有り余る幸福

柔道部夫婦 三人きり柔道部ではありません
先に設定を読まれたほうが安心かと思います
年齢制限は七番のみ

1.十円玉を拾った
二年生

 通常の部活練習が終わった後も居残りで特訓をする嵐と新名を、深雪はにこにこと眺めていた。それでも働い
ていないと落ち着かない性分なので、普段掃除の行き届かない柔道場の隅を雑巾で拭く。隅の方にきらりと光る
何かが転がっていて、少女はそれを手に取る。
「あ」
 思わず声を上げた深雪に、丁度一息ついた男二人が反応する。
「どーしたんスか、村田先輩」
 深雪は十円玉をつまみ上げ、思案顔で二人に差し出す。すると、嵐も何かに思い当たったらしく難しい顔をし
た。
「へ、十円拾ったんでしょ、そのまま貰ったらどうですか」
「…ああ、そうしろ」
 断言したにも拘らず、やはり男の顔は晴れないままだ。これは何かあると踏んだ新名は、さりげない会話の糸
口を探す。
「前に落し物でもめた…とか」
「まあ、揉めたといえばそうなんだけど…」

 柔道部がやっと部室を貰い、嵐と深雪の二人で活動をし始めた頃にも同じように十円玉を拾ったことがあった
らしい。財布を見て所持金が減っていないことを確認した深雪は、嵐にそれを差し出した。しかし彼は今日財布
を忘れていたらしく、俺が落とすはずはないと突っぱねた。
「以前に落としてたのかもしれないけど、なんとなく二人で押し付け合いになっちゃって」
「それで仕方ねぇから俺の家から貯金箱持ってきて、それに入れた」
 窓際においてある微妙にぶさいくなくま型貯金箱を、軽く示される。前々から部室にはそぐわないと思ってい
たが、あれも夫婦の思い出かと新名はぐったりした。大体十円で揉めて貯金箱行きとか、どこの貧乏夫婦だよと
心中毒づく。
「じゃあこれも入れとくね」
「おう」
 ちゃりん、と音を立てたくまは間の抜けた顔で笑っていた。

2.イイコトの連続
三年春夏

 弁当に好きなおかずが入っていたり、信号にひっからなかったり、些細な幸運とはそういうものだと思ってい
た。だが、心に思う人の存在は鮮やかにそれを塗り替える。

 ちょっと話しかけたときに笑顔で答えてくれた。珍しく居眠りをしていた顔が可愛かった。授業中なのに目が
合った。真剣に半紙へ向かう顔が綺麗だった。色惚けも良いところだと嵐はこめかみを押さえる。
 はばたき学園の芸術系科目は選択制になっていて、美術・音楽・書道いずれかの履修が義務付けられていた。
迷うことなく書道を選択した嵐は、持ち前の精神力でかなり良い成績を修めている。
 しかし今日は全く上手くいかない。朝から続いた深雪との嬉しいハプニングに、気が完全にそれてしまってい
る。
「不二山君、珍しいですね」
「スンマセン」
 古典の講師と書道指導を受け持つ非常勤の老人がおやおやと髭を撫でる。ふざけて適当に済ます生徒ばかりの
授業もあるのに、このがっしりした青年の参加するコマは皆恐ろしいほど真剣だった。心地の良い緊張を彼が作
り出すからだろう。
「今日はちょっと、書けそうにないです」
 生徒達の真剣さに、指導を完全個別指導に切り替えてあるので皆それぞれ一枚提出というルールだけがあった。
彼はオーソドックスな毛筆楷書で、恐らく気を逸らしている相手であろう少女は小筆でかな書きをしていた。
「書けない時は必ずあるし、さらに君はまだ若いからね」
 意味ありげに笑うと、ばりばりと青年は頭をかいた。

