沢田愛姫はボンゴレファミリーの創始者・沢田家康の妻にあたる女性。
今のみちるにはその事実を確認する術はないが、あくあの言い分をひとまず信じることにする。
そうでなければ、話が進まない。

前世とは、この世に生まれる前の人生のこと。
もし前世の記憶を有している者が現世に生きているのであれば、それは転生と言える現象だ。
みちるがかつて千崎スイの精神を内包していたことは、そのどちらとも言えないだろう。
みちるは長い間、自らが他人の人生へ転生したと考えていたが、スイの種明かしによれば、どちらかと言えばスイによって行われたみちるの肉体への“憑依”に近い。

あくあの場合、愛姫の人格がそのまま現世に生まれた。あくあは愛姫の転生者だ。

「ボクはあくあだよ。生まれた時から。そう名付けられた。でも、愛姫の記憶があると気付いた日から、変わった」

あくあは付け加える。「先に、愛姫の話をしようか」



沢田愛姫。
ボンゴレボスの座をU世に禅譲後、日本に帰化したボンゴレT世――沢田家康が妻に選んだ女性の名。

「愛姫の名前は広く知られているよ。ジョットが優れたボスとして有名なのと同じように」

愛姫は立派なお姫様だった、とあくあは言った。
ボンゴレT世が心から愛するにふさわしい、勇気のある人格者。
人を信じ抜く強さをもっていた。

「みんながジョットを好きだったように、愛姫もたくさんの人から愛されていたよ。スイもその一人」
「え……?」
「あなたの先祖の千崎スイは、ジョットの可愛い妹分。つまり、スイは愛姫にとっても大好きなお友達だったの」
「…………」

あくあがスイを知っている。それは、あくあが愛姫本人だから。

「ジョットが亡くなってからはU世の時代。愛姫は忘れ去られた」
「……イタリアで、ボンゴレが大きなマフィアになった……?」
「文献の記録だと、そうだね。ジョットと愛姫は日本にいたし、もう地位はないからあまり関係なかったけど」
「日本で……二人は、楽しく暮らしましたか?」

あくあが目をまるくしてみちるを見る。変わったことを訊くね、と言いたげな表情だった。

「……うん。ボクは楽しかった。ジョットもそうだったって信じてる」
「それなら……よかったです」
「…………」

あくあは不意に押し黙った。
みちるは途端に不安に襲われ、あくあの顔をじっと見つめた。あくあは静かに首を横に振った。

「愛姫に大きな功績はないけど、だからこそ、落ち目のボンゴレが求めたのはそういう『お飾りの綺麗なお姫様』でね」
「……落ち目?」
「今のボンゴレのこと……って言ったらみちるちゃんは怒るかな」

みちるは何も言えなかった。あくあは言葉を続ける。

「十年前、家族や使用人と一緒に並盛に来ていたって言ったでしょ。それが、ボクが愛姫として扱われ始めた頃」
「……十年前……」

あくあの言う十年前は、十四歳のみちるにとってはごく最近の出来事だ。
沢田綱吉らボンゴレ十代目候補がヴァリアーの面々と継承権を求めて戦った直後。
当時の正式なボンゴレボスであるボンゴレ九代目がザンザスの手によって軟禁されていた期間があったことを思い返すと、その時期のボンゴレファミリーは機能不全も同然だ。“落ち目”の兆候は明確にあったのかもしれない。

「そ、それって。あくあさんと、次期ボンゴレボスとの政略結婚とか……」
「それも家族の思惑の中にはあったかもしれないけど、優先度は低いと思う。ボクはまだ六歳だったしね」

まるで異国のおとぎ話のようだとみちるは思った。
だが、そんなみちるの幼稚な想像の範疇を超えて、大きな謀が渦巻いているのだろう。
自分がそういう世界にいる当事者の一部分であることも、なんとなく思い当たる。

「ボクはあくあなのに、愛姫として生きることをずっと求められてきたよ。ボクの思いなんてないのと同じ」
「…………」
「そんな顔しないで。今のボクはもう、全部を手放したから平気だよ。……ボンゴレへの貢献も捨てちゃったってことだけど」
「っ……」

