■再会の春

 十年程ぶりに見るはばたき市の町並みはとても懐かしく、さくらの心を浮き足立たせた。生まれてから小学校
低学年までを過ごした街。その後は父親の都合で各地を転々としていた為、一番思い出が濃い街だ。
「さくらにはすまないことをしたね。もう、引越しはしないから」
 高校受験の歳に父親からそう言われ、さくらは明るく答えたものだ。
「ううん、大丈夫。それより私、はばたき市に戻れる事が嬉しい!」
 やっと地に根を下ろした生活が出来る、ということで可愛い家具やカーテンを揃えたり、近隣のお店をチェッ
クしたりとうろうろしていると、あっという間に入学式の前日になっていた。
 学校が始まったら忙しくなるだろう、と最後にゆっくり散歩することにして、幼い頃の記憶を辿って海沿いの
道をゆっくりと歩く。
「変わってないなあ…」
 綺麗な海が光って、かもめがのんびりと飛んでいる。あちこち暮らしたが、山も海もあって商業施設や公共の
施設もふんだんなはばたき市ほどよいところは他になかった。
 幼稚園のスモックを着た小さな自分がほてほてと歩いていく様子が目に見えるようで、その背中を追いかける
といつの間にか林の中に迷い込んでいた。
「ん…、と」
 見覚えはあるが、どこだかわからない場所にさくらは困惑する。引き返した方が良いのかも知れないが、奥に
向かって駆けて行く幼い記憶に引きずられ、ふらふらと足を進めた。
「わぁ」
 暫く歩くと急に視界が開け、古い教会がひっそりと建っている場所にたどり着く。夕方の鈍い光と陰に彩られ
たその場所はまるでこの世のものではないようで、思わず立ち尽くしてしまう。
 何故だか懐かしいその場所をぐるりと歩き、小さな花を踏まないように教会へ近づくと、不意に人影が現れび
くりと竦んでしまう。
「まだ、ドアは開かないよ」
 先程さくらが踏まないようにと避けた花が咲く辺りに、いつの間にか白衣の男性が立っていた。恐ろしく整っ
た顔立ちに、長身。長髪を無造作にくくって、耳にはピアス、複数のごつい指輪と全く職業不明な男に、さくら
はすっかりおびえてしまう。
「ぁ…あ」
「…ごめん、そんなに怖い?」
 大股で近寄ってくる彼に、へたっと教会の前に座り込んださくらはかたかたと震える。
 目の前まで来た男にぎゅうと目を瞑ると、わしゃわしゃと頭を撫でられる。妙に懐かしいその感触に、おずお
ずと視線を上げると彼はくしゃりと笑っていた。
 その顔に、見覚えがあった。
「覚えてないかな?さくらちゃん。るかおにいちゃん、だよ」
「あ…!」
 幼いさくらとよく遊んでくれた、優しいお兄ちゃん。近所に同い年くらいの子が居ず、夕方はいつも一人遊び
をしていたさくらをよく構ってくれたひとだ。
「わ、わぁー!懐かしい…!うん、覚えてるよ!」
「俺もさっき見かけて、まさかとは思ったんだけど。可愛くなったね」
 さらりとした褒め言葉に、少女は真っ赤になる。そんなことはない、童顔で、はばたき学園の制服を着てもと
ても高校生には見えないと両親に笑われたのだ。
「えと、あの…」
 それに引き換え、彼はとても格好良くなっている。
 記憶にある中学の学ランを着ていた姿も素敵だったが、目の前の男は非常に綺麗だ。確かに商売不明な怖さは
あるものの美形の一番上に属すると思う。
「もしかして、はば学に入学するの?」
「は、はい。あしたから…」
 年齢を逆算したのだろう、目を見開いた彼は更に嬉しそうに笑った。
「俺も、明日からはばたき高校に行くんだよ」
「へ?でも…」
 確か、さくらが小学校に入る歳に彼は学ランを着ていたので、六つ以上違うはずだ。
「桜井先生じゃなくて、るかおにいちゃんって呼んでくれた方が嬉しいんだけど」
「え、えー!ほんとに?わぁ!」
 新しい土地での進学に対する、いくばくかの不安がふっと軽くなる。

