ラジオ

 雪代は小さなトランジスタラジオを握ってイヤホンをし、ごろりとベッドに横になった。
 深夜二十六時三十分、普段なら絶対に寝ている時間だが、今日は昼寝をしてまでもこの時間に起きている。耳
なれないラジオのCMに聞き入りながら、暗い部屋の中でイヤホンから入る音に集中する。
『今晩は、今週も始まりましたミッドナイト・ラバディ、お相手は―』
 柔らかなボッサをBGMに、女性DJが滑らかに喋り始める。最近の時事や気候の話題を、ぶれない切り口で
淀みなく続けるハスキーな声は耳に優しく、体の力が抜けていくようだ。
 だが、雪代の目的は別にある。
『では、皆様お待ちかねのゲストの紹介です。ふふ、今回はお便りやメールの数が凄く多いんですよ、何時もの
ゆうに五倍…位はありますね、では自己紹介をどうぞ』
『今晩は、藍沢秋吾です』
 イヤホン越しに聞こえる、耳慣れた声に思わず頬が緩んでしまう。深夜の隠れた人気ラジオ番組に、ゲストで
生出演すると聞いてからずっと楽しみにしていたのだ。
 思わずベッドの上でごろごろしてぎゅうっと掛け布団に抱きつく。
『お忙しい中、深夜にすみません。遅くなりましたが、ノーベノレ賞受賞おめでとうございます』
『ありがとう』
 その後は、メールやはがきの応援メッセージを読み上げたり、初恋三部作をイメージした楽曲を流したりとテ
ンポ良く番組は進んでいった。
 DJの声が良いのは勿論だが、藍沢の声もとても耳に優しい。ノイズ入りの電波に乗った声が、近く甘く耳に
届く。
『番組が始まってから届いたメールなんですが、藍沢先生は声も素敵ですねというご意見が凄く多いんですよ』
『そうかな、普通だと思うが』
『いやいや、私が聞いても素敵な声だと思います。あ、新しいメールです。藍沢先生の声が素敵過ぎてイヤホン
に切り替えました、ですって』
 くすくすと笑うDJに藍沢は僅かに苦笑しているようだった。
 そうか、イヤホンで聞くと耳元で囁かれている気分になるのか、と雪代はちょっとむっとしてしまう。他の
女の子の耳元で囁く藍沢を想像して、むくむくと嫌な気分が心に湧き出す。
『今夜だけは、藍沢先生の囁きが全国の少女の元へ届きます。恋人さん、聞いてたらゴメンなさいね』
 DJのタイムリーすぎる発言に、少女はびくりと跳ねた。メールもはがきも送っていないのになぜ、心を見透
かされたのだろうと心拍数が上がる。
『俺に恋人が居るという設定なのか?』
『ふふ、その時計、私知ってますよ。限定生産のペアウォッチでしょう』
 その言葉に藍沢が、はは、参ったなと応えるのもそこそこに雪代は飛び起きて、先日藍沢からもらった誕生
日プレゼントの時計を探り出す。
 携帯を懐中電灯代わりにして時計を照らすと、先程告げられたブランド名が文字盤に刻んである。
「ペアなんだ…」
 夜中なのに、飛び上がって叫びたくなるくらい嬉しかった。雪代が見たことのないブランドで、しかも限定
生産ということであれば、早々ばれる事はないと油断したのだろう。
『あら、今月の月刊山並掲載作品に登場する時計も、それがモデルですか、というメールが来ているそうですよ』
『鋭いなァ、うん、間違いなくそうだ。細かい所まで読み込んでもらって、ありがとうございます』
 その後も、和やかにラジオは続いたが、雪代はもうそれどころではなかった。
 こっそりお揃いとか、秋吾さん可愛すぎる。
 しかも小説のネタにするとか!もう!
 嬉しさと恥ずかしさでその夜は一晩中寝付けなかった。

