「明日の朝、日本へ発つぞ」

キャバッローネ邸の大広間で、向かい側に座すディーノから告げられた言葉。
つとめて明るい声音と穏やかな笑顔を浮かべたディーノの顔を、みちるはぱちぱちと瞬きをしながら見つめた。

「……何か、あったんですか?」

みちるはこくりと息を飲み込み、数秒黙った後、意を決したように口を開き、そう言葉を紡いだ。

「あいつら、頑張ってるみたいだぜ。こっからは人手が必要そうだからな、そろそろ俺も役に立たねーと」
「…………」

ディーノはあまり肝心なことを話してくれない。
ティーカップに伸ばした手が震えて、ソーサーががちゃんと耳障りな音を立てた。
ゆらゆらと揺れるレモンティーの水面を見つめたまま、みちるは手を伸ばすのをやめ、硬い表情で動きを止めた。

「みちる。万一の事態を避けるため、こっちからはあいつらに連絡を取ってないんだ。だから、お前がこうしてここにいることも、ツナたちは知らないはずだ」
「…はい」
「驚くだろうが、お前の存在は間違いなくあいつらの力になる。だから、そんな暗い顔するな?」

「心配しなくても、日本に着くまで、俺が必ず守ってやるから」と、ディーノは明るい笑顔を浮かべて言った。
みちるは目をまるくした後、つられてゆるりと笑顔を浮かべた。

「はい。心配してないです。よろしくお願いします」
「ははっ。そりゃよかった。今日は旅支度して早く休めよ」

ディーノは言い終えると席を立った。
彼には、自分よりずっと準備することがあるだろうとみちるは思った。当主がこの広いお屋敷を留守にするのだから。

「……随分、お世話になっちゃったな……」

ぐるりと周囲を見回すと、品の良い広間の内装が次々と目に飛び込んできた。
ここに来てから、もう二週間以上が経っている。
まさかこんなに長期間、この場所に厄介になるとは夢にも思っていなかった。
ショッキングなことを多く聞かされたものの、気にしなければ平和ボケしそうな程、穏やかな毎日だった。気持ちばかりが焦るだけで。

思えば、何もできない状況は以前と変わりがない。
敵を倒す力もなければ幻覚を操ることもできない。
ただほんの少しだけ、特殊な目と記憶があって、特別扱いしてもらっていただけ。
そう気付いた日から、自分に何ができるだろう、なんの価値があるのだろうと、自分に問いかけ向き合い続けた。そんな、異国での二週間余り。
何も持っていない自分でも、周囲の人たちは優しかった。守ってくれる大きな背中は、ずっと傍にいてくれた。

(明日、皆さんにお礼、言えるかな)

冷めてしまったレモンティーも、甘くて美味しかった。
綺麗に飲み干すと、みちるは席を立った。




「まぁシニョリーナ、今日はもうお休み?」

背後からかけられた声に振り返ると、笑顔を浮かべるイザベラの姿があった。
みちるはたちまち笑顔になると、イザベラのすぐ正面に駆け寄った。

「明日、さよならです。ありがとうございました」

イザベラが理解できる言葉で伝えようと、簡素な日本語を組み合わせてみちるは言葉を伝え、深々と頭を下げた。
イザベラはきょとんとした表情を浮かべた後、あっと気付いたようにポケットからスマートフォンを取り出し、何やら画面に指を滑らせた。
どうやら翻訳アプリのようだ。スマートフォンのマイクに向かってイタリア語で話しかけた後、みちるの眼前に画面を提示した。

『今夜は夜勤なの。会えてよかった』

画面の文字を読んだ後、みちるとイザベラは笑顔で顔を見合わせた。
イザベラがスマートフォンの下部を指差し、「どうぞ」と日本語を発する。合点がいったみちるはイザベラの手の中に向かって声をかけた。

『お世話になりました。あなたが大好き』

続いて表示されたイタリア語のメッセージの羅列に視線を走らせ、続けてイザベラがみちるの顔を見つめる。
みちるは少し照れたように笑って「グラッチェ」と言った。できるだけ丁寧に。

イザベラは再びスマートフォンに言葉を託した。
みちるは表示された言葉を読み、うんうんと力強く頷いて見せた。

『また会いましょうね あなたの友人はいつでもここにいる』

イザベラが広げた両腕の間に、みちるは躊躇なく飛び込んだ。
みちるの小さな身体を強く抱きしめながら、イザベラは「ありがと」と呟いた。




翌朝、まだ日が昇りきる前に、みちるはディーノとロマーリオの背中を追って、キャバッローネ邸を後にした。

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