藍沢先生のお見舞い 主人公母、純粋な先輩として紺野がでます

 急に雪代からの連絡が途絶えた。といってもまだ三日なのだが、その程度の時間を長く感じるほど普段接触し
ているということだ。
 遠慮がちながら彼女は、空がきれいですだの今日から新しい本を読み始めましただのぽつりぽつりとメールを
送ってくる。みずみずしい感性と混ざる少女らしい甘さが、藍沢にはこの上ない刺激になった。逆に藍沢から連
絡をすることはあまり無い。必要な時に過不足の無いコミュニケーションを取ろうとする合理性は、歳若い雪代
には物足りないのではないかと何時も思うが、彼女はそれで納得しているらしかった。
 何気ないふりを装って、メールソフトを開いてメールを送信する。思ったより直ぐに返ってきた返事には、ち
ょっと熱があるのでごめんなさい、元気になったらお邪魔します、とあった。
 具合が悪いのか、そう思うと不意にくらりとした。結構な時間一人で生活していたので他人の体調に鈍いとこ
ろのある己を呪う。入院した知人を一度見舞いに行った程度で、ここ数年人を見舞うことなど無かったし、かい
がいしく世話を焼くなど遠い記憶の中だ。
 大丈夫か、等、無責任でありきたりの言葉は言いたくないし、かといって養生しろ以外に有用な言葉が見つか
らない。こういったとき理屈抜きで人を心配できそれを伝えられる人間を羨ましく思う。
 見舞いに行こう。彼女の様子を見て、そうしたらこの胸の不安も薄れるだろうしいくばくかの気持ちも伝えら
れるかも知れない。そう思った。


 頑張って起き上がろうとしても体がだるくて直ぐにベッドへ倒れこんでしまう。猛烈な吐き気は大分収まった
ものの、まだまだ恢復には遠い自らの体調に雪代は溜息をつく。高校のときも何度か倒れたことがあったが、
それと又同じ症状だ。吐き気と微熱にだるさが周期的に襲ってくるのは、自家中毒と言う自律神経系の狂いから
来る症状らしい。
「最近は大丈夫だったのになあ」
 掌を高く伸ばして、窓から入る光に透かして見る。ちらちらと影が出来、秋の柔らかな陽が散った。
 原因は分かっている。最近、大学で同じ講義を取っている男から猛烈に絡まれているせいだ。高校から一緒の
友人や一つ年上の紺野がそれとなくガードしてくれているものの、周囲が見えなくなっているらしい彼はなりふ
りを構わなくなってきている。
 こういうとき、藍沢をべったりと頼れないのは良いことなのか悪いことなのか分からない。それに、言い寄っ
てくる男も悪人と言うわけではないのだから、彼があきらめてくれるまで粘り勝つしかないのかもしれない。
 堂々巡りする思考に、又とろとろと浅い眠りに引き込まれる。


 いてもたっても、と言うほどではないが何をしていても彼女が心配なほどには焦っていた。死にはしないと言
って大体の病気や怪我を看過しがちな藍沢は、久しぶりに感じる心からの不安をむしろ面白がっていた。ますま
す、感情と理性が剥離しつつある。それは肉体と精神の齟齬を引き起こして、そのうちに予想もしない行動を引
き起こすのではないか。
 一応おざなりに見舞いに行くと連絡を入れた後、見舞いの品と共に雪代の家を訪ねる。家の前まで送ったこと
は二三度あったが、上がるのは初めてだ。しかし悲しいかな一通りの礼儀を社会人として身に着けてしまってい
るので、少しの気後れも感じることはなかった。
 インターフォンを鳴らすと、間を置かずに中年の女性が扉を開けてくれる。恐らく雪代の母親だろう、顔容が
そこまで似ているわけではないが穏やかな雰囲気がそっくりだと思った。
「はじめまして、藍沢先生…ですか?」
「ご挨拶が遅れまして申し訳ありません。藍沢秋吾と申します」
 雪代が何をどう説明したかはしらないが、彼女の母親は藍沢を歓迎してくれているようだ。娘が何時もお世話
になっています、と返答に困る感謝を述べられた。
「大分吐き気も治まったみたいで、来週からは大学に戻れそうなんですよ。顔を見ていってあげて下さいな」
「そうなんですか、では」
 家族にと買った焼き菓子を手渡すと、まあ気遣いは良いんですよと母親は笑った。笑顔がまた、少女に酷く似
ていた。