 恐ろしいことにさらに幸運は続いた。
 部活の後、二年で空前の大富豪ブームが起きているとか何とか言って、後輩がトランプを切っていた。電車の
時間のある生徒は帰っていき、部員四人とマネージャー二人で円陣になる。
「大貧民には罰ゲームな」
「当たり前だ」
 盛り上がる新名に嵐があっさりそう返すと、場がざわついた。嵐先輩が本気だ、へ、部長ノリノリなんですか。
などとざわつかれるが、本人は全く気にせずもくもくとカードを切っていく。
「あちゃー」
 一回戦目は二年の男子が負け、罰ゲームのくじを引き帰るまで語尾にゃん付けを強制された。
「お前が引いてどうするよ」
「牛みたいなのがにゃんとか、くくっ」
 さまざまな突込みが入りながらも、二回戦目が開始される。
「二連続で負けるかと思ったにゃん…」
「あ、負けちゃった」
 深雪がしゅんとする。
「さ、深雪先輩どうぞ」
 後輩マネージャーがにこにこと差し出すそれを、あまり迷わずにさっと引く。
「なになに、どれが当たった?」
 新名が覗き込むと、折しわのついたノートの切れ端には、皆をあだ名で呼ぶこと!と書いてあった。
「あだ名…?」
「じゃ、じゃあ、おれのことクーちゃんって呼んでくださいにゃん」
「ふざけた事言ってんじゃねーよ。お前なんかウッシーで十分だ」
 どっと笑いが起きる。でも私あんまりそう言うセンスないからと深雪が言うと、後輩マネージャーがふんと鼻
を鳴らした。
「じゃ、僭越ながら私があだ名を付けさせてもらいます!」
 新名はぺーくん、他の部員もウッシーやらのりたまなど、名前や容姿、好物をもじったあだ名が付けられてい
く。深雪先輩から呼ばれるなら何だって嬉しいっすとばかりに皆悶絶する中、嵐にだけは上手いあだ名が思いつ
かないらしく後輩はうんうん唸っている。
「うーん、だめ、やっぱり部長にはコレしか思いつかない。皆我慢してね」
 そういい切った彼女は、深雪に耳打ちする。
「え、それは…ちょっと…」
「大丈夫です。帰るまでの罰ゲームですから」
 もう遅いから最後にするか、とカードを切っている嵐に向かって羞恥を振り払う様に呼びかける。
「そうね、あなた」
 盛り上がっていた空気がぴたりと止まり、目を見開いた嵐の手からトランプがばらりと落ちた。取り乱してい
る嵐など見たことのない後輩達は、動揺する。
「さー、最終戦始めるよー」
 こぼれたそれを拾い、仕掛けた当人がさっさと準備を始めた。お、おうと、男たちも何とか体の自由を取り戻
しゲームを始める。まだ呆然としてカードを手にしない嵐に、面白くなってきた深雪は追い討ちをかける。
「ねえ、あなたってば。始まりますよ」
 敬語を織り交ぜて問いかける。何時もこちらが照れてばかりなので、してやったりという気持ちが湧き上がる。
 いいなあいいなあ、とブーイングを飛ばす後輩達が健闘し最終的に嵐が負けた。罰ゲームは引かずに、鍵当番
を代わるという条件を嵐が飲んで部活は終了した。

「おやすみなさい、あなた」
 深雪を家まで送ると、チュッと頬にキスをされ、そんな事を言われる。余りにも幸福な一日は最高の形で幕を
閉じた。
「夢、じゃねえよなあ」

