運ばれてきた飲み物と料理の皿に、みちるは無言で向き合っていた。
気の利いた話題が自分の中に見つけられず、すっかり聞き役になったみちるは、次から次へと話題を振ってくれるディーノに相槌を繰り返していた。
雲雀は、愛想良く会話に参加するはずもなく、みちると同じソファの端で静かにフォークを動かしていた。

やがてディーノはカウンター席のロマーリオの隣を陣取ると、話が弾んだのか、元の席には戻ってこなくなった。
ディーノさん遅いなぁ、そんなことを呑気に考えていたみちるは、いよいよ自分のグラスの飲み物がなくなってしまうと無性に落ち着かない心地になった。
追加で注文をしても良いのだろうか。
雲雀にも声を掛けたほうが良いだろうか。
様々な思いが交錯する中でみちるは、この日、雲雀と一度も目が合っていないことに気が付いた。

雲雀が、自身の前のグラスをテーブルに置いた。
グラスの底がぶつかる音の直後、カランと氷同士がぶつかって音を立てる。
雲雀もまた、飲み物がなくなったことに気付いたみちるは、意を決して雲雀のほうへ身体を向けようとした。
しかし、みちるが動いたのと同時に、雲雀はその場に立ち上がった。

「っ……」

開きかけた口を慌てて閉じ、みちるは視線をテーブルに戻した。
テーブルから離れ歩みを進める雲雀の背中を視線で追うと、出入口に向かっていることに気付き、みちるはハッとして、反射的にその場に立ち上がった。

「え、雲雀さん…っ、どこへ」

みちるは咄嗟に、遠ざかる背中に声をかけた。
雲雀は振り返ることなく、迷いのない足取りで、木の扉を押し開け店を出ていった。
そのままその場に、再度座ってしまってもよかったはずだ。
だがみちるは、一歩、また一歩と足を進め、ほとんど無意識のうちに、出入口の前まで歩み出ていた。

「みちる、一時間後に出るからな!一緒に戻ってこいよ」
「え!?あっ、はい!」

我に返った時には既にもう、カウンターに座るディーノのその言葉に、背中を押し出された後だった。
威勢良く返事をしたみちるはもう後には引けないことを悟り、そっと扉に手をかけた。



外に出ると同時に冷たい外気が肌を撫で、みちるは身震いした。
自身の腕をさすってなんとかやり過ごそうと試みながら、視線を正面に向ける。
天気の良い夜だった。灰色の雲がまばらに散らばる空に、大きな白い満月が煌々と輝いている。

その月の真下に、遠ざかる雲雀の背中があった。
月明かりがなければ見失ってしまいそうなほど、その姿は闇に馴染んでいた。黒の学生服に、黒の髪。
みちるは躊躇する感情を捨てきれないまま、それでも無理やり足を進めて、雲雀の背中を追いかけた。

(どこに行くんだろう……)

迷いのない足取りは、目的地があるかのようだ。
いつ見失うかもわからない。連れ戻すための考えがあるわけでもない。
もしこの先何キロも歩いた先で、雲雀が全力でみちるを振り切ろうとすれば、みちるは迷子になってしまうだろう。
薄ら寒い想像に思い至ったみちるは、すっかり寒さに慣れたはずの寒空の下、ぶるりと肩を震わせた。

「何しに来たの?」

不意に、まっすぐに声をかけられ、みちるはその場に足を止めた。
顔を上げると、雲雀が数メートル先で立ち止まり、振り返っていた。
月とみちるの間にその姿はあった。まるで、月を背負っているかのようだった。
月光を背中に浴びる雲雀がこちらを向いているので、みちるからは雲雀の表情が判然としない。
声音からは、怒りは感じられない。呆れているのか、それともうっとおしいと感じているのか。みちるには、読み取ることはできなかった。

「み、みはっ……」

返事をしようとして、上手く説明ができないことに気付いた時には、もう口に出していた。中途半端な形で。
みちるの頭に浮かんだのは、ディーノの冗談か本気かわからないミッションの内容だった。
恭弥を見張っていてくれ――どう考えても、束縛を嫌う雲雀に通用するはずがない返答だというのに。うっかり、口にしてしまった。

「……見張る?」

雲雀の薄い唇が言葉を紡ぐ。
みちるはぎくりと心臓が跳ねるのを感じた。心拍がスピードを増す。

「きみが?僕を?」
「あ、や、…ええと………」

雲雀の表情はよく見えないが、目が合っている感覚だけはあった。
みちるは説明ができず、かといって言い訳もなく、ただ唇がはくはくと動くのみ。
おそらく、雲雀からはその表情がはっきり見えているのだろう。

「本当に、馬鹿だよね。きみって」

みちるの傍に歩いて寄ってきた雲雀が、美しく笑ってそう言った。
穏やかなその表情に、みちるは安心するような、それでいて理解が追いつかないような、奇妙な心地だった。
同時に浴びせられた言葉を、どう受け取ったら良いのかわからず、みちるは雲雀の顔をそっと見つめた。

