魔法は解けた 2

 大迫先生の匂い。大迫先生の車。大迫力としての連絡先。彼との約束。
 大切なものを沢山手に入れた雪代は浮かれそうになる気持ちを押さえ、ベッドで去年の過去問を赤シートで隠
し最終チェックを続けた。鞄には昨日までにきちんと用意した、会場に持っていく物を詰めてある。
 筆記用具、受験票、交通案内に携帯電話。カーディガンやティッシュにハンカチ、目薬なども抜かりなく入っ
ている。すでに試験を終え進路を決めたみよとカレンがくれたアミュレットと、お正月に買った神社のお守りを
入れた小さなポーチに、既に携帯に登録したにも拘らず大迫の連絡先を書いたメモを入れる。
 両親も、まさか自分の娘が一流大を受けるとは思っていなかったらしく、しかし模試の結果などを見せると驚
きながらも納得し、全力でサポートしてくれた。今日も、浮かれて帰ってきた娘にやさしい言葉を掛けてくれた。
 わたしは、沢山の人に支えられていまここに立っている。そう強く感じる。皆がいるから緊張はしない。
 電気を消すと、穏やかな眠りが降りてきた。

 試験の出来は良かった、と思う。回答欄を埋めきることすら難しいと言われる数学も全て回答し、見返すこと
まで出来た。英語の長文も十分に意味を解釈できたし、地歴も綺麗に論述できた。回答速報も見ることは出来る
が、いわゆる論述が多い試験なので参考程度にしかならない。しかし予備校で検討すると、かなり合格の確率は
高いと言えた。
 予備校を出て、震える手で大迫の携帯電話に連絡をする。何度もボタンを押し間違ったのは決して寒さのせい
ではないはずだ。
「村田か?」
「はい!わたしです!」
 喋るたびにふわふわと白い息が舞う。湿った口元のマフラーがちくちくする。
「なんだその答えはぁ!ははは」
「あ、すみません…あの、試験終わりました!」
 そうか、と心配そうに声のトーンが下がる。
「あの、自分でこんなことを言うのはどうかと思うんですが、出来たと思います!予備校で今確認したんですけ
ど、九割方大丈夫だそうです!」
「そうかぁ!」
 完全に安心は出来ないものの、自己評価の低い雪代が自信を見せたことにいくらかの安堵を得たらしい、声が
また明るくなった。
 呼吸を何度か繰り返す間、沈黙が流れる。
 昨日の答えをくれると言う、約束のことを二人とも考えている。電話のスピーカからすうと男が息を吸う音が
聞こえた。
「よし!村田の家から一番近いコンビニ、あるだろう」
「町内の角にあるお店ですか?」
「それだ、そこの駐車場に迎えに行く。何時がいいか?」
 覚悟を決めた大迫は、強引一歩手前に事を運ぶ。私服で、ドライブで、夜で、と現実味の湧かない状況の連続
に雪代はくらくらした。
 試験が終わったのが夕方の四時で、それから速報と格闘したのでもう七時を過ぎていて、周りは暗い。
「えっと、じゃあ、九時…じゃあ遅いですか?」
 気さくだが、真面目で規律には厳しい大迫のことだ。きっと駄目だと言われるに違いないと思いながら、提案
する。
「いいぞ。昨日車見たから分かるよな」
 予想外の返事に、思考が止まる。そうだ、いま雪子は大迫の携帯に電話をかけているのだ。つまり彼は、先生
ではない。現に口調も若干違う。
 切れた通話の後、ツーツーと響く音を暫く呆然と聞く。あと何日かで切れると思っていた関係が、見る間に別
のものへ変質していくのが嬉しくてそして怖かった。大人と恋をすることの恐ろしさ、絡めとられていく恐怖と
快感がじわりと這い寄る。
 はぁっと大きく息を吐いて、その白い塊を追いかけるように雪代は帰路を急いだ。

 親には、カレンとみよがお疲れ様会をしてくれると昨日嘘をついた。すらすらと口をつく嘘は雪代本人が驚く
ほどに自然で、母親は冷えても美味しい食事とお菓子を持たせてくれた。
 デートなどしたことがないが、友人のおかげで洋服は結構色々持っている。一生懸命考えて、ざっくりしたオ
フショルダーのセーターと黒いチェックのツイードスカートに、赤いタイツを合わせる。自然でほんの少し大人
っぽい格好を何度か鏡の前で確認し、唇にだけ透明なグロスを少し塗った。
 何度もお泊り会をしているせいか、両親は快く送り出してくれる。一度自宅でお泊り会をしたこともあり、礼
儀正しいカレンとみよの信頼はとても厚い。ローヒールの靴を選んで、罪悪感を踏み潰すように玄関を出た。
 最寄のコンビニまでは、角を二回曲がって二百メートルほど歩かなければならない。街灯が照らす夜道をいそ
いで歩くと、身を切るほど寒いはずなのに手には汗をかいてしまう。
 二回目の角を曲がると、コンビニの明かりが見える。立ち止まりそうになる足と破裂しそうな心臓を何とか押
さえても、歩みはのろくなる。
 不意にふぁん、とクラクションが聞こえびくりと立ち止まる。一車線の道を昨日見た大迫の車が走ってくるの
が見えた。
 ああ、戸惑わせてもくれない。
 助手席のパワーウィンドウが下がると、私服の大迫が奥の運転席から笑顔を見せた。
「夜道を歩かせてごめんな」
「いっ、いいえっ、そんなっ」
 狼狽を隠せない声に、彼が笑った気がした。
 助手席に乗り込むと、程よく効いた暖房が雪代を迎えた。ブランケットまで用意してあり、カーステレオから
はラジオが流れていた。
「今日頑張ったご褒美に、俺の行きつけの場所に連れて行ってやるぞぉ」
「は、はぃっ」
「受験で疲れただろー、着いたら起こすから寝てていい」
 洋楽と邦楽を半々に流すラジオと、計器だけがぼんやりと光る車内、窓の外を流れる町の光に体の力が抜けて
いく。恥ずかしくて大迫のほうなど見れないからと軽く目を閉じる。
 ふぅっと沈み込むようにして意識が闇に引き込まれた。

