「わあ、おいしそうだね」
 カウンター越しに枝豆を差し出すと、益田が上機嫌な声で応えた。
「雪代が茹でたからな」
 ふん、と鼻を鳴らす藍沢に苦笑する。
「いいのかい、君の天使がくれたものを貰っても」
「俺は食ったから、良い」
 ガラスの器に枝豆を空け、少し匂いをかいでから口に入れる。青臭さと甘さが塩味で引き締まり、なんともい
えない夏の味がした。
「凄くおいしい。今日、店で出すよ」
 天使の枝豆とかいったら若い子に受けるかね、と冗談を言うとバカいってんじゃねぇと藍沢が睨む。
 過去のひどい失恋が、藍沢を執筆へ向かわせた。藍沢もその相手もお互い死を選びかねないほど消耗させたその恋は、彼
らの人生を大きく変容させた。追い詰めない、求めない。それが最前提になった。だから、三ヶ月前の春、もう
二度と見ることはないと思っていた藍沢の満ち足りた姿を見て、口には出さないが益田も他の知人や友人らも安心した。
 彼の天使は、彼らの天使でもあったのだ。


『先生、枝豆好きですか』
 執筆を中断し、ふと携帯電話を見ると雪代からそんなメールが来ていた。目的の書かれていない文章に首をか
しげながら、電話をかける。親戚から枝豆をたくさん貰ったので、藍沢にもぜひ食べて欲しいと彼女は言葉を弾
ませた。
「じゃあ、家においで」
「ありがとうございます!」
 心底嬉しそうな声が余韻を残し、電話は切れた。本好きで大人しい彼女。だが、藍沢の家には非常に無防備に
訪問し、コーヒーを淹れたり料理を作ったりしていく。甘い声で先生と呼ばれる幸せに、それだけで男は満足し
ていた。
 一時間ほどして玄関のベルが鳴った。幅広の帽子を被り、たっぷり汗をかいた雪代はそれだけで夏を体現して
いるようだった。
「急にすいません、台所お借りしますね」
 麻の袋から出たのは生の枝豆で、藍沢は少し驚く。下ごしらえまでは済ましてきたらしく、少女はコンロでお
湯を沸かし始めた。初めは書斎に行こうかと思っていたが、エプロン姿にはだしの彼女が働く様を見逃すのが惜
しい気がして、ダイニングの椅子に腰を落ち着ける。
「つっ」
 少し湯が跳ねたらしく、雪代は短く呻いた。
「おい、大丈夫か」
「大丈夫ですよ」
 近寄ると、少し赤くなった手首を水で冷やしていた。火を使っているからだろう、一向に汗の引いていない少
女の体からふわっと匂いがした。それがぞくりと男の欲を掻き立てる。
 人気作家で若いそれなりの男と言うだけで股を開く女はごまんと居たし、その中からあとくされの無い女を選
んでは怠惰に寝るばかりだったのは藍沢自身だ。
 久しぶりに、それこそ、あの命を懸けた恋をした女以来初めてかもしれない、たぎるような劣情が湧く。
「熱いでしょう、もうざるに上げますからテーブルで待っていてください」
 にこりと振り返りそういう彼女に、とりあえずは頷く。がっついてはもったいないだろう。一夜限りの女では
なく、手に入れた大切な天使なのだから。
 姑息な手だとは思いつつも、冷蔵庫から白ワインを取り出す。華奢な二つのグラスに酒を注ぐと、ガラスの肌
は涼しげに曇った。美しい緑色の肴に、普段は飲まない雪代も少しワインに口をつける。
「これ、おいしいですね」
 ワインなんてすっぱいだけだと思っていました。そういう彼女は既に男の手に落ちて居ることに気付かない。
こんな分かりやすい罠は、鼻で笑うか分かっていてわざと嵌るかのどちらかなのに。
 ソファに並んで座っている男が、腰に手を回しても気に介さずころころと笑う彼女の唇は、あまく冷たい酒の
味がした。そのままふかくくちづけると、抵抗も出来ずに少女のからだはとろりと溶ける。

 容赦のないキスに溺れる雪代を見て、何故こんなに初心で慎み深い娘が自分を好いているのだろうと藍沢は改
めて思う。
 特に切羽詰っていない限り、藍沢は本屋に通う。あの日だって、郷土の資料を見に行っただけだった。余りに
も嬉しそうに藍沢の本を持ってレジに向かう彼女に声をかけたのも気まぐれだった。自分の過去を押し込めたよ
うな、そんなものよりもっと素晴らしい小説は沢山あるだろう。ただ、そう伝えたかっただけだ。唐突に説教し
たにもかかわらず、彼女は神妙に聞いていた。
 作家稼業は引きこもることが可能な職業の一つである。久しぶりに旧知と出版社の人間以外と話したせいか、
彼女のことは妙に引っかかっていた。
 そして、あの公園での出来事だ。
 以来藍沢の部屋に通うようになった彼女は、若さ故の未熟さはあるものの思慮深くなによりやさしかった。それが社
会に出ていないが故の甘さなのか、彼女自身の持つものなのかはわからない。しかしそれが何であれ、心を閉ざ
して長い藍沢を溶かすには十分な温かさを持っていた。
 天使。
 恋愛小説を生み出す脳みそが、陳腐な言葉を吐き出す。彼女が天使なんかではなくただの娘だということは分
かっている。膿み始めた思考におののき、彼女を突きはなした。
 だがもう一度、手を伸ばそうと思った。虫のいい行動に我ながら苦笑する。だから、彼女も通っているのだろ
う書店ではなく教会に行った。ほんの偶然に、己の未来を託す。
 一度死んだ心が蘇るには、バカみたいに出来すぎた舞台が必要だと思ったから。

 雪代をベッドに運び、そのまま圧し掛かる。ばかな行動だとは思ったが、服を解いた後すべらかな背中の肩甲骨を何度もなぞる。
 翼は、無い。
「…あ」
 ただ触られていることが心地よいらしく、満足そうな吐息が聞こえた。まるで性交を予感させない様子に藍沢
は苦笑する。何度もキスをしながら、壊れ物を扱うように肌に触れる。とろんとした雪代はそのまま眠ってしま
いそうだった。
「せんせぇ…」
「秋吾、だ」
 しゅうごさん、と繰り返す言葉に煽られる。
 つんと上向いた胸に触れると、くすぐったそうに震えたあとはあと息を吐いた。
 体温と肉欲が、二人を狂わせた。

「それから愛は、どのようにお前に来たんだろう。日の照るように、花吹雪のように―。お話し」
 低く小さな声が聞こえる。その心地よい響きに少女は目を覚まし、ベッドから身を起こそうとした。が、下半
身に力が入らずもがくだけになる。
 ベッドのサイドテーブルの明かりで文庫を読んでいた藍沢は、身じろぎした少女に気付き、声を止めた。
「続けてください」
 秋吾さんの声が好きだから。自分でも驚くほど甘く素直な台詞が唇から滑り落ちる。
 しかし男は首を振り、手を伸ばす。つい先ほどまで情を交わしていた体は、熱の名残に震えた。
 雪代は藍沢の腕を拒まず、促されるまま口付けに応じる。色事に長けた男はあっという間に少女を情欲へと突き落とす。
気が付いた時には又深く繋がり、なれぬ動きで腰を振っていた。
「愛は全てを、満たしてくれる。―食欲以外の、全てを」
 続きを男が唱える。
 朦朧とした意識の中で、あとでその詩集を貸してもらおうと思ったところで、全てが熱に飲み込まれた。



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