君の優しい気遣いに目頭がじんわりと熱くなり、後悔の念が込み上げる。
 義勇君の悲しそうな表情が頭から離れなかった。私は一時の快楽に溺れて大切な幼馴染を酷く傷つけてしまった。もう以前の関係に戻ることは、きっと出来ないだろう。
「頭、痛いな…」
 思い出したように襲ってくる頭痛に、思わずこめかみを掴んで乱れたベッドに横になる。汚れたシーツから伝わってくる冷たさが、シャワー上がりの火照った身体に心地よく、強烈な睡魔に襲われる。流石にもう限界だ。
 重たい瞼を擦りながら枕元に無造作に放り出されたバッグまで手を伸ばす。真新しいスマホを取り出してやっとの思いでアラームをセットすると、私は浅い眠りに落ちた。

 流石に2日続けて同じ服装で会社に行くわけにもいかない私は、早朝にラブホテルから自宅に戻って着替えを済ませ、いつも通りに出勤する。
 数年に一度あるかないかの酷い二日酔いだった。心臓の鼓動に合わせて頭が疼く。頭蓋骨の中に鉄の玉が詰め込まれ、それが右へ左へ転がっているようだった。
 週の半ばから飲みすぎてしまったことを後悔する。今週はあと2日もあるというのに私の身体は使い物になりそうもない。いつもの自動販売機でホットコーヒーを購入し一気に煽るも、憂鬱な気持ちと二日酔いが醒める気配はなかった。
「あ、名前さん、おはようございます」
「我妻君…。おはよう。珍しいね、朝一から本社にいるなんて」
「はい。今日は午後から外回りなんです」
 鋭い彼に自分を悟られないよう心を閉ざし、そうなんだと精一杯興味なさそうに呟いて自販機コーナーを後にしようとする私を、これ以上先に進ませまいといった風に我妻君が眼前に立つ。
「…な、なに?」
「名前さん、今日の夜空いてます?」
「は?」
 我妻君の突然なお誘いに私は重い瞼を見開く。
「実は俺、ちょっと気になってる人がいて…。それで、名前さんに聞いて欲しくて」
 続けざまに紡がれた突飛な発言に吃驚しつつも、気が多そうな彼の本命は正直な所興味があった。どうして私に相談?なんで私なの?という疑問は一旦横におき、頭蓋骨の中で蠢く鉄の玉と我妻君を天秤にかける。
「でも、私、今日は少し体調が…」
 それに、今の私は人に恋のアドバイスをする余裕も資格もないよ、という言葉をなんとかのみこむ。
「名前さん、お願いしますよ。俺を助けると思って」
 両掌を眼前で合わされしつこく懇願されてしまうと、断るのが可哀そうになってくる。眉尻を下げて捨て犬の様な瞳で見つめられてしまえば、母性本能が擽られる。
 小さく溜息をついて「場所と時間は?」と問いかけた私に、我妻君は向日葵が咲いたように微笑んだ。

