『夜の帳につつまれて』
ふたりだけの秘密は、いつだってふたりだけ、という高揚感があって、
そして、いつ崩れるかわからない、脆さを孕んでいた。
「キス、しよう」
そう言って、涙に濡れた瞼をうっそりと持ち上げた君は、息を呑むほどに美しかった。
もう五月になって少し経つのに、頬に当る風が冷たかった。
駅のホームに備え付けられている、木のベンチに自分たちはただ腰掛けていただけなのに。
「あ…で、も、それ、は、」
「じゃあ、このままの僕を、君は放っておくの?そんなことできないよね」
こちらの話を遮って、”うんとやさしい”君のことだから、さ。
なんてこちらの逃げ道をなくして、そうして閉じ込めてまで言うものだから。
息が詰まる。まるで酸素が得られない、呼吸ができないさかなの気分。いつ溺れるかわからない、そんな恐怖。
本当はいけないことなんだ、そう考えていた思考は、こうして目の前の人物に掻き乱される。
見兼ねた君は、みててよって言った。
「くちとくちをくっつけるだけだよ。こうやって、さ。」
両手で狐の形をつくって、その指先と指先、つまりくちをくちをくっつける。
ちゅって。
ほら、ね。
君は優しく、ほうら簡単だよ、と促してくる。
そのやさしさも、きれいな笑顔も、それらはこちらの心拍数をあげるだけだった。
そんなことをするために、ここに来たわけではないのに。
羽虫たちが、鱗粉をまき散らしながら蛍光灯に群がっていく。
その様子を視界の端に留めながら、自分もあの羽虫たちとおんなじだ、と思った。
きれいなものに、ひかるものに、あたたかいものに向かって飛んでいく、自分もあの羽虫じゃないか。
「で、する?しない?」
期待と、ほんのすこし不安を含んだ笑顔で君はこちらを覗きこんできた。
したいのはお前のほうじゃないか。
なんでそんなふうに聞いてくるんだ。
「そんなの、」
「うん」
「選べるわけ、無い、よ」
「うん、うん。そうだよね。まあ、最初から君に選択肢なんて無いけどね」
「…っ」
自分は、相手の手のひらで踊らされている、そんなの分かりきっていた。
それを実感して、胸がぎゅっと握りつぶされているみたいに苦しくなった。
手汗がなんだか気持ち悪くて、ズボンの太腿の部分で拭いた。
拭いて、その生地をしわくちゃになるぐらい、強く、痛いぐらい握った。
それは目尻に溜まった涙を流さないようにするためでもあった。
「悔しい?辛い?でも、僕、そんな君の顔、とってもすきなんだよね。」
きれいな弧を描いた君の口が、刺のある醜い言葉を紡ぐ。
そっと、両手をこちらの頬に当てて。
そして光の差さない、暗く冷たい深海のような、そんな眼で見つめてくる。
「元はといえば、君が僕のことを遠ざけようなんてするからいけないんだよ。」
「僕は君で、君は僕なんだから。」
「こういう、さ。だいじなこと、どうして忘れちゃったかなあ。」
ごめん、なんてもう言えない。
もう何もかも遅かったから。
「だから、さ。分かってると思うけど、」
もう離れないからね
忘れさせてもあげないから
覚悟してね
包んでいた空気が、一層つめたくなった。
もう、目を合わせていられないほど、怯えていた。
こわくて、こわくて、どうしようもないくらいに。
「こわい夜なら、傍にいてあげるから、」
「…、」
「星を空に散りばめるから、」
「…っ」
「ねえ」
「…ひっ、」
「笑って?」
「…ぃぁ、っ」
電車なんてもうこない、終電も過ぎた無人の駅でふたり、ひとりはほろほろ泣きながら、ひとりははにかみながら。
まるで王子さまがお姫さまにするみたいに、ふたりはキスをして。
それで、そして。
ホームに浮かんだひとつの影は、夜の闇に紛れていった。
綴手:fmica