ボンゴレファミリーを取り巻く恐ろしい状況を知りながら、打開策もないまま、のんびり過ごすつもりなど微塵もなかった。
だが、それでもだだっ広いキャバッローネ邸の中は、外を見ようとしなければ平穏そのもので、うっかりしていては時の流れを忘れてしまいそうになる。
ドン・キャバッローネのディーノは紛れもなく巨大マフィアのボスだし、若輩でありながらファミリーの財政難を立て直した優秀な人物だ。
だが、みちるにとっては気の良いお兄さんでしかなく、本人の言葉を借りれば「みちるにとっちゃ、俺はただの気さくな兄貴分でいいんだよ」とのことである。
「…………」
今日も絆創膏が増えている。
ディーノが長い指で腕をぽりぽりと掻いている。どうやら、最近こさえた傷跡付近が痒いらしい。
みちるはそんなディーノの挙動を目で追いながら、唇を真一文字に引き結んだ。
「あー、またむずかしい顔してんな」
「……それ、なんのお怪我ですか」
「これか?外の階段でうっかり転んだんだ」
いやそんなわけあるか。
みちるは心の中でだけツッコミを入れながら、ディーノの美しい顔を見上げた。
マフィアのボスの仕事の内容など、誰も教えてくれないのだからみちるは知る由もない。
贅沢にも、豪奢なキャバッローネ邸に軟禁状態のみちるは、文字通り箱入り娘、お金持ちのお嬢さんそのものだった。
何もしなくても誰にも怒られない……というよりむしろ、じっとしててくれと周囲がみちるに釘を刺しに来た。
少しでも外出の素振りでも見せようものなら黒スーツのディーノの部下がすっ飛んできて、重厚な扉の内側に放り込まれてしまう。
邸宅の庭にすら出られないのはさすがに堪えた。
やたらと立派な馬の彫像や噴水が部屋の窓から見えるというのに、もっと近くで見たいと言ったら、老齢の使用人に怒られてしまった。
退屈だ、なんて口に出しては困らせてしまう。
全てはわたしの身の安全を思ってのことなのだと、みちるは頭では理解しているが、心はざわついた。
もう未来に来て十日だ。何もしないにはあまりに長い期間だった。
「退屈だよなぁ」
ディーノは毎日みちるの部屋へ顔を出した。
忙しいディーノに遠慮しつつ、みちるの行動に目を光らせる使用人に心配無用と示すうちに、みちるはどうしても部屋にこもるようになった。
「とんでもないです!わたしのことは気にしないでもらって大丈夫ですから」
「俺が気になるの。お、それ見てたのか?」
ある夜、みちるの部屋にディーノから贈り物が届いた。
書斎に山と積まれた本の中で、みちるが興味を示しそうな本を数冊、若い女性のメイドに見繕ってもらったのだという。
「ここ!とってもきれいですね」
みちるがキラキラとした視線を向けていたのは、分厚いカバーの装丁の、イタリアの風景の写真集だった。
「それか。似たようなやつ、そこの本棚にもあったぜ」
「はい、やっぱり未来のわたしも好きなんですね」
みちるの部屋の本棚にちらりと視線を走らせて、ディーノは笑った。
みちるが指差してディーノに見てほしいと促したのは、雲海の中に佇む古城のような、絶壁の街だ。
「チヴィタ・ディ・バーニョレージョ。中部の古い街だよ」
「すごい、ここ。行ってみたいなぁ」
ディーノはみちるの言葉を聞くと、快活に笑った。
「みちる、実はそこ、行ったことがあるんだぜ」
「えっ?」
誰が?と首を傾げるみちるに、ディーノは「未来のおまえが」と言った。
「え!?そうなんですか!?」
「おぉ。留学より前だから、まぁ、ハタチくらいの頃かな?」
未来のみちるは、大学からイタリア語の勉強を熱心にしていたという。
もともとボンゴレやディーノとの交流から、イタリアは果てしなく遠い国ではなくなっていたみちるが、旅行先にイタリアを選ぶのは自然だった。
「イタリア語を勉強して……こんな遠い国で、一人で旅行を……」
みちるは未来の自分とはいえ、自分の行動の大胆さが信じられず、憧れのチヴィタの風景写真を見つめながら目をきらきらと輝かせた。
自分の非力さを悔やむ瞬間は多い。
そして、目の前で努力し、それを乗り越えていく友人をずっと見てきた。