「るかおにいちゃんが居るのかぁ…、えへへ」
 十年ぶりに聞くその声と呼称は、琉夏の胸に深く印象づいた。彼女は恐らく無意識に口にしたのだろうが、一
瞬息が止まるほど琉夏の心を揺さぶったのだ。
 目の前の少女は、あの頃といささかも変わらず純粋で、やや幼いと言えるほどにまっすぐだ。恐らく、引っ越
した先でも穏やかに愛されて育ってきたのだろう。
 ふと琉夏は、自分を省みた。

■孤独と自立

 十数年ほど前。
 猛吹雪の中、熱を出した琉夏を病院へ連れて行こうとして起きた、最悪の事故。ガードレールを突き破って落
ちた崖の下で、一晩中暗闇と寒さに耐えた後、朝の薄闇の中で見た絶望。未だに夢に見る、ぐちゃぐちゃに潰れ
た車に挟まれ、血まみれの手しか見えない父親と自分をかばうように事切れた母親の姿。
 助け出された後も、一切の感情を無くした琉夏は呆然と病院のベッドに横たわり、桜井の家に引き取られた後
も、閉じこもって人形のように過ごしていた。
 桜井のおじさんもおばさんも優しく琥一も何かにつけ構おうとしてくれたが、琉夏には何も届かなかった。頭
の中はぐちゃぐちゃなのに真っ白で、自分が生きている実感が湧かない。向けられる優しさが、それに応えられ
ないことがただ辛かった。
 ある日、琉夏は何となく桜井家の庭に出て水撒きをしていた。亡くなった母が植物が好きな人で、よく花の世
話をしていたから琉夏も手伝いのやり方はわかっていた。
「サクラソウは、妖精の鍵…」
 心に思い描く人の所に連れて行ってくれる、そう言っていた母親を思い出し、ぼろぼろと涙がこぼれた。
「おにいちゃん、どうしたの?」
 不意に舌ったらずな声が聞こえて、琉夏はばっと顔を上げる。くりっとした目の幼稚園位の女の子が、門から
琉夏を伺っている。
「いたいいたい?」
 自分も痛いかのように眉をハの字に下げて、覗き込んでくる女の子に琉夏は涙をごしごしと拭いて、無理に笑
顔を作って見せた。久しぶりに笑顔を作ったからか、顔が引きつって痛い。
「めーよ」
 とてとてと琉夏に近づき、背伸びして手を伸ばす彼女に合わせてしゃがむと、頭をぐりぐりと撫でられる。
「何がダメなの」
「いたいのめーなの。いたいの、とんでけー!」
 無理に笑ったことを見透かされたかのような行動に、琉夏は心底驚く。
「さくらー!さくら、どこ?」
「おかーさん!」
 現れた女の人は少女―さくらという名前らしい、を抱き上げると、琉夏に頭を下げる。
「ああ、もう。あ、ごめんなさいね、さくらが何かしなかった?」
「いいえ、何も」
「そう、なら良かったわ。さくらが一人でどこかに行くなんて、珍しくてびっくりしちゃった」
 優しげな女性は、きょとんとする娘を見て苦笑する。
「あの、ウチの琉夏が何か」
 玄関先での騒ぎを聞きつけたのだろうか、桜井の母が玄関から出てくる。
 ウチの琉夏。なんの衒いもなく、そう言ってくれる事が嬉しくて、でもそれを受け入れることの出来ない自分
もいて、琉夏は顔を伏せて庭に逃げてしまう。
「あ…琉夏…!」
「ルカ君、あんまり元気になりませんね」
「はい…、でも今日さくらちゃんと初めてお話出来て、琉夏の笑顔なんていつ振りでしょう…、ああ」
 目元を押さえて言葉を詰まらせるご近所さんに、さくらの母は一つの提案をした。
「さくら、夕方は構ってくれる人がいなくて暇なんですよ。もし良かったら、琉夏君が面倒見てくれると助かる
んですが…」
 人見知りがちなさくらが、自ら話しかけたのだ。それに、桜井の琥一君はちょっとやんちゃだが良い子で、ル
カ君だってそう悪い子には見えなかった。
「そう…、そうですね。私も家に居りますし、もし良ければ、さくらちゃんに遊びに来てもらえますか」
 かくして、さくらと琉夏は遊び友達になったのだ。小学校高学年と幼稚園生という組み合わせだったが、思い
のほか仲良く二人は一緒に居た。花の手入れが主で、たまに絵本を読んだりおままごとに付き合ったりと、すこ
しずつ琉夏は平穏を取り戻していった。