みちるは言葉を発しようと口を開くも、何も言えずに唇を閉じ合わせた。
ボンゴレとは組織のことで、ボンゴレファミリーのことだ。十世代の歴史があり、栄光もあれば業もある。
みちるが「大好き」と胸を張って言えるのは、ツナや獄寺・山本たちをはじめとする人々や出来事――現代のボンゴレのほんの一部分にすぎない。
愛姫という人間と人生そのものであるあくあの口にする“ボンゴレ”とは、重みが違う。
それに気付いた時、みちるは何も言葉を見つけることができなかったのだ。

それでも、“あくあ”という一人の女の子を前にして、みちるは彼女の笑顔を曇らせる出来事など望むはずもない。
あくあは警戒すべき人間かもしれない。
だが、みちるが見てきた彼女の姿は、優しく無垢な一人の小さな女の子でしかない。

「ボクが、ボンゴレを嫌いなことは……もう、バレちゃったでしょう」
「…………」
「愛姫として生きた人生に後悔はないよ。だけど、今のボクは愛姫じゃない。あくあを受け入れないボンゴレは嫌い。……あなたに、わかってほしいなんて言わないけど……」

あくあの声音は、凛とした響きを保ち続けていた。
言葉は不安げでも、みちるをまっすぐ見つめるその瞳には、大きな覚悟を宿していた。
みちるは逃げ出したいと思った。だが、ここには逃げ場がない。
ならば向き合うしかない。

「それでも……それでも、あなたはわたしに、打ち明けてくれた……」
「……うん」
「あくあさんが勇気を出してくれたこと……それを受け止めたいって、わたしは思います」

あくあはみちるに、何か判断を求めているのかもしれない。断罪か、受容か。味方になるか否か。
みちるはそれをなんとなく察したが、この瞬間、自分の中に答えを見つけることはできなかった。

「良いも悪いも、わたしにはまだ決められません。だけど、あくあさんがずっとわたしに優しいことだけは、わたしにとって本当のことです。感謝しているし、嬉しいです。ごめんなさい、今は……それしか言えません」

みちるは答えを出した。あくあの言葉に対する、現時点での思いを伝えた。
そうして、次に断罪されるのは自分かも知れない。言葉を切りあくあを見つめ返した瞬間、脚が震えた。背中に緊張が走る。
それでも、みちるは冷静だった。全て覚悟を決めた上での発言だった。ベストを尽くした。
自分は敵陣の中にいる。外部の助けは望めない。
きっと、ミルフィオーレ日本支部に強襲したツナたちも、こんな気持ちだっただろう。
みちるはほんの僅か、“戦い”に身を置くことを学んだ気がした。

みちるの戦い方は、誠実に相手に向き合うことだった。

「……みちるちゃんは、正直だね……」
「…………」
「勇気かぁ。たぶん、ボクの勇気は、今のみちるちゃんには、敵わないと思うよ」

あくあは肩を竦め、眉尻を下げてゆるく笑った。
まるで毒気を抜かれたような、呑気な表情だった。
みちるは生きるか死ぬかを左右するような気持ちで思いを伝えたのだが、あくあにとってはそうではなかったらしい。
否、みちるの返答次第では、そうだったのかもしれないが。

「みちるちゃんと話していて思ったんだけど、スイの才能は超直感じゃなかったのかも」
「……え?」
「人の気持ちに深く想いを巡らせる……才能、かなぁ。ううん、努力かも。戦いのために使われるものじゃない」
「……スイさんは、わたしとは似てなかったと思います」
「そうかな?確かにボクと愛姫の関係とは違って、二人は別人だけど……みちるちゃんのさっきの言葉選び、スイに似ていたよ」
「…………」
「異端の姫。スイの愛称、知ってた?みちるちゃんもそんな感じだよね」
「ひ、姫なんて。わたしにはありえません」
「ふふ!そんなことないと思うけどな」

あくあが笑った。悪戯っ子のようでありながら、どこまでも気品のある表情だった。
姫と言うならあくあのほうだ。みちるはそう思った。

「ちなみに、スイの対になったのが愛姫だよ。愛姫は正式なボンゴレのお姫様だから」
「はい……あくあさんを見ていると、本当にそうだっただろうなって、思います」
「ボク?」
「はい。あくあさんは初めて見た時から、可愛くて軽やかで、童話の中のお姫様みたいです」

あくあが目を細めて笑った。
どこか泣いているようだと、みちるは思った。

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