3.隣人がおかずを作りすぎた
三年夏

「今度は何スか」
 枝豆事件と同じように、深雪がなにやら広げている。今回は他の部員やマネージャーもそれに群がっていて、
より豪勢なことになっていた。
「匂いでわからないかな」
 そう言われふんふんと嗅ぐと、確かにスパイシーな香りが柔道場の匂いに混ざっていた。
「えーっと、なんだっけこれ、知ってるんだけど思い出せねー」
「生姜だぞ、新名」
 輪の中から嵐が答えを投げる。
「お隣さんが生姜掘りに行ったらしくて、沢山貰っちゃったの」
 生姜って掘るもんなんスか、ってかペースト状になってない生姜とか初めてっス、など後輩らは口を動かしな
がら深雪に頷く。
「お隣から貰ったしょうがごはんをお結びにしたものと、生姜チップスとくるみ生姜よ」
 ばばくさいメニューでごめんね、でも家じゃ食べきれなくって、と深雪は申し訳なさそうに告げる。
「いや、すげえ美味い」
 間髪いれずに応えるフォローではない正味の褒め言葉に、やっぱり嵐さんには敵わないなと新名は思う。見る
からに相好を崩した深雪は、新名君も良かったらどうぞと手招きした。
 薄い黄色の生姜と細く切った油揚げが、飯に混ぜ込まれている。噛むと程よく広がる辛さと油加減が絶妙だっ
た。甘く煮た生姜を炒って砂糖をまぶしたチップスも、風味の効いたくるみも非常に美味しく、奪い合うように
食べた。
 食べるのに夢中になっていると、後輩マネージャーが人数分のグラスと良く冷えたソーダ水を持ってきた。
「私、手作りのジンジャーエールとかまだ信じられないんですけど」
「そう?ジャムを作る要領と一緒よ」
 炭酸駄目な人ー!と呼びかけるも誰も手を上げない。そりゃ多少駄目でも深雪さんのお手製なら飲みたいだろ
うよ、と小声で悪態をつく。どろりとしたシロップを注ぎ分け、ゆっくりとソーダで希釈する。綺麗な琥珀色で
はなくジャムを溶かしたような様相だが、一口飲むと生姜の風味と何かスパイスっぽい味がして、それを炭酸が
喉に流し去った。
「不思議な味…」
「甘さが足りなかったら、ガムシロップあるからね」
 もともと手作りの飲み物など、あまり高校生には縁がないのだ。美味しいまずいの前に未知の味という感想が
皆の顔に浮かんでいた。
「深雪、お代わり」
 その中ですっと嵐の手が上がる、はいはい、とかいがいしくお代わりを作る彼女は嬉しそうだ。
 そのお代わりを美味そうに飲み、そろそろ帰ろうかと嵐が号令をかけた。オスという返事の後、皆それぞれに
片づけを始める。洗い物してくるねと外に出る深雪に俺も手伝う、と嵐が追いかける。
「じゃ、俺も」
「先輩はだめ」
 思い切り後輩マネージャーに進路を塞がれ、新名はむっとする。
「ニーナ先輩、分かってて邪魔するなんてサイアクですよ」
 はぁ?と睨んでも、どんどんと室内の押し戻され、他の部員と同じように雑巾がけを命じられる。
 窓から見える洗い場に向けて後輩の少女はちょっと笑う。
「今日のキスは、ジンジャー風味ですよねぇ。深雪先輩」

4.きれいな満月だった

 洗い物を持って外に出ると、凄く綺麗な満月が東の空の際に現れていた。
 この間の枝豆とは違って、苦手な人も多い生姜だったから下手したら全部持ち帰りになるかと思ったが、それ
が杞憂に終わり深雪はほっとする。
 一人で持つには少し多かったグラスを嵐が持ってくれ、ふきんとお盆だけ抱えて夕闇を歩く。
「嵐君、生姜すきなのね」
 しいたけやアボガドといった風味に癖のある食べ物が苦手な彼のことだから、駄目かもしれないと思っていた
のだ。
「おう、ちっこい時から師匠んとこで生姜糖とか食べてたしな。今日のは全部懐かしい味がしたぞ」
「ありがと」
 はにかむ彼女が可愛くて、蛇口に伸ばした手を上から握る。水仕事で荒れた手は少しざらりとしていた。
 部員も増えて、練習に幅ができわいわいと先程のように騒げるのは、とても嬉しいことだった。だけどたまに、
彼女と二人きりだった頃を懐かしく思う。
「嵐君?」
「わりい、ちょっとこのままにさせてくれ」
 柔らかく背後から抱き締められた体勢なので、手を離してくれたなら洗い物は出来る。
 甘えっこさん、と笑われても離す気にはなれなかった。かちゃかちゃと食器が触れる音と水音だけが響く。
「ほーら、戻ろ」
 そうやってふきんを絞り、青年の手を軽く叩いた。まだもぞもぞと動きの鈍い彼の方に向き直り、深雪の方か
ら唇を重ねる。
 ちょっと触れて唇をぺろりと舐めると、生姜の味がした。
「部長ォーー帰りまスよーーー」
「嵐さん!深雪さーん」
 野太い声と新名の良く通る声が響くと、一瞬で嵐は表情を引き締め、オウと返事をする。
 まったく、手のかかる人。そう思いながら洗い物を持つ青年の後を追った。

