二年目秋

 くぅうー、と可愛らしい音がした。
 はて何の音かと顔を上げると、雪子が真っ赤になってお腹を押さえていた。
「やっ、やだ」
「は、ははっ、おなか空いたの?」
 生徒会の無い帰り道、二人で訪れた本屋で思ったより長居すぎていたらしい。気付いたら夜になりかけていた。
「何かちょっと食べて帰ろうか?」
 戸惑いながらどうしようか考えているらしい雪子は、まだお腹を押さえたままだ。
 最近少し寒くなり始めたからか、彼女は制服の上にカーディガンを着込んでいる。コート代わりだからか大き
目のそれから覗く指先がかわいい。
 くくうー。
「や!」
 又鳴った。一瞬びっくりした顔をした紺野が、ははっと笑った。
「公園にたい焼きの屋台が来てたよね」
 耳まで赤くなった雪子は今度こそ大人しく、紺野に手を引かれた。
「今あまりたくさん食べると、晩御飯が入らなくなるかもしれないんです」
「そう?じゃあ、半分にしよう」
 書店を出ると、冷たい風がびゅうと吹き抜けた。握った掌の温かさが染み入る。雪子の歩調に合わせてくれる
青年は、自然と風が当たらないように庇ってくれる。彼とお付き合いするまでは分からなかった二人で歩くこと
の幸せを、秋になってより多く感じる。人が傍にいるだけで、とても温かい。
 軽ワゴンを改造したたい焼き屋は、北風のおかげか繁盛していた。小学生や子連れの主婦が群がっている。
「雪子さん何が食べたい?」
「えーっと、あの、クリームがいいです」
 わかった、と言って紺野は店主に声を掛ける。
「クリーム一つ下さい」
「彼女の分はいいんかい?」
「半分ずつ食べるので」
 そっか!いいなあラブラブだな!と言って店主は、たい焼きとおまけにたこ焼きをみっつ付けてくれた。
「わ、あつっ」
「大丈夫ですか?持ちます!」
 カーディガンを指先まで伸ばして、紙袋を持つ。毛糸越しにも熱さが伝わった。そのまま公園の、余り吹きさ
らしになっていないベンチを見つけて並んで座る。
「意外とあっつあつだなあ」
 まだ冷めないたい焼きをどうにか持って、半分に割る。クリームの露出する断面からぶわっと湯気が出て、紺
野の眼鏡を曇らせた。
「先輩、眼鏡眼鏡」
 それが可笑しくて、雪子はくすりと笑ってしまう。
「不意打ちだったよ」
 曇りの取れた視界に飛び込んできたのは、雪子の笑顔だった。
 半分に割ったたい焼きのどちらがいいか選ばせ、頭を取った彼女はそれにふうふうと息を吹きかける。
 かわいいな、と思う。特に今日は大きなカーディガンに着られるようになっているからより小動物っぽくなっ
ている。かぷり、とたい焼きに噛み付くも、熱せられたクリームに舌を灼いたのか口を離した。
「っ」
 小さな舌を出して、ぎゅっと眉間に皺を寄せる。火傷したのだろうか。
「大丈夫?」
 こっくりと頷くが、舌は出したままだ。その様子が可愛くてしかたが無い。
 キスをしたい。したくてたまらない。
 そんな思いが、ぶわりと沸いてくる。ざっと周囲を見るとまばらにしか人は居らず、皆寒さに余裕をなくして
いた。
「雪子さん、こっちむいて」
「なんれすか?」
 またたい焼きに挑戦しようとしていた彼女がこちらを向いて上目に見上げてくる。まだ舌は出したままだ。
 ちょっとあごを支えて、キスをした。荒れていない柔らかな唇と、外気で冷えた舌が触れる。
 音も立てずに終わったくちづけに、一瞬何が起こったのか分からなかったらしい雪子は、きょとんとしている。
 彼女から手を離して前に向き直ると、犬の散歩をしているらしい女性に冷やかしの目線を贈られた。