わたしにも、少しはできるようになるのだろうか。
努力が報われ、自分のことを好きになったりできるのかな。
みちるが嬉しそうに写真を見つめるのを、ディーノはあたたかな眼差しで見下ろしていた。
「まぁ、一人じゃないんだけどな」
「え?」
みちるはハッとして顔を上げた。
じゃあ俺はシャワー浴びてから仕事に戻るわ、と言いながら、ディーノは既にみちるに背を向けていた。
「え、あ、遅くまで、お疲れさまです……」とみちるがディーノの背中に言葉を投げると、ディーノは振り返って手をひらりと振った。
「……あっ。一人じゃないって、旅行が!?」
一人きりの部屋でみちるが叫んだ。気付くのに時間差を要した。
それって、かなり重要な情報ではないだろうか。
みちるはわたわたと廊下に飛び出し、ディーノの背中に声をかけて尋ねた。
「ディーノさん!イタリア旅行、わたし、誰と行ったんでしょうか」
顔をみちるのほうへ向けたディーノは上品に笑っていた。
「さてなぁ。おまえは、いったい誰と行くんだろうな?」
「え…?」
「きっと、いい未来が待ってると思うぜ。俺の知ってるおまえみたいに」
聞きたい答えとは全然違う返事だった。
みちるは呆然と、再び背を向けたディーノの後ろ姿を見つめて立っていた。
一緒に旅行に出かける、親しい間柄の人物。友人?両親?それとも恋人?
何もかもが、これからなのだと気付く。10年後の未来にいるのは、わたしではないのだ。
「……過去に………」
過去に――。
みちるは、それ以上の言葉が続けられなかった。
過去に帰りたい。その感情が、一瞬喉に詰まった。
あまりにも安穏とした日常。さみしさはある。不安も恐怖もある。
過去に帰って、14歳の自分の時間を、また始めなければならない。
だが今帰ったとして、過去には、ツナや獄寺や山本はいない。
未来の自分がどうしているか、少しだけ、この未来の日常の中で、教えてもらったけれど。
それが正解かどうかは、未来の自分にしかわからない。後悔しているのか、幸せなのかも。
そしてそれを尋ねる術はない。
(……平和で幸せな未来だといいなって、思うよね。もちろん、誰だって)
だって自分が、いずれそこを生きていくのだから。
みちるは廊下に立ち尽くしたまま、考えを巡らせ、ふとひとつの考えに行きついた。
――正くんはどうして、怯えながら、10年バズーカを山本くんたちに当てたのだろう。
彼らを未来に送り込む理由があったのだ。
ボンゴレを取り巻く未来がこの惨状である。
どうしてそこへ、10年後のボンゴレファミリーも存在する世界へ、わざわざ中学生の彼らを送り飛ばす必要があったのだろう。
まさか正一が、未来を知っていたとは思えない、そんなこと誰もわかるはずがない……
(……10年バズーカを自分に撃つことって……ありえる。ランボくんがそうだ)
みちるは考え続けた。
偶然通りかかった使用人に心配され、部屋で休むよう言い渡されるまでずっとその場で。
正一は、きっと未来で何かを知ったのだ。
そして、過去で行動を始めた。……きっと、未来のために。
だが、今の彼は敵対するファミリーの中心人物であるし、10年前にボンゴレと接触があったかといえば、みちるの知るところではない。
「………力になれたら、よかった……」
10年前の彼と接触できる可能性があるのは――他でもない自分じゃないか。
思い出す度に、胸が締め付けられる。
14歳の正一の悲痛な表情。
久しぶりに会った彼は、幼なじみの思い出の中の彼より、ずっと大人っぽくなっていた。
久しぶりと言って笑って、話がしたかった。もし、許されるのであれば。
ボンゴレを憎むファミリーの人間と、また笑い合える日など来るだろうか。
みちるは扉の内側で、ずるずると床に座り込んだ。
さみしい。
助けたい。
甘えるんじゃなく、戦いたい。
「会いたい」
沈んだ心に問いかける。
わたしは、誰に会うのだろう。そして、何ができるだろう。
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