「……そう、でしょうか」
「自分で考えなよ。僕を見張ったところで、きみにはどうにもできない」
「…………」

みちるは何も言葉を返せなかった。
雲雀の言う通りだ。自分には雲雀を説得する材料がない。どうしてディーノが見張ってくれとみちるに言ったのか、その真意をみちるは知らない。聞かなかったのだから。
自分の思いが何もない。それを自覚した瞬間、みちるは血の気が引くような感覚があった。
自分は、危なっかしい。守ってもらうばかりは嫌だと頭で考えていても、結局どこかで、近くの誰かに甘えているのだ。
今この瞬間、みちるは雲雀に頼り切っていた。彼が冷酷無比なだけの人間でないことを知っているから、話を聞いてもらえると勝手に期待していた。
たとえそれが雲雀恭弥という人間の一部で真実だとしても、みちるはずっと知っていたはずなのに。――彼の領域を侵す者に対して、彼が容赦しない人間だということを。

雲雀はもう笑ってはいなかったが、穏やかな表情でみちるを見ていた。

「答えられないのも、すぐに落ち込むのも、……少し、聞き分けがよくなったのも、出会った時は知らなかった」
「……?」
「馬鹿正直に反省するよね。初めて会った日のきみは、僕に歯向かってきたのに」

雲雀と、初めて会った日。
あの時のみちるは、雲雀という人間が理解できなかった。
群れる人間を嫌い、否定する彼の生き方が、“自分をひとりぼっちだと思い込んでいたみちる”には、どうしても受け入れ難かった。

「……ごめんなさい。あの時はわたし、雲雀さんのこと、知ろうともしなかったんです」
「今は違うの?」
「今は……」

あなたを知っていると、胸を張って言えはしない。
それでも、知りたいと思った。少しだけ、足を進めた。それだけは、みちるの中では確かなことだった。

「あの日とは、少し、違うと思います」

みちるのその言葉に、雲雀は僅かに目を細めてみちるを見た。

あの日みちるは、トンファーを向けられ震えていた。
顔を真っ青にし、自身を守ろうとした獄寺隼人を庇い、震える声で雲雀に反抗を示した。
間違いなく、拒絶だった。
自分の世界の平穏を乱されまいと必死に抗う、弱者だった。

みちるの自覚通り、今は違う。
理解し、歩み寄って、みちるの世界は拒絶をやめた。
雲雀の世界の中に遠慮がちに歩を進め、その中で、好ましいと思えることが増えた。

雲雀の正面のみちるは今、ちっとも雲雀を恐れていない。
雲雀もまた、もう、その事実に嫌悪はない。むしろ、ぞくぞくと高揚するような気持ちだった。

「……いいや、変わってない。きみはずっと、面白いよ」

みちるは雲雀のその言葉に一瞬固まり、そして遅れて「…えっ!?」と言葉を零した。

(お、おもしろい、かな……!)

俄かに混乱しだす頭の中で、みちるはふと、屋上で雲雀に会った日のことを思い出していた。
ヒバードと戯れ、歌声を聞かれ、恥ずかしさのあまり大声で反抗の意を口に出した。
隣で雲雀は笑い、みちるを見て面白いと呟いた。
変わった、成長した、そんなみちるが欲しい言葉を、雲雀はなかなか寄越してはくれない。

雲雀は一歩、みちるから離れると、再度振り返った。

「で、諦めるの?僕に見張りは必要ないけど」

みちるははっと目を見開いた。雲雀はまだ、どこかへ歩き去ってしまうつもりなのだろうか。
ふりだしに戻りそうな状況に、みちるはどうしたものかと逡巡する。

「あの……雲雀さんは、どうして外へ?」
「あんな人混みの中に、どうしてずっといたいと思うわけ」

雲雀の素早い返答に、みちるはぽかんと口を開ける。
そして、実に彼らしい内容に毒気を抜かれ、ほっとしたように微笑んだ。

「……そうですよね」
「何。きみもそうなの?」
「え、いや…わたしはそうじゃなくて……」

みちるのその返答に、雲雀は僅かにむすっとしたように眉を動かすと、とうとうみちるに背を向けてしまった。
みちるは慌ててその背中を追った。わたしが、外に出た理由。

「じゃあ、何?」
「…みっ、見張りです」
「………」

結局それか。
みちるは自分自身の答えに呆れつつも、眼前の雲雀の歩く速度が僅かに緩くなったのを見逃さなかった。

「……雲雀さん、わたしのこと、怒らないんですか?」

雲雀が群れるのが嫌いなことを、みちるはよく知っている。承知の上で追いかけている。
そんなことを、雲雀が許すとは思えない。雲雀は足を止めると、みちるを振り返った。

「きみが決めたんだろ」

一言それだけ言うと、雲雀はまた正面を向き、歩き始めた。




――わたしの考え方を否定する言われだってありません!

そんな言い方で、雲雀に啖呵を切ったのが、みちると雲雀の初対面だ。

変わっていない。
雲雀はやはり、そう考える。
あの日のような威勢の良さは、今はすっかり鳴りを潜めている。
だが、いつだってみちるが傷つく時は、自らの信念が否定されたと感じた時だ。
様々な人の思いを受容する度、みちるは揺れる。揺れるのは曲げたくない芯があるからで、みちるはそれに気付いていない。いつだって自分は空っぽだと思い込んでいる。

変わったとするならそれは他でもない自分のほうだと、雲雀は考える。
異物を――彼女を――受け入れたいと考えてしまった、その時から。

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