 はばたき山方面へ車を走らせながら、大迫は昨日に続いてまたも眠ってしまった雪代を微笑ましく思っていた。
自分の思うように事を進めるよう画策したり、気に入られようと振舞う様子はなく、ただ自身の感情に任せて行
動するその幼さが危うくてかわいい。
 町を抜け、山へ向かう直線道路に出たのでスピードを上げる。オレンジ色の街灯が車内を明滅させ、非日常的
な空間を作り出した。
 あと一週間も待たずに、彼女は生徒ではなくなる。それからでも、新しい関係を始めるには遅くないはずたと
何度も自分に言い聞かせた。
 だが、待てなかった。
 伸ばされた腕と、先が無い事に今更気付いて流された彼女の涙は一刻も早い答えを待っていた。生徒に手を出
すなど言語道断、不義の極みだと思うが、もう立ち止まらない。
 片手でまた、昨日のように彼女の頭を撫でる。さらさらとした冷たい感触が心地よかった。
 登山道とは別に設けられた車道で一気に山頂まで上る。スキー場や牧場が備えられていることからも分かるよ
うに、はばたき山は連山の一つで、広大な裾野と結構な標高を誇っていた。
 冬の夜なのでがらんとした頂上展望台に、車を直に駐車する。
「せんせ…?」
「着いたぞ」
 振動が止んだことで目を覚ましたのだろう、むくりと起き上がった雪代に声を掛ける。
 ジャンバーを着て外に出ると、張り詰めた冷気が刺すようだった。まだふらつく彼女を助手席から下ろしてや
ると、空を仰いだ。
 満天の星。澄み切った冬の漆黒の空に、数多の光が輝いている。
「う、わぁ…、きれい…」
 雪代は先程までの眠気も緊張も忘れて、思わず展望台の端まで走る。すると眼下にはばたき市街と海が遠くま
で見通せた。人工の星雲と振るような星に囲まれる。
 大迫も久しぶりに来たこの場所に、車に寄りかかったまま暫く浸る。幾ら山と言っても市街地に近いため、冬
の晴れた夜以外はそれほど星は見えない。それゆえデートスポットとしても紹介されておらず、穴場となってい
た。
 そろそろ飽きることなく夢中で夜景を見つめ続ける少女の体が冷える頃ではないか、とゆっくりと近づく。
「寒くないか」
「いいえ、だいじょうぶです」
 そうはいっても、真冬の山頂だ。雪代の頬は寒さに赤く染まっていた。
 警戒させないように傍により、白いミトンに包まれた手を握る。驚いた隙に、もう片方の手も捕まえて、正面
に向き合う形に捉えた。
「せんせい…」
 慄きながらも見上げてくる瞳を真っ直ぐに見返す。
「先生としてなら、こうしているのは大問題だなぁ」
 意地悪く、そう言ってやると元々下がっていた眉がさらにはの字になった。あの、でも、と口ごもるのを暫く
眺めた後、口を開く。

「昨日の答えを言うぞ。俺も、雪代と会えなくなるのは嫌だ」

 一瞬、理解が追いつかなかったのだろう。彼女の動作が数秒止まった後、大きな瞳が更に見開かれぼろぼろ涙
がこぼれ出す。
「う、ふぇ…っく」
「ほらー、泣くな!お前は強いだろう?」
 ふるふると頭を振り、泣き続ける体を抱き締める。五センチ程の身長差でも骨格が違うので手が少し余った。
そのまま頭を撫でる。
「すきです。せんせいのことが、だいすきです」
 鼻をすすりながらなんどもそう呟く雪代の額に自分の額をつけて、至近距離で言う。
「先生がすきなのか?」
 あまりの近さと伝わる体温に、もう何も言えないのに誘導尋問を仕掛けられる。
 はくはくと金魚のように口を開閉させても、許してもらえず悪戯のように頬や鼻先にキスされた。
「うー…、っひっく、大迫…さん」
「なんだぁ?そんなんじゃ駄目だぞ、全然伝わってこない」
 そっちこそ先生口調じゃないか、と思うと少し勇気が湧いてきた。
「ち、力、さんっ」
「うん」
「すきですっ」
 よくがんばった、と白い歯を見せて笑った大迫はそのまま雪代にくちづけた。

つづく



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