 こんこん、とノック音が聞こえて雪代の心臓は跳ね上がった。この自分の部屋に藍沢が来るなんて信じられな
いにも程がある。一応母親に頼んで体を拭いてもらい、一番ましなパジャマに着替えさせてもらった。鏡を覗き
込むと青白いを通り越して土気色の冴えない顔が映る。瞼も腫れているし、唇だってかさかさ、とても藍沢に見
せられる顔じゃない。見舞いに来ると言う言葉に一も二も無くはい待ってますと答えたのは自分なのに、冷静に
なればなるほど後悔の念が湧いた。
「いいか?入るぞ」
「あ、は、はぁい」
 ぎ、っとドアが開き藍沢が入ってくる。ベッドに半身を起こして出迎えると、彼は不用意に部屋を眺め回すこ
となく真っ直ぐにベッドの横まで近づいた。
「大分、悪そうだな」
 くしゃりと髪をかき回されて、顔を覗き込まれる。口調や表情はあまり変わらないが、真剣そのものの瞳が十
分に気持ちを伝えてくれた。
「あの、えと、大分良くなったんですけど」
「これでか?どれだけ具合が悪かったんだ」
 すっと降ろされた掌が頬を撫でる。その体温が心地よくて思わず擦り寄ってしまった。ふっと笑われた気配が
したが、甘えたいときに差し出された手を拒むことなど出来ない。
 そのままベッドに腰掛けた藍沢に片手で抱き寄せられ、シャツ越しに伝わる感触に安堵の溜息をついた。その
まま、静かに時が過ぎる。藍沢の家ではこうやってくっ付いていることは結構あるが、自室では妙に照れくさく
もじもじしてしまう。
「ストレス性の失調症らしいじゃないか、何があったんだ?」
 急に穏やかな時間を破り耳元に囁かれた言葉にぎくんと体をすくませてしまう。油断させておいて核心を突く
やり方にはどう警戒しても引っかかってしまう。
「え…っと…」
「話して、貰えないか」
 ほんの少し悲しそうに告げられ、顎を掴まれて強制的に視線が合うよう顔を上げさせられた。じっと見つめら
れて、雪代は諦めたように溜息をついた。
「その、大学でですね、好きだと言い寄られて、結構しつこくて困ってる、んです」
 たどたどしく告げられた言葉は意外なものだった。藍沢が夢中になるほどの人格と、贔屓目を除いても可愛ら
しい容貌があれば、一方的に好かれることに対する馴れはあるだろうと思っていた。
「きちんと断ってるんだろう?」
「毎日ごめんなさいって言ってるんですけど、好きだから諦められないって」
 かなり、押しの強い男らしい。友人や親しい先輩がどれほど怒り、諭しても暴走は止まらないからそれがスト
レスになってしまったらしい。恋愛対象としての『男』を藍沢しか知らない少女は、そういった男女関係のいざ
こざが非常に苦手らしい。
「ごめんなさい、くだらないことで心配をかけてしまったみたいで」
「いいや、話してくれてありがとう」
 くだらないことじゃない、と言って軽くくちづけると紙の様な顔色にほんの少し赤みが差した。布団の上で
軽く握られていた雪代の手がきゅっと藍沢のシャツを掴んだ。
「虫払いも、恋人の役目だろう」
「え、あ、あう」
 ニタリと笑う大人に少女は慄く。
「あの、彼ホントは悪い人じゃないんですよ?ストーカー行為とか襲われたりとかは無いですし、片思いの辛さ
は私も良く知ってるから」
 丁度一年前のこの時期、人生で初めての失恋に呆然と日々を過ごしたことを思い出す。ベッドで日がな一日泣
いて、随分カレンやみよに心配されたものだった。
「それを言われると、辛いな」
 藍沢は苦笑してざらりと自らの顎をなでた。
「秋吾さんを責めてるわけじゃ…、ご、ごめんなさい」
 何を言ってもどつぼにはまる状況に困惑して雪代はぎゅっと藍沢にしがみ付いた。打ち明けたことによって心
因性のだるさが大分取れたらしい、体が動く。
 パジャマ一枚しか身にまとっていないことを少女は失念しているのだろう。男の胸板に、柔らかな感触が遠慮
なくふにふにと押し付けられる。もちろんここは彼女の部屋で、階下には母親もいるのだからそういった行為に
は及べないことが口惜しくてならない。
「近いうちに、君の大学に行こう」
「え、えええ?」
「いい機会だ、徹底して虫払いしてやろうじゃないか」
 ぼうっと頭に血を上らせた雪代は、くらくらと倒れこんでしまう。そのまま藍沢はベッドにやわらかな体を押
し付け、一度だけ深く口腔を貪って身を離した。
「っん、しゅうごさん…」
「長居しすぎたかな」
 無意識にだろう両手を伸ばして来るのを宥め、掛け布団をかけてやる。しかし雪代は、ベッドから腰を上げよ
うとした藍沢のシャツをまだ引っ張り珍しくわがままを言った。
「…詩を、よんでください」
 情事の後や寝る直前に、一遍の詩を読んでやることがたまにある。子供を絵本で寝かしつける様で可笑しかっ
たが、藍沢もその行為は嫌いではなかった。
「わかった、ちゃんと寝るんだぞ」
 鞄に入れている文庫数冊から適当なものを選び、低くうたう。
「―酒は唇よりきたり、恋は眼より入る。われら老いかつ死ぬる前に、知るべき一切の真はこれのみ。われ杯を
唇にあて、おんみを眺めかつ嘆息す――Wine comes in at the mouth.And love comes in at the eye―…」
 藍沢の方を向いて横向きになった彼女の背中をぽんぽんと撫でながら、短いアイルランドのうたを、日本語と
英語で繰り返す。うっとりと目を瞑った雪代はやがて寝息を立て始めた。