5.他には誰もいないの
三年秋

 部活の色々な申請書類を提出した深雪が教室に帰ると、定期試験対策として特別授業を行っていた大迫と嵐に
かちあった。滞りなく柔道を続けるため、大迫に勉強を見てもらっていると以前彼が言っていた事を思い出す。
「おお、村田」
「オス」
 目を上げて声を掛けてくれる二人に、ぺこりと頭を下げる。とんとんと大迫が教科書をまとめている様子に、
授業の邪魔にならなくて良かったとほっとした。
「じゃ、これが宿題だ」
 一枚のプリントを差しだし教師は席を立つ。立ち上がりありがとうございます、と深々と辞儀をする嵐を満面
の笑みで見つめ、全力なのは良いことだ!と上機嫌に去っていった。
「深雪、今暇か」
「うん」
 手招きをされ、彼の前席に座る。先程貰った宿題をすぐに解くらしい。
「分かんねぇとこがあったら、聞くから」
 かりかりとシャープペンシルを走らせる彼の手元を見つめる。
 三年間同じクラスでも、教室で二人きりになるのは初めてだった。嵐が授業以外で教室にいることはあまりな
いし、深雪は女子生徒同士で仲良くすることが多いからだ。柔道部夫婦と呼ばれているものの、その辺のカップ
ルのように常日頃からべったり、という訳ではない。
「ぃ…おい、大丈夫か」
 物思いに沈んでいた深雪は、軽く肩を揺すられ我に返る。心配そうな表情の青年がじっとこちらを見つめてい
る。
「ごめんね、教室で二人っきりって初めてだなと思って」
「そういやそうか」
 二人一緒にいる時間が長すぎて、気付かなかったなと笑いあう。
「だめだ、意識するとなんかやべぇ」
「へ、あ、そんなこと言うと私も照れちゃうよ…」
 他に誰もいない夕方の教室は、テスト前の部活休止中ということもありとても静かだった。さっきから触れら
れたままの肩が熱い。
 低い声で名前を呼ばれて、そのままくちづけられる。極めて原始的で率直な愛情表現をとる嵐は、したいとお
もったときに、する。今日は比較的分かりやすい流れだったな、と思うこと自体どうかしていると深雪は自己評
価を下す。
「なんか、やらしーな」
 唇を離した青年が至近距離でにやりと笑う。
「嵐くんっ」
 どんどん悪乗りしそうな雰囲気を察し、先制攻撃とばかりに彼の耳をひっぱる。
「あ痛た!」
「喫茶店行こ!そこで勉強教えてあげる!」
 がたんと立ち上がり、恨めしげに見上げてくる視線を無視して深雪は帰り支度をする。しぶしぶといった体で
嵐も立ち上がり、二人は連れ立って帰路についた。



6.指先がちょっとだけ触れた
三年秋

 深雪が自転車に乗り、嵐が走る。それは柔道部を引退した今でも続いていた。最初は二人きり、その後新名や
他の部員が加わり部活のジョギングらしくなって、引退した後の個人トレーニングでまた二人きり。
「どうせ走るんなら、部活のジョギングに入ってくださいよ。嵐さんと村田先輩いると気合が違うんですって」
 新名はそういってくれたけど新しい部長とマネージャーで回りだした部に水を差すつもりはなく、二人は丁寧
に辞去した。
 はっ、はっ、はっ、と極めて乱れのない息を吐いて嵐は海沿いの道を走り続ける。凄まじい集中力を乱さない
よう、そっと深雪は追いかける。一度、私邪魔じゃない?と問いかけたら、絶対にそんなことはないとまっすぐ
な目で告げられた。だから、安心して背中を眺めている。