 その後、藍沢と雪代が持つ限定生産ペアウォッチに恐ろしいプレミアがつき、そのモデルが復刻され凄まじ
い売り上げを博した事は言うまでもなかった。

「なんでこっそりお揃いにしたんですか?」
「この歳で、お揃いなんてのは少し気恥ずかしいんだ」

ヒール

「だ、大丈夫かなぁ」
 綺麗なベージュのピンヒールを履いて、よろっと雪代は立ち上がる。ローヒール、太い七センチヒールはが
んばってそこそこきちんと履けるようになった。このあいだ海に連れて行ってもらったときには、足首をリボン
で結ぶタイプのウエッジソールで一日頑張った。あれは確か9センチ近くあって、いつもより藍沢の顔が近くて
ドキドキしたのを覚えている。
 高いヒールにこだわるわけじゃないけれど、やはり日常的にヒールを履きなれたほっそりとした足首には憧れ
るし、何より凄く大人っぽく見えるのだ。それに藍沢はいつかこう言っていた。
「ヒールの高さは、女としての矜持の高さに比例する。まあさもありなんと言った所だな」
 歩く、という人間の基本とも言える行為を制限してまでも美しくあろうとする心、それが綺麗という賞賛に繋
がるのかもしれない。そう言って、彼は自分の顎をなでた。
 誇り高く、うつくしく。せめて藍沢と並んで彼が恥ずかしくないような女に、なりたい。その一心で、雪代
はハイヒールに手を出すのだ。
「よおし」
 買ったばかりのワンピースがひらりと揺れ、レースの靴下に包まれた足元はおろしたての靴。どれだけ気合が
入っているのかと自分でもちょっとおかしくなる。
 玄関を開けて、近くまで車で迎えに来ているという藍沢からのメールにしたがって住宅街を歩く。
「あれ、おーいユキちゃーん」
 そこでばるばるばると耳慣れたエンジン音がして、三輪スクーターに乗った琉夏が大声で呼んで近寄ってくる。
「琉夏くん?」
「あ、やっぱりユキちゃんだ」
 花屋アンネリー、とポップに彩られた屋根つき三輪には花が束にして盛られていて、彼が配達中であることを
知らせている。
「後ろから見たらスゲー大人っぽくて、誰だかわかんなかった」
「またそんな事言って…」
 人がいないから、とバイクを降り琉夏は雪代の横を歩き始める。
「や、ホントだって。今からデートです!って気合満々」
 聡い幼馴染に簡単に見破られ、かあっと頬が熱くなる。急に、足が震えるくらいの履きにくい靴とおろしたて
のワンピースで気張って歩いているのが恥ずかしくなってくる。
「変かな?気合はいりすぎ?」
「そんなことない、ほら」
 荷台に積んである花の中から小さな紫色のスミレをつまみ出した琉夏は、少女の髪にそれを差す。
「かわいい、いいにおい」
「もう…」
 女性の扱いに慣れている彼に溜息をつき、手鏡で頭に差された花を見る。ハート型の花びらを持つ小さな紫色
の花は、ほんのりいい匂いがする。
「ほら、藍沢さん待ってるよ」
 そのままついと彼は前方を指差す。確かにそこには藍沢の車が合った。
 アンネリーで朝から晩まで働くようになった琉夏の手には指輪が嵌っておらず、少し荒れて太くなったような
気がする。
「じゃあね、琉夏くん。お花ありがとう」
 車に寄りかかって腕組みをしている彼に向かって、自然と足並みは小走りになる。
 はやく傍に行きたい、そんな気持ち丸出しの幼馴染の姿を見て琉夏は苦笑する。失恋したと聞かされ、その内
容があまりにも一方的なものだと知ったときには本気でぶち殺してやろうかと思った相手だが、今は認めている。
「あ」
 バイクに跨り、配達の続きをしようとエンジンをふかしたところ、雪代が藍沢の目の前でごりっと足を捻っ
てこけた。