 そして季節が二つ回るころには、琉夏はさくらと琥一と駆け回ることができるようになっていた。
「おい、俺も混ぜろ!」
「やだ」
「るかおにいちゃ、こうおにいちゃ、けんかしないで!」
 ちいさなさくらを抱っこした琉夏が、追いかける琥一からけらけらと笑いながら逃げる。その様子を見て、も
う小学校にも戻れるなと桜井の両親は心底安心したものだった。
 しかし、その安心は長くは続かなかった。
 休学していたにも拘らず、頭もよく運動神経の良い琉夏はあっという間に目立つ存在になる。小学校六年生と
いう敏感な年頃のクラスメイト達は、彼を嫉み、または憧れ、様々な感情が彼を渦巻いた。
 が、琉夏はそれらを物ともしなかった。さくらと琥一が居れば彼は特に何も欲しなかったからだ。琉夏が中学
に入学すると、さくらはランドセルを背負って小学校へと通い始めた。生活のリズムがかわっても休日や擦れ違
った時に懐いてくる彼女に、琉夏は精一杯構った。
 だが、別れは突然にやってきた。
「るかおにいちゃん、あのね、さくら引っ越すの」
「え?ホントに」
 ランドセルをぎゅっと抱き締めて、涙目で見上げてくるさくらに、琉夏は動揺する。えぐえぐ泣き始める彼女
を撫でながらも、驚くほどに開いた胸の穴に、琉夏のほうこそが号泣したい気分だった。
 中学生にもなって小学校の女の子がいなくなるから泣くなんて、とは思う。しかし、さくらから向けられる無
垢な好意と笑顔に自分がどれほど支えられていたのか、と視界がぐらぐらする。
 何より愛しいものは、いつでも唐突に奪われてしまう。薄れたはずの深い絶望が、琉夏の心を黒く塗りつぶす。
 それでも、約束を。
「さくら、これなんだ」
「う…ぐす…、さくらそう?」
 よく覚えてたね、と頭を撫でると泣きながらも彼女は少し笑った。
「これは妖精の鍵なんだ、心に思い描く人の所に、きっと連れて行ってくれる。覚えておいて」
「うん…」

 少年から青年に成長しつつある琉夏には絶望と孤独を埋める術が、幾らかあった。しかし無理に酒を飲んでも
気持ちが悪くなるだけ、煙草は体質に合ってないらしく匂いが耐えられなかった。ふらふらと遊び歩くうちに声
をかけてきた女性にセックスを教えられたが、肉体的には気持ちが良くてもむなしさが増すだけだった。引越し
の当日に抱き締めたさくらの体温の方が、よほど心地よかった。
 自然と喧嘩ばかりするようになった琉夏は、自分を痛めつけるかのような行為を繰り返した。
 しかし、死んでも良いが、死ねば桜井の両親に不義をすることになるし、彼らは惜しみなく琉夏に愛情を与え
ていてくれたから申し訳ないと思えた。琥一も、真っ当な道を放り投げてまで琉夏に付き合ってくれている。
 だが、琉夏はその愛情に応えることができなかった。そんな自分に更に嫌気が差して、無茶ばかりした。

 はばたき学園に入学したのは、ほんの気まぐれ。学力に不足のない琉夏はどこにでも入学できたから、しがら
みのない所にしようと思っただけだった。
 無理を言って桜井の家を出た時は、正直開放感があった。よく他人が言うような、遊びたいから、勝手がした
いから出た訳じゃない。彼らの思いやりから、離れたかったのだ。
 最低限の学費と、家賃の免除。桜井からの援助はそれだけで、あとは己で稼いで高校生活を送る。
 色々バイトを見繕った挙句、花屋に決めた時には琥一に驚かれたものだ。そんなファンシーな所にすんのか、
と。理由は花が好きだということもあるが、店長に直訴した所、早朝の仕入れから放課後夜遅くまで働けるだけ
働かせてくれるという約束になったことが大きかった。