 不意に先程まで晴れ渡っていた夕空が陰り、ばらばらと大粒の雨が落ち始めた。あちこちで悲鳴が聞こえ、洗
濯物を取り込む主婦や軒下に逃げ込もうとする人々で一時街が騒然となる。
「深雪!こっちだ」
「うん!」
 前方に立派な屋根のついたベンチが見える。それは遊泳シーズンに使われる休憩所で、秋に入った現在では砂
に塗れがらんとしていた。
「はいタオル」
「お前が先に使え」
 即答で断られるのにも馴れた深雪はざっとタオルを使って、青年にもう一度白いそれを差し出す。
「わりぃ、助かる」
 ジョギング中の雨は何度も経験しているので、特にあわてることなく二人は天候の回復を待つ。
「そういえば、一年のときもここで雨宿りしたよね」
「そうだな」
 あの時も激しい雨で、まだジョギングに馴れていなかったから、あわてて雨宿りできる場所を探したのだ。
 深雪がどう思っているのかは分からないが、嵐はそのときのことを鮮明に覚えている。

 ざあざあ降る雨が厚いカーテンのようになり、外から隔絶されて二人きり。とても寒い日だったから、いっそ
雪になれば帰れるのにねと深雪が呟いた。
 白い息が二人分、薄暗い休憩所に漂う。最近ちりちりと感じる、肺を灼かれるような感覚がまた襲い、嵐は胸
に手を当ててはぁと深い息をついた。
「不二山くん、大丈夫?」
 不安そうに見つめてくるその様子に、息苦しくなり俯く。俺の体はどうしたんだろう、と未知の感覚に対処で
きない。ちょっとごめんね、そういわれ熱を測る仕草で彼女の手が伸ばされたから、思わず身を引いてしまい指
先だけが額に触れた。
「お前、指先冷てーな」
 氷のような感触に驚く。
「そう?冬だから仕方ないよ」
 体温の高い嵐は手先が冷えるという感覚が良くわからない。
「…手ぇ貸せ」
「不二山くん…?」
 ざわざわする感覚は抜けないが、冷え切って赤くなった指先を看過できなかった。深雪の手のひらを両手で包
み、熱を分け与える。ぼっと火のついたように赤くなった彼女は、それでも逃げる素振りは見せない。
 息苦しいのと内臓が変なのが酷くなるのに、ずっと雨が止まなければ良いのにと天に願った。

 あのあと、体調不良が深雪を求める欲であると気付くまで暫くかかったなと自省する。
 ふと外を見ると、少しずつ明るくなってきた空が雨の終わりを告げていた。
「早く止んでよかったね」
「そうだな」
 さ、がんばろ!と立ち上がりかける彼女の手をとり、あの時のようにぎゅっと握り締める。きょうは温かいそ
れに安堵する。彼女はへ?と声を上げて、一瞬後に溶ける様な笑顔を見せてくれる。それが愛しくて、強く手を
引いて膝上に抱き締めた。
「あの時もこうしたかったのかもな」
「そうだったの?」
 何だお前覚えてんのか、と照れくさそうに嵐は言う。忘れる訳がないのにと憤るけれど、ざらざらした柔道着
の感触が心地良く、深雪は逃げる気を失った。


7.おまけがもらえた
三年バレンタイン

 一二年生の間で、不二山嵐特攻隊なるものが結成されつつあった。もうすぐ卒業する彼は学校の誰もが知る奥
さんがいて、告白どころかうかつに話題にも出来ない雰囲気がある。
 最後のバレンタインくらいはチョコレートを渡しても良いんじゃないか、だれも明確にあの二人が付き合って
るなんて言ってないんじゃないか。
 それをポリシーに、十数人の女子が集まった。本人に女っけはないが、精悍な容姿と今時珍しい亭主関白な性
格を好む女子は結構いるのだ。