「雪代!」
 目の前でこけてくれてよかった、と藍沢は正面から少女を抱きとめる。
「は、はぁー…」
「そんなヒールで走るからだ」
 ピンヒールのカカトは無事だったが、雪代自身の足首がかなり痛んでいるようだ。
「わっ!あの、ああのっ」
「なんだ」
 ひょいと横抱きにされて雪代は真っ赤になってしまう。琉夏くらいしか人は居ないといえども、公道でお姫様抱っこは恥ず
かしすぎる。運転席側から助手席側までの短い間だがその一分ほどが異様に長く感じる。
 ジャケットも手も煙草臭くないなとか、朝ほんの少し雨が降っていたからか髪の癖がいつもより強いなとか色々
考え、薄手のワンピース一枚で冷えた体に藍沢の体温が温かくて嬉しいと感じてしまう。
 だから、助手席に優しく下ろされたときは少し残念だった。
「また凄い靴を履いてるな」
 足首を検分しながらそう呟く藍沢に、雪代は少し悲しくなる。
「こういうの、きらいですか?」
 無理して頑張って、痛い足を引きずりながら背筋を伸ばして歩く。その努力は報われないのだろうか。
 そう言うと照れた様に顎をかいた藍沢は視線を泳がせて、すまんと頭を下げた。
「俺の為に頑張って履いてるんだろう、それは非常にうれしい。だから、君の無理に気付いていたのに何も言わなかった」
 懸命な背伸びを微笑ましく思うのは、わるいおとなのすることだろう。
「君の家まで送るよ、保険証持って病院に行ったほうがいい」
「はぁ…い」
 しゅんと俯いた雪代は、しぶしぶと言った風に返事する。折角のデートがふいになったのが悲しくて仕方が
ない。ばこんと助手席のドアが閉じられ、藍沢が運転席に乗り込んでくる。俯く雪代の頭を撫でようとした藍
沢は、ふとそこにささった花に気づく。とてもいい匂いのそれを見て、ふと妙案が浮かんだ。
「もし、あまり酷くない様だったらドライブしようか」
「え?あ、はい!」
「緑の濃いはばたき山も、たまにはいいだろう」
 何も桜楓だけが見所ではない、むしろ今頃のほうがにおいが強く愛らしい花が多い。たしかアジサイ園とやら
もあったはずだ。
 先程までの泣き顔が吹き飛んだ雪代は可愛らしく笑っている。そんな駆け引きも何もない姿と揃えて置かれ
た大人っぽい靴がちぐはぐで、それすらも可愛いと思えた。無理して大人にならなくていいと一言言ってやれば
いいだけの話なのに、背伸びする様子が愛らしくてわざと黙っている。
「駄目な大人だな、俺は」
「?」
 きょとんと見上げてくる黒目がちな瞳に、いやなんでもないと返し、見えてきた彼女の家へ向かってブレーキ
を踏んだ。

オレンジデー

「バレンタイン・ホワイトデーときて四月はオレンジデーか。商魂逞しいな」
「そうですねえ」
 四月発売の文芸雑誌の特集がオレンジデーだと編集から聞き、藍沢は鼻を鳴らした。
 全く、恋心というものは財布の紐をもゆるくしてしまう。そういいながらも、歳若い恋人に何を送ろうか画策
する自分にも呆れる。

 それからなんやかんやと忙しく、すっかり四月に入る頃までプレゼントを買いに出かける気が起きなかった。
 オレンジデーとはオレンジ色の物を贈り合う日とみかん業者が定義したらしいが、さてオレンジとは中々好み
の分かれる色である。
「服、鞄、靴…は派手だな」
 真昼のデパートを徘徊する成年男性というのは存外目立つものである。容貌が整っているので不審者扱いはさ
れないが、代わりに店員が鬱陶しく付きまとう。
「入学・入社祝ですかァ?」
「いや」
 バレンタインやホワイトデーのように一般的なわけではないし、店員が言うような春のギフトシーズンも終わ
った後だ。母の日へ向けての売り場ができつつある中途半端な時期なので、あまり良いものがない。
「ハンカチではベタ過ぎるしな…、スカーフ、という歳でもないか」
 ぐるりと売り場を回り、服飾小物コーナーへ差し掛かってもこれというものは見つからない。と、ふと藍沢の
目に綺麗な橙色が映った。値札を見ると結構いい値段だったが、その分とてもいい品物だった。

 そして、四月十四日。
 文芸山並の四月号を発売日に買い、その足で雪代は藍沢のマンションへ向かう。
「オレンジデー特集…」
 綺麗な橙色の紙に刷られた藍沢の小説が早く読みたくて、行儀が悪いなと思いながらもエレベーターの中でぱ
らりと雑誌を開く。
「オレンジ色の物を贈り合う日、かぁ」
 音もなく開いたエレベータのドアを踏み出すと、どんと何かにぶつかった。
「ごめんなさい…?」
 本から顔を上げると、苦笑いした藍沢が立っていた。
「そんなに読みたかったか?」
「あ…」
 恥ずかしさに雪代の顔に血が上る。立ち尽くす彼女の手を引いて、サンダルを鳴らしながら藍沢は自室まで歩
く。そして玄関に入るなり、藍沢は傘を一本取り出した。
「オレンジデーだ。受け取ってくれるか?」
「わぁ」
 華奢な骨組と上品なベージュの布のそれは、閉じた状態でも良いものだとわかる。
「広げてもいいですか?」
「ああ」
 一旦玄関から外に出てぽんと軽く開く傘の内側は、綺麗なオレンジだ。
「…素敵です…!」
「普段あまり上等な傘は持たないだろう?」
 軽く持ちやすく、もち手と布部分のバランスや長さも丁度いい。やはりいいものをきちんと知っている藍沢は
凄いなあ、とくるくる傘を回して雪代は心底感心してしまう。



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