 三年間、色々な事があった。特に大迫と氷室、それに理事長には沢山迷惑をかけたがその分教えられることも
多かった。
 事あるごとに琉夏を構う教師達を、最初は疎ましく思ったものの彼らなりの距離で気をかけてもらっているこ
とに気付いた時には、愕然としたものだ。鷹揚な理事長の元、こういった距離感で過ごせるのなら、と琉夏は教
師を目指した。アンネリーでの経験から、働いて自立する喜びと自由を知ったのでそれなりに頑張って大学に通
い、教員免許を取ったのだ。

 そして教師生活が本格化する前日、琉夏の足は桜草の咲き乱れる教会へと向かった。
 意外と真っ当な人生を歩みつつある自分に少し笑いながら、しゃがんでサクラソウを摘む。約束の鍵は、だれ
も連れてきてはくれない。両親は勿論、あの子ももう二度と会えないだろう。琉夏の心を唯一癒した幼い娘。
 しかし、奇跡は起きた。

■それが恋になるまで

「さくらは、いつこっちに帰ってきたの」
「一週間前かなぁ…、あ、お家は前と一緒だよ」
 又海沿いの道を、今度は二人で歩く。長身の琉夏はさくらに歩調を合わせてくれているのか、歩くのに違和感
がない。
 かっこいいし、自然とそういうことが出来るし、もてるんだろうなあ、彼女とか、居るのかな。そんな思いが
むくむくと湧いてきて、さくらの頬が熱くなる。友人に幼い幼いと言われるくらい、さくらは初心だった。初恋
もまだというレベルなのに、琉夏の左薬指を見たり恋愛関係をもやもやと妄想したりしてしまう。
「それにしても、さくらは変わらないね」
「るかおにいちゃんはすっごく格好良くなったね!」
 即応するさくらに、琉夏は一瞬面食らってぷっと吹き出した。
「え、なんで?何で笑うの?」
「素直だね―くく、ふっ」
 くすくす笑う琉夏に、ぷうと膨れたさくらはべちんと琉夏の手を叩いた。再会して直ぐなのに、なんの衒いも
なくこういうやり取りを出来ることが、二人の絆を現しているようで嬉しくなる。
 べちべち叩いていると、不意に手を握られて引かれる。昔よくやっていた事だが、なぜだかさくらは頬が熱く
なるのを感じた。
「帰ろう、さくら。おばさんにも会いたいし」
 夕日の中で微笑む琉夏が、初めてあの頃の面影と被る。寂しそうに笑う様子に、胸が締め付けられるようだ。
「うん…」
 手を繋いだまま、さくらの家まで帰る道は長く、長く感じた。

 だが、さくらが琉夏と昔のように過ごせるチャンスは、入学と共にぱたりとなくなってしまった。
 はばたき学園に就任した琉夏は、その容姿と懐っこさ、気安さであっという間に大人気となったからだ。廃墟
寸前だった地学資料室にはいつも生徒が集い、女子の間では琉夏先生ファンクラブのようなものまで出来上がっ
ている有様だ。
 元々、それほど激しい気性ではないさくらは、彼女達を押しのけてまで琉夏と接触する力はない。しゅんとな
りながらも遠目に琉夏を見つめては、はぁと溜息を吐いてしまう。
 かたおもい、なのかな。
 最近、そればかりが頭をぐるぐる回る。
 好きだとか告白とか、ましてやカレシカノジョだとかさくらには全く解らないが、琉夏ともっと話したい傍に
いたいという気持ちは募るばかりだ。
 入学式前に手を繋いで歩いた時のドキドキが、今も残っている。
「ルカセンセーマジいいんですけど!」
「彼女居ないらしいよ?」
「マージで?」
 そんな会話にも聞き耳を立てて、何となく彼女がいたらいやだなあ、と思ってしまったことにびっくりしてし
まう。自分と琉夏ではとてもとても釣合わない事に気付いてからは、気安くるかおにいちゃんと近づくことも出
来なくなってしまった。幼稚園の時と全然変わらないさくらと、素敵な大人になった琉夏は余りにもちぐはぐに
思えてしまう。
 たまに家の近くで会う時の態度で琉夏がさくらのことを昔と同じように思ってくれているのは解るのだが、そ
れでは足りないと思ってしまう自分に、さくらは腹が立った。
 妹でも、十分すぎるのに。
 地学の授業中も、あまり琉夏のほうは見ずに教科書ばかり見つめることが多くなった。
 ふと、返却されたさくらの地学ノートに小さな紙片が挟まれている事に気付く。これは琉夏が良くやることで、
さくらへの何てことないメッセージが書いてあることが大概だった。
 紙片を開くと、最新情報!と書かれた文字の下に、課外授業やるよープラネタリウムだ!と赤字で書かれ、日
時とお星様らしきものが書かれていた。
 課外授業とはいえ、学校の外で日曜でも琉夏に会えることがうれしくて、さくらはおもわずにこ、と笑ってし
まう。さっそく、ぜひ参加しますとノートに返事を書きふっと顔を上げると、偶然琉夏がこちらを見ていて赤面
してしまった。
 そんなさくらの様子を見て、琉夏は口元を緩める。何となく最近、さくらと疎遠になってしまって寂しいと思
っていたのだ。彼女はこちらをぼおっと見つめていることが多いのに、琉夏が目を合わせるとぷいとそらしてし
まう。声をかけようにも、他の生徒がまとわりつく間に彼女は去ってしまう。
 これは何か手を打たなければ、と思いついたのが課外授業だった。生徒を嫁にした先達の氷室に脅迫…いや、
アドバイスを貰って思いついたのだ。