「格好良いわねえ、藍沢先生」
 うっとりとそう呟く母親に雪代は少しむっとする。ベッドサイドには彼が見舞いにと持ってきてくれたらしい、
白ワインとミントで白桃を漬け込んだデザートが置かれている。上品で舌に優しく、かといって甘さ一辺倒には
走らない複雑な味が舌と喉を潤す。
「あれでノーベノレ賞受賞作家でしょう?雪代がアシスタントする隙なんてあるの?」
「ありますぅー」
 ぷうと膨れる娘の表情は、とても明るい。押しも押されぬ人気作家が娘と親しいと聞いたときには驚いたもの
だったが、訪問前後での様子の変わりようでは確かに何らかの強い関係が有るようだった。
 それは藍沢の方でも同じらしく、慌ててやって来たらしい様子が暇を告げる頃には穏やかなものに変わってい
た。アシスタントなどではなく、もう少し色っぽい関係なんだろうなと言うのが母にはよく伝わった。高校に入
るまでは引っ込み思案で本ばかり読んでいたことを考えると、凄まじいまでの成長だと言える。
「おかあさん、心配かけてごめんね」
 ミントを噛み締めながら申し訳なさそうに雪代が見上げてくる。親がどれだけ心配して声をかけてもぐったり
していたのに、他人の訪問一つで元気になったことを詫びているのだろう。
「いーえ、アンタが元気になって何よりよ!余計な気を使わないの」
「うん、ありがとう、おかあさん」
 あらかた食べ終わった桃やスープを盆に載せ母親は立ち上がり、さてこ今日の出来事を夫に伝えるべきか否か
と考えながら階段を下りた。

「藍沢秋吾講演会?」
「そう、何だか急に今月末にある学園祭の演目に追加されたみたいだよ」
 大学に復帰した後、欠席してしまった講義の解説を紺野から受けていると不意にそんな情報を告げられた。
「もともとこの大学の学園祭は講演やパネルディスカッションが豪華なのが有名だけど、ノーベノレ賞受賞者の
講義は人気だろうなぁ」
「え、そんなの、聞いてない」
「だから本当に急な事らしいんだ」
 紺野は勘違いしているが、雪代は藍沢自身から聞いていない事に動揺していた。
「まさか虫払いって、そんな…」
「ん、どうかしたかい」
「いや、何でもないですっ、楽しみが増えましたねっ、続きをお願いしますっ」
 妙にはきはき喋る少女に違和感を覚えながらも、紺野は講義の続きを再開した。

 この時はまだ、講演中アシスタントとして壇上に控えさせられた挙句控え室にて件の男や親しい友人らに俺の
もの宣言される、とは夢にも思わなかった。



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