「しめやかな幸福」






起きて寝室を出、顔を洗った後洗面所から廊下、そしてキッチンへ。
朝ごはんをつくりにキッチンへ向かうわけではなく、日課の珈琲を淹れに向かう。

一日の始まりは珈琲。ついでに言うとブラックを飲む。
これは中学の頃から決めていることだが、今考えればませてたなと思う。


最近新調したケトルに水を入れ、火にかける。
強火で時間短縮、といきたいところだがお湯をわかすのもまた愉しみなので、中火にセットする。
みんな早いから、と電気ケトルで沸かすらしいが、自分は火で沸かす。
特に意味は無いが、ひとつのこだわりとしている。断じて頑固なわけではない。




今は午前5時、を少し過ぎたぐらいだろうか。
起きるのは幼少期から早い方で、目覚ましをかけなくとも勝手に目が覚めるタイプだ。
早起きと言っても日の出の時間はとうに過ぎていて、まだ眩しくない陽がキッチンに差し込んでいる。


そういえば昨日のラジオで、快晴ですなんて言ってたなあ。ならベランダの植物に水あげないと。
一昨日までは雨が続き、水をあげなくても良かったのだが、今日は晴れで、しかも気温も上がるらしい。
…まあ、珈琲飲んだらしよう。
そんなことを考えながら、挽いた珈琲をフィルターに、分量を量って入れていく。


視界の端に、ケトルの口から蒸気が出ているのが見えた。
お湯もそろそろ沸いてきたかな、とコンロに視線を向けた時だった。
起床した頃から、なんだか知らないが違和感を感じていたのだが、それが今確実に分かった。



「背、伸びた?」


いつもよりは背筋をしゃんとしてるかもしれないし、もしかしてまだ寝ぼけてるかもしれない。
見える世界が今までより高さをもって、そして広がった。そんな気がした。











そう心の端っこに、ほんのちょっぴり芽吹いた高揚感に浸っていた時だった。
キィ、とリビングの扉が開き、のんびりこちらを見上げる目と目が合った。



「……おはよう」
「あれ?もう起きたの早いじゃん」
「ぅうん。なんか起きちゃった」



艶やかな黒が、ブラインドカーテンから差し込む陽に当てられて、滑らかに波打つ。
寝起きでまだ頭が回っていないのか、足がおぼつかない。よたよた歩きながらこちらに向かってくる。


ちょっと、椅子にぶつからないでよ。と注意すると、そんなことしません、と言いながら椅子の足にぶつけた。
ああほら、言わんこっちゃない。ぶつけた本人は、痛さと、きっと恥ずかしさで唸っている。
…多分あれは小指だな。痛そう。


気温の高い日が続くが、朝はまだ肌寒い。そして家の中で一番室温が低いのは、今いるキッチンだ。暑さに苦手な自分は丁度いいのだが、この同居者は寒いのが苦手だ。こちらまでたどり着くと、熱を貰うように体をぴたりと寄せてきた。
…お前はいつから変温動物になったんだ。




お湯を、予め蒸らしておいたフィルターへ中央からゆったりと円を描くように、数回にわたってお湯を注いでいく。
うん。今日もいい感じだ。



「いつもは昼ぐらいまで寝てるのにね」
「たまには早起きする時もあるものだよ。たまにはね」


足に纏わりついたまま離れようとしない。これは中々に邪魔である。
もし、この珈琲がこぼれた時に一番被害を受けるのはお前なんだぞ、と考えながら、淹れた珈琲を愉しむ。
退けるのに一番有効なのは、温かい飲み物を出すことだ。これは経験上知っているので、今日もその手を使おう。



「君は、今日もホットミルクでいいのかな?」
「うん、お願い」
くれるときは冷ましてくれてもいいんだよ、となぜか得意気に言った。
それホットミルクっていうのかな、と零すと、冷たくないからいいんだよ、と返しがきた。


「ほんとに熱いの苦手なんだね」
「それなあ…熱いのすぐに飲めるのって、ほんとにすごいと思うんだよねえ」
「慣れだよ慣れ」

そう言うと、君はジト目で俺を睨む。
あ、機嫌損ねちゃったかも。ま、どうでもいいんだけど。


「誰にでも得意不得意はあるもんだろ?」
「ふうん」
「なにその興味なさげな感じ」
「まあ興味ないからね」
「そんなんじゃ彼女つくれないよ」
「余計なお世話」
「アドバイスしてやってるのになあ」
「一言多いのよ、君は」
「人のこと言えないだろ」
「そんなこと言ってると…」