 我妻君が指定したお店は、うなぎが美味しいと評判の和食料理店だった。高級そうな店構えに相反して手軽な価格で食事が楽しめるこの店は、OL達にも密かに人気があり、私もファンの1人であった。個室も完備されていることから、恋人とのデートや会合といった用途でも使われているのを目にしたことがある。
 流石期待の営業部ルーキーは、私のような年齢層の女性が喜ぶポイントを心得ているなと感心する。賑わう店内を通り抜け案内された個室で、客先から直接合流するといった我妻君を待つ。時間つぶしにとスマホを取り出し、座り心地の良いソファに身を沈める。嫌でも目についてしまうラインのアプリ内に蓄積されたメッセージに蓋をして、私は我妻君の好きな子について考える。
 蜜璃ちゃんは流石にないだろう。伊黒さんというラブラブな彼氏がいることは周知の事実だ。もしかして、昨日合コンに誘ってくれた我妻君の同期の子?確かにあの子は可愛いし、我妻君とも仲が良さそうだった。いや、そもそもうちの社内ではないのかもしれない。
 本調子とはいかない頭で不謹慎にも少し楽しくなってそんなことを考えているうちに、個室の引き戸がからからと音をたてる。
「………なんで…」
 早かったねとスマホから顔を上げた私の目に飛び込んできたのは、見紛うことなく竈門君だった。その瞬間、我妻君に仕組まれたのだと合点する。やはり彼は、全てを知っていたのだろう。
 二の句が継げずに狼狽する私を他所に、竈門君は当たり前のように私の隣席に着席しその間合いを詰め、射るような目で私を見つめる。2週間前の熱がフラッシュバックし胸が轟く。
「なんでって…。名前さん、連絡無視するじゃないですか。だから善逸にお願いしたんです。だめですか?」
 竈門君の瞳は真剣だった。彼らしい柔らかな声音の中に真剣さが滲んでいる。 
「だめだから無視してるんでしょ!なんで私のフィールドに入り込んでくるの!?」
「名前さんが俺を誘ったんですよ。名前さんにそれを言う資格はないと思います」
 竈門君が可愛らしくもその端正な顔をさらに寄せる。唇が合わさってしまいそうに近い距離で呟く彼の吐息に、めまいに似た恍惚感が訪れる。
「私の答えは話したはずだよ…店員さんがきちゃうよ、早く離れて」
「…本当にそう思ってるんですか?顔、真っ赤ですけど」
 けんもほろろに私の言葉を突っぱねて、裏側に隠れた感情を読み取ろうとするように、竈門君の煽情的な瞳がこちらをじっと見つめている。彼の胸を押した両手首は、竈門君の大きな掌に易々と拘束されてしまう。
「…なんで竈門君は私に拘るの?私が恋だなんだの言ったから、本当にその気になっちゃったの?…いい?私は竈門君が想像してるよりよっぽど酷いの。寂しいからって大学生にちょっかい出してみたり、幼馴染とセックスして傷つけて…。そういうことも平気でしちゃう女なのっ!!貴方みたいに若くて純粋でこれから先いっぱい未来がある子に、相手をして貰えるような価値のある女じゃないのっ…。どうして分かってくれないの」
 個室の外に声が漏れてしまうのではないかと思う程ヒステリックに叫びちらし、最後は溜まる涙を堪えきれずに泣き出した。
 竈門君は眉尻を下げて僅かに眉間に皺を寄せ、苦しそうにこちらを見ている。お願い、もうそんな憐れんだ目で見つめないで。余計惨めな気持ちになってしまうから。
「そうやって、強がっている所もどうしようもなく気になるんです」
 竈門君が私の目もとに形のいい唇を寄せ、零れる涙を掬うようにぺろりと舐める。ざらりとした感触と燃えるような熱に私の全身がぴくりと震える。
「名前さんは酷い女なんかじゃないですよ。そうやって相手のことを考えてくれるじゃないですか。自分で自分の価値を下げないでください」
「…なんでそうなるのよ」
 いつのまにか陽だまりのような柔らかな笑顔を浮かべる竈門君が、ごつごつとした掌で私の頭を何度も撫でる。子供をあやすような仕草に、いい歳をした大人が何をやっているんだろうと惨めさに拍車がかかるも、お日様みたいに温かな彼の体温が、私にこびりついた汚れを浄化してくれるような気がした。
「名前さんのことをもっと知りたいんです。名前さんが泣いていると苦しいし、笑顔にしてあげたいと思うんです」
「…竈門君は勘違いしてるだけ。竈門君くらいの男の子はね、ちょっとそれっぽいことされたら気になっちゃう年代なの。それは、恋でもなんでもないんだよ」
「たとえ勘違いだったとしても、俺はこれから名前さんに恋する自信があります」
「だから、私と恋するっていうのは」
 続く言葉は、私をソファに押し倒した竈門君の唇によって吸い取られてしまう。視界にクリーム色の店の天井が広がる。唇で唇をこじあけて私の逃げる舌を簡単に絡めとった竈門君の手が後頭部に回される。ぴったりと合わさった唇からどちらのものとも分からない透明な唾液が口角を伝うと、竈門君は仕上げとばかりにべろりと舐めた。
「キスして、セックスして、結婚ですよね」
 色を孕んだ目が私を見下ろしており、驚く程の色気に子宮が疼く。
「名前さん。俺に名前さんの恋を教えてください」
「…馬鹿っ……。もうどうなっても知らないからね」
「はい。のぞむところです」
 口元に悪戯っ子のような微笑を浮かべた竈門君が、もう一度私に口付けた。
 涙はとっくに止まっていた。



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