 かくして、日曜。
 プラネタリウム前に集合した琉夏が受け持つ地学クラスの面々は、わいわいと和やかな雰囲気で屯していた。
「琉夏先生遅いね」
「ヒムロッチにチクっちゃおうか」
 きゃらきゃら笑う同級生達に、さくらはちょっといらいらしてつい琉夏を庇うようなことを言ってしまう。
「でもまだ、ほら時間じゃないし…」
 腕時計の長針が12を指すまであと数ミリ、という時、ばたばたと走ってくる音が聞こえた。
「センセー遅いぃー」
 盛大なブーイングにも悪びれた風のない琉夏は髪を軽く直してにこりと笑う。
「走ってきた人はセーフ、ね?」
 なにそれ、とどっと沸き起こる笑いに関係のない道行く人々も笑顔になっている。本当におにいちゃんは人気
者なんだなとさくらは少し寂しくなって笑えない。
 最近ずっとそうだ。琉夏のことを独り占めしたいのか、昔のようにさくらだけのお兄ちゃんであって欲しいの
か、皆と一緒に笑うことが出来ない。そんなどろどろした自分が嫌で、泣きそうになってしまう。
「さ、この辺に適当に座って。終わったら外に集合な。なんか飲みたい奴は自分で買って来い」
 凄まじい適当さだが、そこははば学生である。それなりの行儀のよさで、他人に迷惑をかけることはなかった。
やがてブザーが鳴り、照明が落ちる。
 プラネタリウムなんて、何年ぶりかな。そう思いながら意外な面白さにさくらは夢中になる。だから、隣に誰
が座ったかなんて気にしていなかった。
「…さくら」
 だから、低く小さな声にびくっとしたのだ。太股の上に置いた手に、大きな手が触れる。柔らかく握りこまれ
てその温かさに、心臓が飛び出しそうになる。
「お、おにいちゃ…」
 どきどきで心臓が破裂しそうだなんて、生まれて初めてだ。もう放送なんて聞こえない、ただ柔らかく握られ
た手のひらだけが世界の全てになった。
 すき。おにいちゃんのことが、だいすき。
 思考が幼いさくらにも、今はっきりと解った。ほかのひとにあげたくない、独り占めしたい、もっとそばにい
たい、沢山お話をして、過ごしたい。
 そう思うとむねがぎゅうっとなって、涙が出てくる。るかおにいちゃんはもう皆の琉夏先生なんだし、多分学
校の外にも沢山の知り合いや恋人がいるのだろう。
 この恋は、かなわない。