オーダーされた通りのホットミルクを、同居者お気に入りの器に移した。
「君のために、丁度良い温度まで冷ましてあげたこれ、あげないよ?」
「性格悪いよ」
「なんとでもおっしゃい」

自業自得です、と言いながら、同居者にご所望のものを差し出す。
はぁなんて優しいんだろうか、俺。じゃなくておいこらお前、お礼はどうしたお礼は。
欲しかったものが貰えた同居者は、知らん顔でちびちびとミルクを飲んでいる。
ま、いっか。
同居者のせいで、少し冷めてしまった珈琲を啜った。…割りと冷めても美味しいな。


「そういえばさ」
「うん?」


満足だ、と言わんばかりの顔をこちらに向けながら、同居者は話しかけてきた。
その満足は俺がつくったホットミルクで成り立っていることを、目の前の奴はきっと忘れているんだろうな。
その後の言葉でむせ返りそうになったが。


「背、伸びた?」
「え?あ、えうん?そう、かな?」
「なんでそんなに挙動不審なんだい…そんな気がして、さ?」
「質問を質問で返すなよ」


そう悪態をついてしまったが、驚きよりもなんだか嬉しくて、思わず口角がほんの少し上がった。

「なんだよ気持ち悪いな」
「気持ち悪いとは失礼な」
「だって君、いつも無愛想じゃあないか」
「そんなことないさ」
「もう少し君は、客観的視点から自分を見たほうがいいよ」


なんか生徒指導受けてるみたいなんだけど。
ちなみに身長は、180とちょっとあるかないかである。






ふと時計をみると、あと少しで7時。なんだかんだ話してたら、結構時間が経っていた。
今日は少し早く家を出る必要があるのだが、そろそろその時間になりそうだった。
もう少し珈琲を堪能したかったところだが、そうもいかない。


自分のカップやドリッパーなど使ったものをちゃっちゃと洗った。
午前中にお腹がなったら嫌だな、と思ったので、昨日冷蔵庫に買ってそのままの、食べそこねたプリンを思い出して冷蔵庫へ直行。プリンの包装や蓋を乱暴に開け、そして味わうことなく口に放り込んだ。
横から「うわぁ下品」、と聞こえたのには気にしないでおこう。


その後洗面所に行って歯を磨き、ドタバタとリビングに用意してあった鞄を引っ掴んで玄関へ向かう。
靴を履きながら、「じゃあいってきます」と言いかけた。



「あーほらほら、寝癖ぐらい直してから行きなって」
いつも言ってるじゃん、と痛くもないパンチを膝に食らった。
頭髪指導プラス体罰だ。こりゃひどい。


「もう学生じゃないんだけどなあ」
「大学生も学生でしょ」
「そうだけど」
「つべこべ言わずにはい、しゃんと直す」


玄関に備えてある鏡で確認すると、後ろの髪が変な方向にはねていた。
あ、ほんとだ。…そろそろ床屋行こうかな。うん。
鏡で寝ぐせを整えている間、言った張本人はただその様子を見ているだけだった。


「…って言ってるけど直してはくれないんだね」
「見りゃ分かるでしょ、届かないんだってば」
「はいはい」
返事は一回って教わらなかった?、とまた一言。


「本当。君はまるで俺のおかあさんだね」
「まああながち間違ってはないない」
「…おかあさーん、学校行きたくなあい」
「それは行きましょう」
「保護者って子どもの意見優先じゃなかった?」
「教育的指導も大切なのでね」
「ちぇ」
「おいこら。んなこと言ってないでさっさと行って来い」


遅刻するぞマイペース息子、と喝いれられた。
ため息をつくとまた怒られそうなので、家から出たあとでつこうと思った。




「いてきまーす」
「いてらしゃーい」

扉を開けると、高く上がった陽に照らされた。
まだ春のぬくもりが残る、そんな温かさだった。


さてと。今日も一日、頑張りますかっと。
あ、背のこと言ってくれたし、今日の晩御飯に高い缶詰買ってってやろう。





(ご機嫌取りは、またたびで。)






綴手:fmica