「おい、新名ちょっと良いか」
 二年の教室に顔を見せた嵐に、新名は驚く。
「お久しぶりっス、嵐さん」
 廊下に出ると、嵐の手には大きな紙袋が提げられていた。中にはきれいなラッピングかかなり入ってるようだ
った。
「嵐さん今年モテモテ?」
「ああ、なんか知んねーけど」
 机に靴箱、置いていた鞄の中や脱いだジャージの下等に置いていかれたらしい。
「深雪さんから隠すんスか」
「いや、同じ教室にいるから隠しようがなかった」
 それもそうか、と新名は納得する。
 深雪の目前においておくのには忍びないし、嵐の性格上食品を捨てるのは嫌だ。だから、柔道場に置いてもい
いかと新名を頼る。
「いいっスよ、練習にも顔だしてください」
「すまん」
 そういってくたびれた様子の青年は去っていく。ご愁傷様、と手を合わせ振り返ると、顔も知らない女子がき
らきらした目で新名を見ていた。
「そういえば新名君柔道部だったよね!これ不二山さんに渡して!」
 ぎゅうと押し付けられて、走り去られる。
「おいおいおいおい!」
 追いかけようにももう姿が見えない。バレンタインの女子、恐るべしだ。

「すごいねぇ」
 柔道場に正座した深雪は、あふれる包みに心底感動している。ここまでもてているとはと改めて感心している
風だ。
「余裕っスねえ」
 その横にいる新名は別の意味で感動する。普通は好きな男が他からチョコを貰ったら怒るんじゃないか。
「だって嵐君が褒められてるみたいで、うれしいの」
「はぁ…」
 旦那の昇進を喜ぶ妻だ。馬鹿ではないし鈍感でもない彼女は、きっとこのチョコレートの意味を知っている。
高校の思い出として、叶わなかった恋心を葬るためのチョコレート。嵐の人望と魅力の写し鏡。だから、ひがむ
ことのない新名の前で喜んでいる。
「はい、新名君に」
「ありあーっす」
 量の多いチョコブラウニーを差し出される。他の部員が貰っていたチョコフレークよりちょっといい品に、ほ
んの少し心が痛む。
「ごめん、待たせた」
 柔道着で戻ってきた嵐の手には又新しい包みが握られている。
「うーッス、じゃ、練習はじめ!」
「オス!」
 新名の号令で、乱取りが始まった。

「そういや嵐さんはもう貰ったんですか」
 帰る道々これ深雪さんに貰ったんですよーとひらひら見せ付けた後、ブラウニーを齧りながら新名は問う。
「いや、まだだ」
「マジですか」
 マジだ、と応えながらも嵐はニタリと笑っている。
「あ、あーはいはいこれからデートですねわかりますぅー」
 まだまだ学校を出たばかりで、柔道部は団子になって歩いている。深雪は後ろの方で一年と話していた。
「あーもうつまんないこと聞いちゃった、っと」
 ちょっと拗ねた様に新名が大またで歩き、つまんないこととは何だとふざけて嵐がその後を追った。