■誰にもあげない

 本当にさくらは、純粋なのだろう。
 ノートでのやり取りや彼女が自分を見る仕草で、好意を向けられていることははっきり解っていた。しかし手
を握ったくらいで泣かれるとは思わず、少し琉夏は動揺してしまう。
 初心な女子高生一人、陥れて自分のものにすることは容易い。しかし、彼女を大切にしたいと思い自重してい
るのだ。己も高校時代に色々と経験したことが、現在の礎となっている。
 彼女が俯き、ぽろぽろ零す涙が青白いプラネタリウムの光にきらきらと反射して綺麗だ。
 少しだけ、距離をつめても良いのかも知れない。
 琉夏は、小さくちぎったメモに携帯のメールアドレスを書いて繋いだ掌にしのばせた。

「じゃあレポート書いて今度の授業の時提出な、はい解散ー」
 ぞろぞろとロビーに集った生徒達は、またぞろ適当な琉夏の指示にはーいと声をそろえて返事をした。
「琉夏ちゃんセンセー、またどっか連れてってよー」
「こんなゆるゆるならいつでもOKって感じなんだけど」
 ばらばらと歩き出す生徒のうち、派手な女子の何人かが琉夏にまとわりつく。普段ならそれを嫉んでしまうさ
くらだったが、今日は違った。
 触れた手が熱いのはもちろん、こっそり渡された大事な紙片が頭をぼうっとさせる。
 琉夏が何を思って渡してきたのかは解らないが、特別扱いなことは確かだ。
 ふわふわと家に帰り着くと、早速メールが着信していてぽとりと携帯を落としそうになる。自室に駆け込み、
ベッドに倒れこんで携帯を開く。
『プラネタリウム、楽しかった?今度はどこが良い、リクエスト聞くよ』
 デートの後、おにいちゃんはいつも女の人にこんなメールを送るのかな、なんて思いながらも湧き上がる嬉し
さにごろごろとベッドを転がる。
 はやく、返事を送らないと。でも、お付き合いなどしたこともないさくらは、なんて返したら良いのかさっぱ
り解らずにまた泣きそうになってしまう。
『すごくたのしかったです!今度は植物園とかが良いとおもいます』
「う…」
 小学校の作文のような文章しか打てず、ぐっとつまってしまう。でも、何度考えてもこれ以上の文章が浮かば
ず、えいと送信ボタンを押した。

 そうして、ほんの少しずつ二人はメールを交わすようになった。生徒と先生という立場が抜けないさくらを、
昔のような関係に戻したくて、メールでは琉夏はおにいちゃんとして接する事に決めた。
『もうすぐ、文化祭の準備が始まるね』
 秋も深まってきた頃、ふと琉夏はそうメールを送った。彼女のクラスは何をするのだろうか。
『そうですね!はば学の文化祭は派手みたいなので、とっても楽しみです!うちのクラスは喫茶店をやるみたい
なんですけど…、わたしにウェイトレスなんて出来るかな?』
 困ったような彼女の顔が見えるようで、少し笑う。確かにちょっとにぶい彼女は、機敏な接客などは無理だろ
う。
『さくらのエプロン姿、見に行くよ』
『なんでそんなこというんですかー、はずかしいですー』
 泣いた顔の絵文字がついた返事は、本気で困っているようだった。

「おかえりなさいませご主人様ぁ〜」
「は…」
 あちこちの出し物に誘われてはいたが、とりあえず琉夏はふらふらとさくらのクラスの喫茶店へ向かった。己
が高校生だった頃の喫茶店を想像していた男は、しかし出迎えたさくらの格好に驚いてしまう。
「うぅ…、あんまり見ないで〜」
「メイドさんだ」
 ふりふりのスカートとえりぐりの大きく開いたエプロンドレス、ニーソックスにヘッドドレスと凝りまくった
衣装が、彼女にとてもよく似合っている。
「あ、琉夏せんせー!」
「どーぞどーぞ!」
 生徒が中から呼ぶ声にやっと我に返り、琉夏は席に着く。
「さくらちゃん超可愛いっしょー、花椿さんが会心の出来だって」
「集客効果バツグン!ドジでロリかわいいメイドがいるって評判なんスよ」
 口々に自慢する彼らの話もそこそこに、さくらの様子を伺う。懸命にとてとてと接客をする姿は、確かに非常
に愛らしい。
「ひぁ!」
「おっと、お客さん。メイドには触らないでくださいね」
 そのやり取りがカチン、と琉夏の心に引っかかる。さくらも客もクラスメイトも、皆笑うくらいのおふざけだ
ったのだろうが、ひどくざらついた気分になる。
 琉夏の後ろをついて回っていた小さな女の子のイメージが抜けないが、彼女にも彼女の世界があり、あれほど
可愛ければ彼氏の一人や二人は出来るだろう。それは琉夏自身も望んだことではなかったのか。
 誰にも、渡したくない。
 誤魔化し続けた本音が露呈し、静かに広がっていく。触れるな、汚すな、彼女は俺のものだ。