「や、やっ、なんっ、ぇ?」
 ぼうっと真っ赤になる頬と、ごとごと煩い心音に雪子はおののく。不意打ちだ、ずるい、うれしい。
「ほら、先にたこ焼き食べよう」
 小さな紙舟に載ったたこ焼きを差し出してくる先輩の余裕が憎い。仕返しを、しなければならない。
 小船にはたこ焼きがみっつ。一つずつ食べて、残りの一個はどうするのか、どういうつもりであの店主は三つ
にしたのか。
 ぶすっ、と蛸を貫くようにしっかりと楊枝にたこ焼きを刺した雪子は、それを持ち上げる。
「先輩!あーん!」
「…っ」
 本人は怒っているつもりなのだろうが、全くそうは見えない。赤い頬で涙目で、見上げるようにしてたこ焼き
を差し出す姿は、かわいい以外の何物でもなかった。
「はい、ありがとう」
 大人しく差し出されたそれを口にすると、むっとしたように睨まれた。
「私ばっかり恥ずかしいのはずるいです!」
「僕はずるい人間だよ?」
「もうっ、そういう話じゃないんです!」
 もぐもぐと咀嚼すると、自分で食べたものより美味しいような気がした。ぶつぶついいながらも彼女は、よう
やく少し冷めたたい焼きを齧り始める。
「おいしい、です」
「うん」
 甘すぎないクリームと丁度良い厚さの皮が絶妙だ。一方的に恥ずかしい思いをしたのはイヤだったが、こうや
って並んで買い食いすることは凄く楽しい。
 ふと紺野を見ると、やはり男子高校生にはたい焼き半分は少なすぎるのだろう、ペろりと食べてしまい、唇を
指で拭っていた。
 そのしぐさが妙に性的で、折角収まった心臓が又煩くなる。
「雪子さん?」
 顔が見られない、多分、唇ばかり見てしまうから。
「どうしたの?大丈夫」
 多すぎるなら残していいよ、と言って顔を覗き込まれる。生まれて初めて、人にキスをしたいという欲が、む
くむくと雪子の中でわきあがる。はたしてそれを、叶えてもいいのだろうか。
 すっかり暗くなって、照明の付近以外は闇に包まれている。今なら、多分大丈夫だ。
「せんぱい!」
 鋭く呼んで、紺野の頬を両手で包む。一瞬ひるんだらしい彼の唇にぶつかるようにキスをする。がちん、と嫌
な音がしてじわっと血の味が広がった。
 しかし初めての彼女からのキスに驚いた紺野は、血の味など感じなかった。すばやく離れようとする彼女の頭
を捉え、何度も触れあわせる。ちゅ、っちゅっ、と繰り返し、目を閉じて大人しくなった雪子の肩を抱く。温か
い。
「は…」
 すっかり脱力してしまった彼女は、ぐったりと紺野に寄りかかった。

 もう遅いからと立ち上がった紺野に引きずられ、二人又手を繋いで歩き出す。
「も、もう!先輩には、はずかしいとか、ないんですか!」
「あるよ」
 今だって、一般に言う所のばかっぷるを繰り広げてしまったことに凄まじい羞恥を覚えている。まさか自分が、
公共の場であんなことをするなんて、と頬に血が上る。
 それもこれも、雪子が可愛すぎるからいけないんだ。と言いがかりのような気持ちが支配する。
 お互い照れて怒りながらも一緒にいることが嬉しいのは変わりなく、彼女の家の前に着いても二人は暫く手を
離さなかった。
「じゃ、ね。また明日」
「うん…、ぁ」
 敬語ではない、素の言葉が出た彼女がごめんなさいといいながら手を離す。
「送ってくれて、ありがとうございます」
「いいや、楽しかったよ」
 そしてまた一通りの記憶で恥ずかしがって逆上するだろう彼女から逃げるように、紺野は一人浮かれて家路に
着いた。


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