 親は二月十四日に法事で田舎に出向くと言った。不二山家の祖父は、嵐と入れ替わりのように亡くなったと聞
いているから、約十八年前に亡くなった人だ。そんな故人に格別な法事など早々あるわけでもない。高校最後の
バレンタインを迎える息子を、自由にさせようと気を使ったのかもしれなかった。
 一旦家に寄って晩御飯を持ってきた深雪が、テーブルにそれを並べる。よその台所を汚すのは気が引けたらし
い。ご飯と焼き魚をレンジで温めて、鍋ごと持ってきた味噌汁をコンロにかけた。
 ダイニングのテーブルに『使って下さいね』という流暢な女手のメモと一緒においてあった割烹着を身に着け
て、きびきび動く彼女は見ていて気持ちのいいほどだった。
「ごめん、お待たせ」
 ぱたぱたと急須とお茶缶まで用意して、深雪は席に着いた。
「いや、大丈夫だ」
 部活を終え、色々と準備をしていたからもう夜の十時近くになっている。しかしそれほどの飢えを覚えないの
は、心が満たされているからなのかもしれない。
「あっためごはんでご免ね」
「いや美味そうだ。頂きます」
 頂きます、と二人で手を合わせる。沢山の具が入った味噌汁を一口飲んで、少しアジの開きを食べる。両方と
も家庭料理の味がした。
「お味噌汁、口に合う?」
「うまい」
 そう、と嬉しそうに笑い、彼女はきれいな箸使いでアジを解していく。特に会話はないものの、穏やかに食事
は過ぎていった。お代わりを頼んだ嵐が食べ終わるのを、深雪はニコニコと台所から見つめている。
「ご馳走様」
 舐めたように綺麗に食べ尽くした食器を持ち、嵐は流しに立つ。
「お前も疲れてんだろ、片付けは俺がする。風呂ためてあるから入って来い」
 食事の準備を待つ間に湯を張っていた。温度調節が出来る風呂釜だから、すぐに入れるはずだ。
「私が先に入っていいの?」
 驚いたようにこちらを見てくる彼女に、はっきりと頷きかえす。恐縮する体を半ば強制的に風呂に放り込んで、
嵐は時計を見やる。今日、は後一時間もない。去年も一昨年も手作りだというチョコを学校で貰った。今年も同
じように貰えると思ったのだが、そうではないらしい。
 もしかしたら、己が山ほどチョコレートを貰ったから怒っているのかと思考がネガティブに傾く。頭を振って
黙々と洗い物を済ませ、一息つく頃に深雪が風呂から上がってきた。
「おまえその格好…」
「ど、どうかな。家で着てるパジャマとか合宿のジャージじゃいまいちかな、と思って」
 旅館での就寝スタイルを真似たのだろう、少し色のあせたあさがお柄の浴衣を、細い帯紐で留めている。今す
ぐにでも抱き締めたいが、多分止まらなくなる。
「俺、ざっと風呂入ってくるから。部屋で待ってくれ」
 そう言うと深雪は露になっている首筋まで赤くして頷いた。

「待たせたな」
 そういって入ってくる嵐は半裸で、柔道着で見慣れているはずなのにどきどきしてしまう。
 床にぺたりと座り込んだ深雪は、お盆に小さな器を置いていた。
「今年は、プリンなの」
 チョコレート色のふるふる揺れるそれには、茶色と白の二色の生クリームが添えてあった。折角家に行くのな
らと、学校で渡すのは無理なものを作ったのだ。
「今年はもらえねーかとおもって、ちょっとドキドキした。ありがとな」
 頂きますと言ってそれを食べようとするも、匙や箸が無い。
「深雪、スプーンあるか?」
 そう言うと、彼女は後ろに回していた右手を差し出した。その手にはスプーンが握られている。
「あ、嵐君っ。あーん!」
 そのままプリンを掬って、彼の口元に運ぶ。照れるかなと思って仕掛けたが、やはり彼は手ごわく真顔で匙を
銜えられた。
「うん、うまい。もっと」
「ううっ、もうっ!」
 やけのようにそれを繰り返すと、あっという間にプリンは無くなった。
「まだ冷蔵庫にあるから、食べる?」
「いや、いい。うまかった、ごっそさん」
 そういわれるや否やキスをされる。甘苦くて冷たい彼の舌は気持ちよく、すぐに深雪は夢中になった。
「なぁ、今のはオマケだろ」
 そのまま抱えられるようにしてロフトベッドに転がされる。
「へ」
 押し倒す青年は、少女の首筋をべろりと舐め甘く噛んだ。
「いただきます」