「昨日は凄く可愛かったね」
「るかおにいちゃんまでそういうこと、言うの?」
 文化祭の片付けを午前中に済ませ、さくらは誘われるまま琉夏の後ろをついて歩いていた。私服だから、生徒
と教師には見えず、まさに兄妹のようだと思う。
「あれ、恥ずかしいのに、可愛いからってカレンがファッションショーにまで引っ張り上げて大変だったの」
「そう」
 知っている。その後、あの可愛い子は誰だとちょっとした騒ぎが起こり、更に琉夏をイライラさせたから。
 お昼ごはんを奢ると言ったら素直についてきたさくらを先導して、海辺を歩く。
「ここに今住んでる」
「だいなー、うえすとびーち?」
「そ、コウが持ち主なのに、家賃取るんだ。けちだと思わない?」
 そう言うと、さくらはくすくす笑う。紆余曲折あった後、現在桜井組で働く琥一はさくらのことを今もチビ呼
ばわりしては可愛がっている。
 きい、とドアを開けると、元レストランの内装と長年琉夏が住み着いた生活のあとが混在して、不思議な雰囲
気を醸し出していた。
「レストラン、なんだ」
 おじゃまします、とちょこんと入り込んできょろきょろと見回し、物珍しそうにさくらが呟く。
「うん、元々桜井組の物件だったんだけど、何か気に入っちゃって」
 高校の時は親に無償で貸してもらい、大学からはきちんと家賃を払った。取り壊しの話が出た時、琥一に頼み
込んでオーナーになってもらう事でそれを回避したほど、この建物を愛している。
「二階に部屋があるんだ」
「へぇ…」

 住んでいる所までお洒落だなあ、とさくらは感心していた。初めて男の人の家に行くという緊張感は、相手が
琉夏だからだろうか、殆ど無くただどきどきと胸が高鳴った。階段を上がる琉夏の後ろについて二階に上がると、
開放されたベランダから広い海が見えざぁっと潮風が少女の髪を乱した。
「きゃ!」
 急に手を引かれて、さくらは悲鳴を上げる。バランスを崩してこけそうになりぎゅっと目を瞑ると何か温かい
ものに包まれた。
「さくら、男の人の家に平気で入っちゃいけないよ」
「え、え、ぁ…」
 ぎゅっと琉夏に抱き締められていることに気付き、頭が真っ白になる。なんで、どうして、とぐるぐるするも
のの、嬉しさに抵抗する気も起きない。
「食べられちゃうよ?」
「た、たべられちゃうの?」
 そして、そのまま琉夏の綺麗な顔が降りてきた。唇に触れた柔らかな熱に、それがキスだと気付けずにただた
だぼおっとしてしまう。
「ほんとはね、もっとさくらが大人になるまで待つつもりだったんだ。でも、昨日、皆さくらに夢中なのを見て、
我慢できなくなった」
「む、むちゅうだなんて、そん…な」
 確かに、今までになくちやほやはされたもののモテるとかそういう話ではなかった気がする。
「いや、さくらが気づいてないだけ。それにほら、今みたいに、さくらは無防備でしょ」
 又琉夏が顎に触れてくる、今度ははっきりとキスだとわかった。
「わ…」
「最後に、さくらが最後に俺を選んでくれたらそれでいいと思ってた。でもダメだ、誰にもあげない。さくらは
俺のものだ」
 やや脅迫めいた口調で真剣に告げられる。
 桜井先生ではなく、るかおにいちゃんとしての言葉にさくらは、頷いた。
「うん、おにいちゃんなら、いい。るかおにいちゃんにぜんぶあげる」
 大好き、という言葉は琉夏の舌先に溶けた。

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