「やだ、そんなんじゃないのよっ」
 私を食べてなんて、そんな恥ずかしいこと出来る訳が無い。でもよくよく考えると、状況的には十分そうとも
取れる。
「なんだ、俺はは最初からそういうつもりだって思ってたけど」
 苛めるようにそう言う彼は、意地悪な顔をしている。その手は容赦なく帯紐を解き、浴衣をはだけさせた。
「余計な包装がなくていいな」
 チョコレート云々は別として、する気はあったから下着はつけていなかった。
「や、ん」
 ふるんと上を向く大振りな胸を指で軽くはじくだけで甘い声が漏れる。
 高校生の時分ではそういう事はしないと思っていたが、もろい理性があっさり崩れたのが去年の夏。まあ、そ
れから何回か、した。そのうちでも今日は、嵐の精神に妙に余裕がある。
 ぱくんと胸の先端を銜えてもくもぐと噛んでやると、やだぁと声が上がるが無視する。思う存分感触を楽しん
だ後、既に充血しているもう片方の乳首には触らず、柔らかな乳房を食んだ。
「あっ、っぅん」
 もどかしさに、深雪の体がゆれる。ぎゅうとシーツを握り締める手が震えていた。それでも責めをやめず、そ
のままつうとやわらかな腹まで舌でなぞり、そこ一帯にキスマークを付ける、それに飽きると、深雪の体の柔ら
かそうな所、二の腕やわき腹などをあまがみしていく。
 そして耳を食んで、すっげえおいしいと囁いてやると、面白いくらいに体が跳ねた。
「いじわる…っ、嵐君のばかぁ…」
 まさに、食べられている。その行為が深雪の体を熱くする。これでもかと言うほどに噛まれ、キスマークを付
けられるのが嬉しいだなんてどうかしている。
 直接的ではない刺激に身をよじる彼女は、壮絶に色っぽかった。清楚で皆のおかあさん、と言われる深雪が堕
ちる姿に、どうしようもなく煽られる。
 お互い初めて同士だったが、体の相性が良かったのか快楽を得ることが出来た。汗みずくになって悪戦苦闘し
ながら初めて繋がったときの事は、よく覚えている。それから二人はずぶずぶと行為にはまって行った。
 ベッドの隅に追い詰めて、足を開かせる。やだ、見ないでと暴れるからだを押さえつけて奥に潜む紅さを露出
させ、迷わずそこに顔を埋める。
「ふぁあああっあああぁあっ!やぁっ!駄目、ダメぇっ!」
 じゅるじゅると厭らしい音を立てて吸われ、食まれ、舐られ、甘噛みされる。どくどくと恥ずかしい汁が溢れ
て、体が重くなる。
「深雪…!」
 半ば意識を飛ばしている彼女を抱き締め、すっかり我慢の限界に近くなっている自身を擦り付ける。すると誘
うように腰がゆれ、きて…と小さな声が聞こえた。

「はっ…イイのっ…気持ち…イ…あぁっ」
「俺も、スッゲー、いい」
 一度達すると、深雪は存外従順で饒舌になる。それが又、イイ。何度か、言いたいことははっきり言え、と言
っただけでこうなった。
 ベッドに縫いとめた身体は嵐が腰を押し込むたびにひくひく痙攣して、中はぎゅうっと締め上げてくる。
「もっ…イ…嵐く…、私…イッちゃうのっ」
 舌ったらずに絶頂を願う声が嵐を煽る。ジュブジュブ水音を立てながら、さらにきつくなったそこの締め付けに
逆らい膣の最奥まで肉欲を注ぎ込むように腰を叩きつけた。
「あんっ、やあぁああ!」
「っ、みゆき、みゆき…」
 ゴム越しに流れる熱さに、深雪の意識は絶頂の先へと突き落とされた。

 風呂の残り湯で作った暖かな濡れタオルで体を拭いてやり、今度は嵐が深雪にプリンを食べさせている。恥ず
かしいからやめて、と言いながらも舌をちょっと出して開く唇に、スプーンを押し当てる。
「食べ終わったら、も一回な」
 いいだろ、と大型の犬のように胸に懐く、甘え上手な恋人の頭をがしがしと撫でる。
「だめって言ってもするんでしょ?」
「本当に嫌なら、しない」
 そうやってしゅんとするのも、ずるい。断れなくなってしまう。

 もうすぐ、想像以上に沢山の思い出が詰まった高校生活が終わってしまう。部活を立ち上げて、引き抜きなん
て事もあって、可愛い後輩たちにも恵まれた。そして何より、傍に大切な人がいる。
「深雪、ありがとな」
「ん、なあに?」
 いや、なんでもねえ、と嵐は首を降る。これは卒業式に伝えるべきことだ。今はただ、伸ばされた彼女の腕を
取って、もう一度ベッドに沈むべきだろう。
 お互いに小さく名前を呼んで、また甘苦いキスをして、ふたりきり夜に沈んだ。


日頃の小さな幸せ七題/ラルゴポット



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